社会技術研究開発センター センター長 小林 傳司
RISTEXでは、過去20年にわたって、多様な知の組み合わせによる社会課題解決の研究開発に取り組んできた。これらの取り組みは、現代風に言えば、「総合知」創出の実践例と位置づけてもよいものではないだろうか。少なくとも、当初から意図していたとまでは言えないにせよ、結果的には、自然科学と人文・社会科学の学際研究で社会との共創をこころみるトランスディシプリナリー研究(transdisciplinary research)を実践してきたと表現できるだろう。この辺りの事情を、後段で説明してみたい。
多様な知の組み合わせによる取り組み事例
多様な知の組み合わせによる取り組み事例をいくつか紹介する。ここでは取り組みのタイトルと組み合わせた知についての簡単な情報を列挙するにとどめるが、詳細はRISTEXのWEBサイト(「RISTEXの総合知による取り組みについて」)で説明されているので、是非参照いただきたい。
1. 「多様な知の組み合わせ」による「社会課題解決」の研究開発事例
社会課題の解決を掲げ、研究者と社会の問題解決に取り組む「関与者」(ステークホルダー)が協働するためのネットワーク構築を支援し、学問知だけでなく現場知も活用した研究開発を実施している。
- 養育者支援によって子どもの虐待を低減するシステムの構築
(自然科学×人文・社会科学×自治体・医療・児相・NPOなど) - 発達障害者の特性別評価法(MSPA)の医療・教育・社会現場への普及と活用
(学術知×病院・学校・保育) - 分散型水管理を通した、風かおり、緑かがやく、あまみず社会の構築
(自然科学×人文・社会科学×多世代の地域住民・団体) - 人工知能と人間が支え合って暮らすための新たな社会システムの考案
(自然科学×人文・社会科学)
2. 「多様な知の組み合わせ」による研究開発を実現するためのマネジメント事例
上記のような研究開発を公募する枠組みそのものに、多様な知の組み合わせを具体化するしかけを明確に入れている場合もある。
- SDGsの達成に向けた共創的研究開発プログラム(シナリオ創出フェーズ、ソリューション創出フェーズ)
(「研究者」×地域で課題解決にあたる「協働実施者」による共同提案) - 科学技術イノベーション政策のための科学 研究開発プログラム
(「研究者」×政策課題を抱える「政策形成者」の連携・協働) - SDGsの達成に向けた共創的研究開発プログラム(社会的孤立・孤独の予防と多様な社会的ネットワークの構築)
(学術的研究×予防施策を講じる実際の現場での実証と施策化の一体的推進) - 科学技術の倫理的・法制度的・社会的課題(ELSI)への包括的実践研究開発プログラム
(自然科学の研究者×人文・社会科学の研究者×社会の多様なステークホルダーが協働したELSI対応を実践)
このようにRISTEXは設立当初から、書斎に閉じる学問、実験室に閉じる学問ではなく、成果が社会で活用される場面の創出までを視野に入れた研究を求めてきた。しかしこれは容易なことではない。とはいえ、少なくとも、知識のユーザー(社会的課題の解決を求めている人々)を巻き込み、彼ら彼女らの求めに耳を傾けつつ研究開発に取り組むための工夫を凝らしてきたことは確かである。海外でも同様の発想が「トランスディシプリナリー型」の研究や活動として実施されている。
RISTEXのキーワード
これまでRISTEXで展開してきた事業に関連する、幾つか重要なキーワードをあらためて見直してみたい。
1. 「社会技術」
まず、RISTEXのセンター名に含まれている、極めて重要な概念である「社会技術」という言葉をみてみよう。RISTEXがかかげる「社会技術」の意味するものは、「自然科学と人文・社会科学の複数領域の知見を統合して新たな社会システムを構築していくための技術」であり、社会を直接の対象とし、社会において現在存在しあるいは将来起きることが予想される問題の解決を目指す技術」である。この文言は、社会技術の研究開発の進め方に関する研究会『社会技術の研究開発の進め方について』平成12年12月22日に登場するものであり、そこでの議論の背景や経緯については、研究会の座長を務めた吉川弘之氏との対談を見てもらいたい。
