開催日:2025年(令和7年)6月30日(月)
会場:九州大学病院キャンパス総合研究棟2F 205セミナー室
「進化への介入」が可能な技術を前に、ELSIの議論はどうあるべきなのか
開催に当たり、RISTEXの小林センター長から挨拶がありました。近年、国のムーンショットプログラムにおいてELSI的取り組みを進めることが推奨されるなど、ELSIというものへの関心が高まってきているとの紹介がありました。ともすればELSIの議論は研究者の自由を束縛するものとしてイメージされるところ、本当に社会で役に立つイノベーションにつなげていくためには研究の早い段階からELSIの議論を行っていくことが結果的には早道になるはずであり、その意味でRISTEXとしては、ELSIはブレーキではなくて言わば促進剤、グッドイノベーションのための必要条件として捉えていきたいとの考え方が示されました。
続いて、伊藤特任教授より、遺伝子重複による進化をテーマとする伊藤プロジェクト(以下、伊藤PJ)の概要紹介がありました。冒頭で、大腸菌、パン酵母、線虫、ヒトなど異なる生物におけるゲノムサイズと遺伝子数の比較結果に基づき、細胞の体制の複雑化・新機能の獲得には遺伝子数の増加が必須であることが示されました。遺伝子の増加方法には大きく2種あり、一つは原核生物における「他から貰う方法(=水平伝播)」、もう一つは真核生物における「自前で作る方法」があり、後者の中の一つの大きなメカニズムが遺伝子重複であることが解説されました。伊藤特任教授ご自身は、この遺伝子重複が最もクリエイティブな突然変異ではないかと考えており、近年目覚ましい進歩を遂げているゲノム編集技術をもってしても半ば偶然に頼る方法でしか遺伝子の重複を誘導することができない中で、標的遺伝子の重複を操作的に誘導できる新技術の研究を着想し、具体的にはゲノム編集に用いられるCas9タンパク質の変異体nCas9iを同一遺伝子が縦列に反復した構造(縦列遺伝子アレイ)の隣接部に配置し、DNA複製の現場である複製フォークiiを崩壊させることによって反復回数を増加させる画期的な新技術BITREx(ビトレックス:Break-Induced Replication-mediated Tandem Repeat Expansion)の開発に至ったということです。標的遺伝子をゲノム上で高度に増幅させることができるBITRExは、有用物質生産など、様々な機能を強化した細胞の設計・創成の大きな推進力となることが期待されていること、また医学的な応用として、遺伝子サイズの縦列反復構造の短縮が原因となる難病に対して全く新しいカテゴリーのゲノム編集治療になる可能性があること、例えば、顔面肩甲上腕型筋ジストロフィーという病気の治療に使えないかといった検討も進んでいること等が紹介されました。最後に、今後、技術的にはゼロから人工合成した自然界に全く存在しないタンパク質で生命を創成できる日が来るかもしれないとの展望が示されました。伊藤特任教授としては、そこからさらに人工進化を進めることで「第二の生命の創造」、すなわち唯一の進化系統樹の軛から解放された独立した新たな進化系統樹を育む試みへの第一歩を支える研究に取り組んでみたいといった基礎研究のビジョンが共有されました。
上記プレゼンテーションを踏まえ、伊藤PJに関するELSI論点について「ゲノム倫理」研究会メンバーと伊藤特任教授らによる議論が行われました。主な意見は以下の通りです。
- 最終的には、BITRExを活用することで、人間が設計した本当に全て新しい遺伝子から成る簡単なバクテリアなどが作られることになると思う。それはある意味、進化を人為的に加速させることと理解できるが、そのとき一つの問題は、我々の価値観に基づく選択になってしまうことではないか。
- 新たな進化系統樹が技術的に可能になっていくとすれば、それは既存の系統樹とどのような関係になるのかを含めて、その存在のあり方を我々はよく考えていく必要がある。
- 既存の一つの系統樹の中で新たな種を生み出す行為は、例えば農産物の領域では普通に行われている。他方で、人間がゼロからデザインした遺伝子で新しいタンパク質を作り、そこから新たな進化系統樹が始まっていくというのは、多分僕らはまだそんなに賢くないはずで、少なくとも近い将来の話ではないように思う。
- 我々自身を含む生命を深く理解していくために人工生命を作るというサイエンス領域と、何らかの利用目的を想定して人工生命を作るという工学あるいはテクノロジー領域の2つを分けて考えていくことがよいのではないか。特に後者においては、社会での応用については倫理的な問題がより強く関わってくるはず。そこでよく出てくるのは治療を超えたエンハンスメントの問題、利用機会の公平性の問題などだろう。
