「ケーススタディ報告会」~プロジェクト固有のELSI論点を探して~
2024年3月11日
2024年3月11日(月)、JST RISTEX「ゲノム倫理」研究会によるケーススタディ報告会が開催された。
ケーススタディは、JST/ CREST「ゲノムスケールのDNA 設計・合成による細胞制御技術の創出」領域の2つのプロジェクトを対象にELSI論点を抽出・深掘りするもので、 2023年度に初めて実施された試みである。対象となったのは、市橋プロジェクト(研究代表者:東京大学大学院総合文化研究科 市橋伯一教授、研究課題:「自己再生産し進化する人工ゲノム複製・転写・翻訳システムの開発」)と末次プロジェクト(研究代表者:立教大学理学部 末次正幸教授、研究課題:「人工ゲノムのセルフリーOn chip 合成とその起動」)である。
この日は「ゲノム倫理」研究会のメンバーである東京工業大学生命理工学院 田川陽一准教授がケーススタディの意義や方法、考察を交えた報告を行った。
ケーススタディ報告① 背景と方法
ゲノム関連技術の進展に関わるELSIの論点を研究開発に携わる研究者とともに抽出
田川准教授は、このケーススタディの背景として、ゲノム関連技術の研究開発の急激な進展は、様々な領域に大きなメリットをもたらす可能性がある一方、社会への実装を考えた際には生命や種、生態系に対してネガティブな影響を及ぼす恐れがあること、また、JST RISTEX「ゲノム倫理」研究会では、ゲノム関連技術と社会のための倫理の考察や、調査・研究活動を行っていることを説明した。
ケーススタディの流れは図1の通りで、「ゲノム倫理」研究会のメンバーが2023年8月後半に市橋プロジェクトと末次プロジェクトのメンバーと第1回ワークショップを開催し、研究室も見学。また、別途、市民グループにオンラインインタビューを実施し(手順と参加者は図2)、その結果を踏まえて第2回のワークショップを開催した。そして、12月に2つのプロジェクトの合同でのワークショップを実施した。
図1
図2
ケーススタディ報告② 市橋プロジェクトのELSI論点抽出
市民の感覚的な生命観を踏まえ、市民は何を知る必要があるのか、多様な関係者が協働するにはどうするかがELSIの論点
第1回個別ワークショップでは、プロジェクト代表者による研究紹介の後、「ゲノム倫理」研究会で作成されたELSI論点マップ(ELSI論点マップ2022「研究対象との関連性におけるマップ」を用い、ELSIの論点になりそうな点を抽出した(図3)。
市橋プロジェクトでは、「人工細菌は生物か生物ではないか?」「そもそも生物とは何か?生命とは?」という疑問が出された。さらには、「技術がどの程度広がってきたところで規制を敷くのか」「技術が保護されすぎていると使いづらい」「“遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の多様性の確保に関する法律”(通称「カルタヘナ法」)を知らない研究従事者が技術を扱うことの是非」「生き物らしさとして見た目と構造のどちらを重視するか」といった論点が抽出され、中でも「市橋プロジェクトの成果物が遺伝子組換え生物としてカルタヘナ法の対象になるのか、ならないのか、ならないとしたら、安全や拡散防止等の必要性や対策を研究者が自己判断することになるのか」「一般の方は細菌などを生物と思っているのか」という点が注目された。
また、市橋プロジェクトが目指すシステムによって将来的に食料が人工物で代替しうる可能性があることから、市橋教授から「あらゆる地球上の生命体を犠牲にすることなく、人類が生きるためにはどうしたらいいか」という話題提供があった。さらに、このシステムの呼称について、“人工細胞”がふさわしいのかについても議論された。
図3
市橋プロジェクトでインタビューに参加した文系学生3名、文系・理系学生4名の2グループからは、市橋プロジェクトの成果で食料が生産できるようになった場合、「人工的な食料の場合、そもそも食育ができないので、文化の教育機会の喪失という側面も考えられる」「殺生をしないことは本当にいいことか、生態系の全体のシステムとして共倒れにならないか」また、「生き物とは動物や人間のように動いて頭を使っている存在であり、研究で生み出されるものは生命ではないと思っている」といった意見が出された(図4)。