ちなみに、近年の研究テーマの中で「社会技術」という言葉がどのように使われているかを知るために、JDreamIIIで検索してみたところ、上記の意味で「社会技術」を使用しているものは、散見されるにとどまる。ほとんどはsociotechnical system(STS)理論、あるいはsocio-technological valuesなどの日本語訳として出てくる(2010年以降で2千以上)。厳密には悉皆的な調査が必要であろうが、残念ながら我々の掲げる意味での「社会技術」という概念は、まだ十分な市民権を得ていないというべきであろう。
2. トランスディシプリナリー研究(TD研究、TDR)
トランスディシプリナリー研究とは、「自然科学分野と人文・社会科学分野との学際的連携と、アカデミア以外の多様な関係者との共創を指す」研究であり、「超学際研究」と訳されることがあるが、これは学際研究の拡張版であるかのような誤解を生みやすいため、JST・研究開発戦略センターが、CRDSOECD科学技術イノベーションポリシーペーパー(88号)の日本語仮訳で使用している「学際共創研究」という表現を使用したほうが適切であろう。知識のユーザーを研究のステークホルダーと位置付けて、共創的研究を展開することを意味しているからである※1。
RISTEXが推進している、社会課題解決に向けた研究開発は、その課題にさまざまに関与するステークホルダーとの共創を重視しているため、程度の差はあれ、広義のトランスディシプリナリー的な研究開発といえる。とりわけ、平成14年/2014~令和元年/2019までRISTEXで公募研究を実施したFuture Earth構想の推進事業では、明示的にトランスディシプリナリー研究の方法論開発を掲げ、さまざまな地球規模課題に取り組んできた。
なお、JDreamIIIで「トランスディシプリナリー」を検索してみると、上記のFuture Earthや総合地球環境学研究所における地球環境課題への取り組み、上記のJST・CRDSが従事しているOECDにおけるトランスディシプリナリー研究の検討などが出てくるほか、医療・介護系の研究や、SDGsと結びついたものも見受けられる。そもそもトランスディシプリナリー研究は医療・介護系の分野で始まったものである。そこでの洞察は、知識の生産者(医学・医療専門職)だけではなく、その知識が活用される現場(医療現場)、そして利用者(患者やその家族等)の観点を取り込んだ研究開発の必要性、というものであった。したがって、社会的課題解決全般に拡大されることは、ある意味で必然といえよう。
トランスディシプリナリー研究に関する政策動向や、今後のトランスディシプリナリー研究の推進の重要性については、有本建男氏や小林信一氏との対談記事を参照していただきたい。
3. 文理融合
「文理融合」は、高等教育政策、科学技術政策で繰り返し話題になるテーマである。例えば最近「文理融合研究」に焦点を当てたものとしては、日本学術会議 総合工学委員会 科学的知見の創出に資する可視化分科会(2020)の報告がある。
この報告は、「ICT時代の文理融合研究を創出する」ことに関して、文理融合研究の重要性が謳われていても、実際には、共通の研究対象を扱う程度の文理「連携」レベルにとどまるものが多いと指摘したうえで、「一方、近年、理系文系を問わず研究対象データが複雑化・ビッグデータ化しつつあり、理系と文系の両方の強みを活かした本来の意味での文理融合研究が必須となっている」としている。そして具体例としては、「文化財のデジタルアーカイブ化」や「心の可視化」などが挙げられ、「文理融合研究を行う場合、…「文系」の学問と…「理系」の学問の目指すところの違いを理解」し、「両方にWin-Winの成果をもたらすものでなければ、真の文理融合研究は成り立たない」こと、また、文系の学問でも新規性は重視されるが、それは、「知識の新たな体系化あるいは新たな視点での智の再構築といった側面が強い」ため、データベースの構築、可視化が重要になることなどが述べられている。
この分科会のうち、情報系の研究者が主たるメンバーであるICTの小委員会では、情報系の研究が文系/理系の区別になじまず、むしろ全ての学術に入りこむ点で特殊な分野であり、従来の学問で言うと数学に若干近いという認識を示し、情報学を第四の科学(米・計算機科学者のジム・グレイ(Jim Grey)は「4th Paradigm」とまで言っている)とみなすべきだと主張している。この辺りについては、今後、科学論的な観点から十分な検討が加えられるべき論点であろう。
情報(科)学の汎用的性格が「文理融合」の議論を誘発していることに加え、近年の科学技術政策の方向性からの「文理融合」への期待についても触れておくべきであろう。21世紀になって、各国の科学技術政策がイノベーション政策に力点を置くようになったことは周知のとおりであるが、日本ももちろん例外ではない。しかもイノベーションの理解が、従来の理工系的な科学技術的な成果の社会への投入(シーズプッシュ)型から社会の期待への対応(ニーズプル)型へと変化したことにより、「社会実装」がキーワードとなる状況の下、人文社会科学への期待が高まってきている。この文脈の下でも、その内実が十分詰められているとは言えないが、「文理融合」的研究の重要性が喧伝されていることは確かである。
さらに、SDGsに代表されるような社会的課題の解決にあたっても、理工系的科学技術だけで対応はできないという理解は広まっており、文理融合への期待は膨らんでいる。第六期科学技術イノベーション基本計画において頻出する「総合知」の概念は、この文脈において理解すべきであろう。
社会科学においては、近年、このような問題意識を持った新しい動きとして、「実験政治哲学」、「計算社会科学」、「実験社会科学」といった取り組みが始まっている。ナッジ概念で知られるようになった「行動経済学」なども含め、文理の壁のみならず、従来の個別学問の境界を越えた知の展開が生まれ、現代社会の諸問題への対応を目指していることにも注目しておきたい。RISTEXはその意味では社会的課題解決のための「文理融合」的研究の先導的役割を果たしてきたと言えるだろう。
4. 総合知
総合知は第六期科学技術・イノベーション基本計画で使用されている表現である。そこでは、「人文・社会科学の振興と総合知の創出」(第6期基本計画);「社会的価値を生み出す人文・社会科学の「知」と自然科学の「知」の融合による「総合知」」(科学技術・イノベーション基本計画について(答申素案));「今後は、人文・社会科学の厚みのある「知」の蓄積を図るとともに、自然科学の「知」との融合による、人間や社会の総合的理解と課題解決に資する「総合知」の創出・活用がますます重要」(第6期科学技術・イノベーション基本計画)といった表現で記載されている。また、総合科学技術・イノベーション会議の木曜会合(CSTI)においてその内実についての検討が行われているが、その具体的に意味するところについて明瞭になっているとはいいがたい状況であり、検討の進展を待ちたいと思う。
参考までに、2010年以降の論文等を「総合知」で検索(@JDreamIII)すると、2021年に「総合知」を扱った論文等が幾つか出てきている。産学官学連携に関するもののほか、スポーツ科学の学際総合知※2や、日本ロボット学会誌掲載の瀬名秀明氏の講演「ロボティクスと総合知」(英語ではwissenschaftとしている)といったものなどが目に付く。しかし、総合知は、そもそも新しい言葉ではなく、以前よりさまざまな研究テーマの表現に使用されている。例えば、総合知によるまちづくり(2017年)※3、「公園専門家への教育・研修」に総合知が重要という指摘(2016年)※4、「原子力規制委員会による新規制基準」について、総合知に基づく検討が重要であるという指摘(2015年)※5、「総合知による装置管理の効率化」(「総合知」「暗黙知」がキーワードになっている)(2014年)※6、ケミカルエンジニアリングのパラダイムシフトという話のなかで「総合知」が使われているもの(2012年)※7もある。
いずれにせよ、ここで表現されている知の形態は、新たなディシプリンとしての体系性を持つ総合「知」というよりも、多様な分野が共創、連携するプロセスを表現する「総合」知と考えるべきではないだろうか。
※2 深代千之「未来を変える体育・スポーツ科学 学際総合知の中のバイオメカニクス研究」体育の科学 Vol.70 No.1 pp41-45 (2020)
※3 飯島勝矢「高齢社会のまちづくり フレイル予防のまちづくり」地域開発 No.618 pp.13-16 (2017)
※4 進士五十八「都市公園の使われ方 都市公園の可能性を広げ深めるために」都市問題 Vol.107 No.12 pp.48-54 (2016)
※5 青柳榮「原発再稼働を前に検証!万全を期したPWRの安全対策」 エネルギーフォーラム No.722 pp.92-93 (2015)
※6 玉木悠二・武田和宏「総合知による装置管理の効率化」化学工学論文集 Vol.40 No.3 pp.156-161 (2014)
※7 小松昭英「ケミカルエンジニアリングにパラダイムシフトを」化学工学 Vol.75 No.13 pp.247-249 (2012)
「社会技術」概念の背景と「総合知」