このグループインタビューの結果を受け、田川准教授は「市民の生命観は感覚的に判断され、法律やアカデミアの定義とズレがあるという印象を持った」という。第2回個別ワークショップでは、このような市民の生命観のありようをベースに、「人工生化学システムについて市民は何を知る必要があるのか」「ゲノム合成の関係者が相応の責任を持ちながら協働するにはどうしたらよいか」という点が最終的な論点として挙げられた(図5)。
図4
図5
ケーススタディ報告③ 末次プロジェクトのELSI論点抽出
“ゲノム合成”という言葉の認知やブランディング、主要な関係者の利害や利益相反の調整などがELSIの論点となりうる
末次プロジェクトの研究は細胞を使わない人工ゲノム合成法であるため、“生物”を対象とするカルタヘナ法は適用されず、研究者が安全・倫理等を判断することになる。想定されるELSI論点は、例えば、「誰もがウイルスを作製できてしまう」というDIYバイオの問題、「長鎖DNAにする技術は現時点ではハンドリングが非常に難しい」という技術的な問題、末次教授が興した企業がモデルナ社に買収され、「大企業が一気に投資して研究が進められてしまう」点、また、「知財や遺伝子組換え農作物の安全性などへの理解促進」が挙がった(図6)。
図6
市民グループインタビューは、理系学生3名、DIYコミュニティ7名、学生と弁護士など5名の3グループで実施され、「多くの研究者がどのような形で研究を社会に還元していくのか考えていない。一般市民に対して研究を翻訳する人材が必要」「悪用を防ぐということと海外資本に買われるということは一見相反するようで、バランスを取るのが難しい話」といったコメントが見られた(図7)。
第2回個別ワークショップでは、このような意見を受けて、日本としてゲノム合成研究を進める意味、主要な関係者の利害や利益相反の調整、また関係者の協働、“ゲノム合成”という言葉の認知やブランディングが論点として挙がった(図8)。田川准教授は「買収した企業の意図、この技術をその後どのように扱ったかが問題になる」と話し、「今後、このケーススタディのように研究者間の話し合いが継続されるとよい」と希望を述べた。
図7
図8
ケーススタディ報告④ 合同ワークショップ
研究者と社会の間に存在する“人工細胞” “人工生命体”のイメージのズレ。それをどう埋めていくのかが鍵
各プロジェクトのワークショップで挙がった論点を持ち寄り、2023年12月に合同ワークショップが実施された。「ゲノム倫理」研究会メンバーに加え、市橋教授、末次教授、CRESTの塩見春彦研究総括(慶応義塾大学医学部 教授)、市民グループインタビューの参加者のうちの3名も参加、活発な議論が行われた。
ゲノム合成技術のELSIに関連しては、図9と図10にあるように、ゲノム合成によってできるものが“物質”か“生命”か、“自然”と“人工”をどう捉えるかがポイントであり、それに関してどのように社会とコミュニケーションを取り、研究ルールや規範を形成していくのかの議論が必要との意見がでた。そして、「ゲノム倫理」研究会では、イノベーションや規制を議論する共通の土台を構築し、意見のすり合わせやエッジの効いた論点を残したうえで、規制の議論や市民との対話を進めることが大事であるとまとめられた。
田川准教授は「“人工細胞”あるいは“人工生命体”のイメージの研究者と社会とのズレをどう埋めていく必要があるのかがポイントとなりそうだ。現在は“物質”“人工”寄りに位置づけられるゲノム合成研究も“生命”側に発展する可能性があり、個人的には、その際の規制や倫理観について考えることができた」と話し、報告を締めくくった。
図9
図10
ディスカッション
ケーススタディの成果とともに今後の進め方も話題に。生命観の変化とともにゲノム倫理のあり方も変わっていくべきという意見も