このように理解した場合、「社会技術」と「総合知」は明らかに関連ある概念と思われる。しかし、「総合知」についての議論はこれから深まるものと予想し、ここではRISTEXが取り組んできた「社会技術」に引き付けて「総合知」という考え方に期待する点を述べておきたい。
最初に、RISTEXの掲げる「社会技術」という言葉の誕生をめぐっては、いくつかの背景があったこと、そして紆余曲折があったことに触れておくべきであろう。一つには、冷戦終了後、21世紀の科学はどのような在り方を目指すべきかという議論が、世界の学術界で行われたということである。とりわけ、国家威信のための科学がそれなりの存在理由を持ちえた冷戦構造が崩壊したことにより、改めて「何のための科学か」という問いが浮上したのが20世紀末であった。その時期に浮上した考え方が科学の「利用(use)」への着目であった。1999年の世界科学会議において発出された「科学と科学知識の利用に関する世界宣言」というタイトルがそれを象徴している。この「利用」という考え方を日本語で表現しようとして生み出されたのが、工学由来の課題のとらえ方、解決策へのアプローチであった。当初、「社会工学」という言葉も検討されたが、既に別の含意を持つ言葉として使用されていたこともあり、RISTEXは「社会技術」を採用した。
国内的な事情としては、省庁再編問題があった。2001年の再編による文部省と科学技術庁の統合を前に、今後の科学技術政策を検討する動きが色々あったという。その中には「安全・安心」をめぐる研究(後に社会技術研究システムにおけるミッション型研究の一つにつながったと思われる)、新たな「基礎研究」の在り方、社会課題解決型研究、といったものが議論され、「公共技術」という言葉も出ていたという。しかしこの用語は土木工学系のイメージが強すぎるとして採用されなかった。しかし、そもそも土木工学はcivil engineeringの苦し紛れの訳語、つまりcivilを翻訳できなかった日本の歴史を示す訳語であり、この西洋語の本来の意味を拡張して理解すれば、「社会技術」が目指すものを表現していたかもしれない。いずれにせよ、この議論を当時主導した工学系の人たちの持つ、物事を変えること、変化を起こすこと、解決することへの強い意識が反映された言葉だっただろう。
言葉の問題はその後も尾を引き、英訳の際、sociotechnology、あるいはsocial technologyといった表現では、特定の政治的含意を持つように誤解されるといった懸念から、検討が重ねられることになる。最終的に、日本語では「社会技術」とされ、英語名称として直接の翻訳はなされず組織としてのセンターの英語名称を、ブダペスト宣言で使用されている「science and technology for society」としたという経緯がある。RISTEXの社会技術の発展については、センター長を長年務められた有本氏との対談を参照していただきたい。
総じて、RISTEXで行ってきた社会課題解決に向けた社会技術は、どのような知を組み合わせることが社会技術なのかといった定型的な方法論を明確に持っているわけではない。むしろ、獲得目標、つまり何のために研究開発をするか――ウェルビーイング、社会的・公共的価値の創出など、その時代において重要とされてきた社会課題によって異なるミッション――を明らかにし、その目的に対してどのような方法論が必要かを検討し、それにかなった研究開発支援をしていくというスタイルに特色がある。おそらく、21世紀になって強まった、科学技術のuseを考えるという発想が「社会技術」を生み出したのである。そして「総合知」も同じ発想のもとにあるのではないだろうか。
学術の転換期と「総合知」というキーワード
あらためて、科学技術イノベーション基本法の3条(科学技術・イノベーション創出の振興に関する方針)を見てみると、今、なぜ「総合知」という言葉が必要となっているかのヒントが見えてくる。例えば、5に、「科学技術・イノベーション創出の振興は、全ての国民が科学技術及びイノベーションの創出の恵沢をあまねく享受できる社会が実現されることを旨として、行われなければならない」とあり、これは明らかに、「誰一人取り残さない」というSDGsに示された理念を念頭に置いているように見える。また、6として以下の記載がある:
一 少子高齢化、人口の減少、国境を越えた社会経済活動の進展への対応その他の我が国が直面する課題
二 食料問題、エネルギーの利用の制約、地球温暖化問題その他の人類共通の課題
三 科学技術の活用により生ずる社会経済構造の変化に伴う雇用その他の分野における新たな課題
これが「総合知」の根拠となっている部分だろう。
こうした新しい意味が込められた言葉や、上でみてきた、「社会技術」、「トランスディシプリナリー研究」、「文理融合」のような、さまざまな言葉が混在している現状は、学術と社会課題の関係が変容し学術が転換期を迎えていることを示しているように思われる。科学のuseという発想が顕在化せず、ブダペスト宣言に言う「知識のための科学」という表現のみで説得力を持ちえたマートン的科学観※8が揺らぎ始めたのは、おそらく1970年代以降であり、それがより明確になるのが1990年代以降と言えるだろう。また、先に触れたように、この頃には従来の科学とはかなり様相の異なる情報科学が急速に発展してきたことには留意すべきであろう。
そして、21世紀になると、社会課題の解決への貢献という要求が、科学に押し寄せ、それに応じてファンディングの構造が変わり始める。もはや古典的な意味での研究の自由という概念を掲げるだけでは社会や政治の科学への支援は期待できなくなってきている。他方、研究ディシプリンの細分化はとめどなく進み、科学研究の全体像の把握はほぼ不可能になり、しかも複雑で困難な社会課題には十分対応できなくなっている。それを補うための検討や努力の結果、さまざまな言葉が提示されてきているが、それらが指し示そうとしている「何か」が結晶化しきれておらず、そのため種々様々な表現が試されており、それらが混在しているのが現状なのではないだろうか。「社会技術」や「総合知」もその「何か」の一例であろう。
その「何か」のルーツを考えると、新しい言葉づかいが模索され始めた1970年頃に出てきた「トランスディシプリナリー」や「エビデンス・ベースト・メディシン」といった医療を起源とする言葉が思い浮かぶ。これは、エビデンスに裏付けられた知識を生産する医学研究者と、その知識を使う医療専門職とさらにはその知識を適用される側である患者や患者家族、患者団体と一緒に取り組まないと医療が進まないという問題意識に端を発するものである。医療は、物理学を典型とするような科学の側面とそれを超えた部分を含んでいる。「治す」という目的の下で知識を使う(use)という営みを本質的に伴うのが医学であり、「人間生物学」に還元できないのである。ここでも知識のuseが問題となる。
「テクノロジー・アセスメント」もその頃出てきた考え方で、こちらは、科学の利用(use)が恩恵を生み出すというという側面だけを強調する楽観主義への懐疑が生まれてきたことを示している。それが、21世紀が近づくにつれ、環境問題のような従来のディシプリン・ベースでは歯が立たない問題が認識されるようになり、結果、フューチャー・アースのような取り組みが出てきた。言い換えれば、サイエンスより歴史が古い医療をモデルとし、地球を診断し治療するという考え方に発展したわけである。環境問題によって、学術の役割の大きな見直しが始まったとも言えるだろう。
ここで、環境科学者にして海洋生態学者であるジェーン・ルブチェンコ(Jane Lubchenco)が1998年にScience誌に発表した論考に触れておいてもいいだろう。「環境の世紀に入る:科学の新たな社会契約」と題されたこの論考で、彼女は、人間の活動が生態系に与える影響が無視しえない規模になっており、それに伴う社会変化も含め、生じつつある課題に科学は迅速に対応することが必要だと論じる。この対応はすべての科学者に新たな「社会契約」すなわち、「すべての科学者がそのエネルギーと能力を現代の喫緊の課題に振り向けること」を求めているという。そしてこの課題解決に取り組むにあたって、「新たな基礎研究」が振興され、新たに生まれる知識を迅速に効果的に意思決定者に伝達され、一般市民と適切なコミュニケーションが図られるべきであると述べている。地球環境問題を切り口にした新たな社会契約というルプチェンコの議論には、ブダペスト宣言と並んで、21世紀の科学の在り方、学術の在り方を模索する基本的論点が示されていると言えよう。