ディスカッションは、「ゲノム倫理」研究会メンバーの慶應義塾大学 理工学部 見上公一准教授が進行を務めた。
まず、ケーススタディの対象プロジェクトの代表者である市橋教授は「自分たちの研究が生命倫理に反すると批判される可能性を危惧していたが、市民インタビューでは、バクテリアは生命であるが尊厳は存在しないという意見が多く、安堵した」と話した。また、「ゲノム倫理」研究会との議論で「生き物に近いものとアピールする分、規制に巻き込まれる可能性がある“人工細胞”という呼称よりも“人工生化学システム”の方が社会に受け入れられやすいと提案いただいた。有益な会議だった」と振り返った。
末次教授は、「市民や社会という漠然としたマスに説明するのは難しい。“バクテリアや細菌は生き物ではない”という考えや“ゲノム合成でヒトは作れるのか”といったイメージに対して真意は伝わりにくいと感じた」とコメントした。
塩見研究総括は、このような活動を通して、研究が地球レベルの課題を解決することに繋がるのだと発信し、研究への支援や共感を得ることが重要であると強調した。
参加者からは、合成生物学は今までのいわゆるゲノム組換えとは異なるアプローチであること、それによって“生物”の新しい捉え方が出てきてもいいといった意見、ゲノムに対する考え方もヒトゲノム解読が行われていた20〜30年前とは変わっており、ゲノム倫理のあり方自体も変わっていくべきといった意見が出された。
また、CREST/さきがけ「ゲノム合成」領域 評価委員のXenolis Technology、Co-Founder、平尾一郎先生からは「倫理の問題と安全性の問題を分けて考えるべき。例えば、新しいバクテリアが生物か無生物か、倫理的に良いか悪いかの答えは出ない。安全性に対策している旨を示すのが大切」との発言があった。それに対し、田川准教授は「安全性はデュアルユースのような倫理課題と関連する。実務的な安全性だけではなく、例えば500年後とか1000年後とか、あるいはもっと先に人類がどうなっているか、地球がどうなっているかを考えるのが倫理ではないか」と述べた。これを受け、見上准教授は「安全性のあり方もケーススタディの中で研究者と一緒に議論をできるのでは」と提案した。
ディスカッションのもう一つの議題は、来年度の活動内容である。「ゲノム倫理」研究会のメンバーである京都大学 iPS細胞研究所 上廣倫理研究部門の三成寿作特定准教授は「多くの研究領域にはELSIに関して共通する論点があり、それをまとめると今後の議論が進みやすい。書籍を出版してはどうか」と話した。
CREST/さきがけ「ゲノム合成」領域 評価委員3名からのコメント
研究者にも一般市民にもELSIの議論は重要。ケーススタディは有意義な取り組み
最後に、この報告会に参加したCREST/さきがけ「ゲノム合成」領域 評価委員の3名がコメントした。京都大学高等研究院 谷口雄一教授は「研究者の立場では思い浮かばない論点に対して、研究者の方々も含めて積極的に議論されていたのが印象的。倫理の複数の側面を実感できた。意義深い取り組み」と述べた。平尾一郎先生は、アカデミアを離れてビジネスの世界にいる立場として、「ビジネスの場で安全性などの基礎研究がおろそかにされていることを危惧する。会社は利益優先になるので、研究者自身は契約書をしっかり作って確認することが重要」と強調した。神戸大学大学院医学研究科幹細胞医学分野 青井貴之教授は、「このケーススタディのような取り組みが日本にあることを心強く感じる。倫理は一般市民だけのものでもなく、専門家のものでもある。その間を繋ぐものとして、一般市民が議論の前提として役立つ知識を深められるよう、ELSIの専門家が論点を整理していただけると、研究に対する理解が深まり、議論が前進する」と提案した。
見上准教授は「安全性に関しては、現在の安全性のあり方が最適かどうか、また個別の事例でどのように行われているかの確認が必要で、今後、研究の知識が広がっていくことで安全性を担保する仕組みが整っていない場での研究が始まるかもしれない、そういったさまざまな可能性をこういうケーススタディで議論できれば」と締めくくった。