もう一つ挙げておきたいのは、ジェローム・ラベッツ(Jerome Ravetz)が、2006年に出版した「The No-Nonsense Guide to Science」というポスト・ノーマル・サイエンスについて論じた著書である。その中で、ゲノミクス(genomics)、脳(brain)、人工知能(artificial intelligence)、ナノテクノロジー(nanotechnology)、神経科学(neuroscience)など、先進国で急速に発展しつつある分野を取り上げ、こうした研究の進展に応じて社会への影響が無視できなくなることを指摘し、倫理的・法制度的・社会的課題(ELSI)のような議論の必要性が高まることを主張している。ラベッツは、それを「SHEE sciences」という言葉で、つまり安全、健康、環境、倫理の研究(the sciences of safety, health and environment, plus ethics)と表現し、これが同時にしっかり育まれないと科学技術が暴走しかねないと論じている。なお、頭文字をとって「SHEE」とした背景には、マッチョなイメージのbrain scienceなど新興の研究分野に対して、ややジェンダー・センシティブな造語をあてる意図があったのではないかと推測される。
ここまでの議論は、学術の転換期という観点から学術の対応について紹介した。それでは、学術が対応を求められている社会の課題の方はどうであろうか。ここでも、転換期の学術の在り方を指し示す「何か」の模索と類似の減少がみられる。我々が直面している社会課題の性質が変わりつつあることは意識されており、それを様々な言葉で指し示そうとしているように見えるのである。例えば、やや古い概念ではあるが、科学で問うことはできるが科学のみでは答えられない「トランスサイエンス」的問題、予測不可能で複雑な、いわゆる「VUCA:変動性(volatility)、不確実性(uncertainty)、複雑性(complexity)、曖昧性(ambiguity)の頭文字をつなげた、元は1990年代に軍事用語として使われ始めた言葉)」な状況、あいまいでつかみどころがないため、明確な解決策をもたない「やっかいな問題(wicked problems)」、個別のシステムにおける機能不全が他のシステムや全体に影響を与えることを指す「システミック・リスク」という金融用語などである。そして、これらで表現されている問題群に取り組むために必要となる研究として、先のトランスディシプリナリー研究や文理融合といった表現がキーワードとして掲げられるようになり、その推進について世界の学術界が熱心に議論している。
やはりここでも、地球環境問題の存在感は大きい。この問題は日本で一般的に理解されている、いわゆる狭義の地球環境問題より大きな問題であることを指摘しておきたい。というのも、もはや地球温暖化に関する科学は、人文社会科学の議論をするときの前提条件となってきている。地球の制約、環境の制約を考慮せずに、地域開発研究や地域研究はできなくなってきたからである。地球環境問題に対応するためには、どのような価値の変容が必要か、社会システムをどのように組み替える必要があるかといったかたちで、人文社会科学の領域が広く影響を受けることは明らかである。SDGsはこの事態を集約しているといえよう。まさに、学術の地殻変動が緩やかに起こっているのではないだろうか。ルブチェンコが新たな社会契約が必要と語った事態なのである。
これをどう表現するか、そして、どうやって解決策を導き出すか。そういう問題意識が共有されているからこそ、それぞれの専門分野やセクターから、同じゴールを目指して、さまざまな言葉が生み出されているのではないだろうか。例えるなら、これは、さまざまな登山口からいろいろな人が同じ山を登ろうとしているようなものである。それが、「文理融合」という古い山道であったり、「トランスディシプリナリー」という若干珍しいが最近注目されはじめた道であったり、はたまた「総合知」という古い道を新しく改装したような道であったりするのではないか。そのなかで、RISTEXは20年「社会技術」と言い、そういう登山口、登山ルートを確立してきた、と言えるように思う。こうしたさまざまな登山口があるなかで、意図やゴールを共有していることを相互に理解しあい、いかにして頂に到達するかを検討し、それを実践すること、これこそが最も重要であることを忘れてはいけないように思う。
また、様々な登山道を通りつつも同じ意図やゴールを共有することで統合される知があり、それは頂きをより高いものにする。目的を共にする複数の取組から生み出される知を統合するような知識創出の試み、いわゆるメタな視点での検討が重要であることも、ここで言及したい。RISTEXにおいても、研究開発領域の活動として、各研究開発プロジェクトの取組を横断的に俯瞰し分析を試みる、メタな検討も行ってきた。この点については、村上陽一郎氏との対談をご参照いただきたい。
※8 社会の利害関係に左右されず、真理追求のみを目的にした自律的科学者による営み、という科学観のこと。
いま伝えたいこと
科学技術政策が、科学技術の振興からイノベーション政策に移行し、一種の公共政策となっている。そして、より社会実装を意識するようになった。そのような中で基本法が改正された。その特色の一つは、「イノベーション」という言葉を入れたことにある。もう一つは「人文・社会科学系」の扱い方である。本気でイノベーションを社会に実装したいのであれば、人文・社会科学が必要、という考え方が現れている。ただし、イノベーションとは、単に経済的価値の創出を目的とするものではない。むしろ、新たな価値を生み出し、社会課題解決に貢献すること自体が、一つのイノベーション、本来のイノベーションなのであり、そこで「総合知」というキーワードが生まれてきたと理解すべきではないかと思う。
そういう観点でみると、社会技術-RISTEXも、かなり早い段階から類似の発想を実現してきている。ただし、「科学」そのものが状況に対応した変容を示しているか、といえば、そこは微妙であろう。ただ、昨今の科学技術政策がイノベーション政策としての性格を強め、経済的、社会的価値の創出を目指して科学技術の成果を社会に活用(use)することを求める傾向が顕著である。かつてのように研究が実験室で閉じることはなく、社会で利用されていく。そしてかつては実現できなかったことが急速に実行可能になっていく。これはとりわけ、情報技術や生命技術に顕著な傾向である。
そこで問われるのは、実行可能なことが急速に拡大していく中で、本当に必要なことが実行可能になっているのか、そして実行可能ではあっても実行を控えるべきことがあるのではないか、といった問題である。もちろん実行すべきこと、実行してはいけないことの区別は時代とともに変化する。しかし常にこのような問題を科学者任せにせず、社会全体で検討することの重要性は、いよいよ高まっている。この問題の検討には人文社会科学系の研究が不可欠でもある。1990年代からELSI研究と呼ばれてきたこのような取組みは、日本ではやや貧弱であったと言わざるを得ない。しかしまさに分野横断的であり、知識の利用法にかかわる点でtransdisciplinaryなアプローチを必要とする研究であり、RISTEXが取り組むにふさわしいと考えている。科学技術の研究者が自らの生み出す知識の社会的意味を考えることを、自らの義務と考えること、そして人文社会系の研究者は科学技術研究という巨大な知識生産の営みを適切に制御することを自らの義務と考えること、を求めている。今求められている、学術の変容の一例である。
最後に、従来の意味での純粋科学(pure science)は、こうした動きのなかでどう位置づけられていくのだろうかという問題に触れておきたい。純粋科学側の研究者から見れば、現在は、イノベーション、社会貢献の道具としての科学技術に偏重しすぎている、といった批判にたどり着くことは、ある程度避けられないだろう。しかし、また一方で、社会に貢献できるような科学技術の土壌には、やはり純粋科学的な考え方が必要であり、そのための訓練が必要であるという反論もできよう。それがそのまま役に立つ、といった短絡的なことを言っているわけではない。このあたりの関係性をどう捉えるべきか――これは非常に悩ましい問題である。結局、「科学技術は、役に立つものでなければいけないのか」、という根本的な問いにたどり着く。言い換えると、研究の自由と責任を再考しなければならなくなっている。
しかし、21世紀の科学の役割の変容に掉さしたと言えるブダペスト宣言でもルブチェンコの「社会契約」の議論でも、「知識のための科学」や「基礎研究」を否定しているわけではない。好奇心に駆動された研究者の自律的研究の重要性が強調されてもいる。おそらく問われるべきは、「好奇心」というものの時代、社会からの影響ではないだろうか。吉川弘之氏との対談でも話題になってことであるが、社会貢献か好奇心かという問題を、相互排除的な二分法で考える必要はないのではないか。吉川氏は、現代社会に生きる限り地球環境問題等の社会的課題に知的好奇心を持つことは全く自然なことではないかという意見を述べておられた。これで純粋科学の問題がすべて片付くとは思えないが、傾聴に値する意見であることは確かである。
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