- サイエンスとその応用であるテクノロジーの区別が成り立つとすると、サイエンス自体は良いものだから、例えば好奇心に基づいて、あるいは真理の探求という目的に向かってどんどんやって良いということになりがちだが、本当にそうなのだろうか。「真理の探求」であればどんな真理でも明らかになったほうが良いという価値観でよいのだろうか。
- 研究者として、自然の成り行きに任せてきたものに対して浅知恵で介入してしまっているように感じる時がある。正直なところ自分もよく分からない、だからこそ社会がそれをどう考えているのかを知りたい。
- 公平性を考える際は人間の中でのそれを想定する場合がほとんどだと思うが、はたしてそれでよいのか。動物倫理などの議論も盛んになってきているが、動物も含めた公平性について考えていくべきかもしれない。
- 社会への応用における問題を検討していく際、当該技術のコストとベネフィットを示しながら理解を求めていくべきといった議論がよくあるが、そのコスト/ベネフィットを算定する際にどのような前提を置いているのか、どのような尺度を用いているのかというところには注意していく必要があるように思う。
- 我々がELSIを考えていく際の一つの論点として「責任の所在」という点を視野に入れておくべきだろう。日本では個人に、ここでの場合は研究当時者に責任を押し付けて終わりにする傾向があるので、犯人捜しにならないようなELSIの議論をどう成立させていくのかをよく考えていく必要がある。
- BITRExはある意味遺伝子変化を加速させていく技術だとすれば、その技術が実際どういうものを作り得るのかといった面も含め、もっと技術に焦点を当てた議論をしておくことが必要ではないか。それによってはじめて最先端の技術を一般の方にも理解できるような形で議論することが出来るようになるだろうし、特にELSIの議論では重要なのではないかと考えている。
その後、今後予定されている市民WSの進め方等について意見を出し合いました。主な意見は以下の通りです。
- ELSIの議論は常にリスクをあげつらうようなイメージを持たれるかもしれないが、この市民WSでは何かもっとポジティブな面も含めて探ることが出来るとよい。
- 税金を使う研究に対して国民がどう思うのか、という点は考えていきたい。つまり、国民目線からすればどうしても「役に立つ研究」はやってよいが、そうではない研究には税金が回らないような事態もあり得るがそれでよいのか一緒に考えていけるとよい。
- やはり、基礎研究の大切さを市民にも理解してもらうことが重要になる。純粋に知的な好奇心で基礎研究をやるからこそ、結果的には当初は何の役に立つのか分からないものがいずれ大きく役立つものになるという意味で、知的好奇心の重要性というものを基礎科学者はもっと発信し、最終的には国民の支援を得ていくべきではないか。
- 伊藤PJが技術的に可能にする「進化に対する介入」を市民はどう感じるかといった「高尚」な論点自体が市民にはあまり響かない恐れもあるが、そこはこの市民WSでは非常に大事な点なのでその重要性を市民と上手く共有できるように工夫していきたい。
- その際、これまで既に行われている育種のような人為的介入と、伊藤PJの研究のような合成生物学による進化への介入とはどこがどう違うのか、何か根本的な違いがあるとすればどういう点なのかを市民に理解してもらえるとよい。
最後に、全体の議論を振り返り、塩見総括から次のコメントがありました。
―――既存の進化系統樹と全く関係のない生物をつくることは、相当にハードルが高い。生命の定義をかなり単純化し、その定義を満たすものを新種として捉えるというような理解をしない限り、新しい種をつくったということにはならないのではないか。それでもかなり困難であるが、例えば、線虫の遺伝子を操作して、そこから線虫以外の種をつくり出すなどということは、現在の人的資源や予算では極めて困難であると考える。
エンハンスメントに関しては、アレル(=対立遺伝子)を一つ変えたぐらいでエンハンスできるわけがないと思っている。また、生き物は別に遺伝子だけで決まっているわけではなく、環境とかそういう複雑な相互作用の結果としてできてくるわけだから、やはりそろそろゲノム原理主義とか遺伝子原理主義から離れた方がよいのではないか。そんなもので僕たちは決まっていませんよ、ということこそを是非知ってほしいし、我々研究者がもっと社会に伝えていく必要がある。
基礎研究の重要性に何をプラスアルファしたら、市民の共感を得て、基礎研究に必要な資金の獲得につながるのかというのを、今後はじまる市民との対話の中で見つけられるのではないかと期待している。
用語解説
i nCas9
ゲノム編集では細菌由来のCas9タンパク質がよく使われます。Cas9は、ガイドRNAと複合体を形成して、ガイドRNAと同一配列を持つDNA(標的DNA)に2本鎖切断を起こします。Cas9のアミノ酸残基を一つ置換することによって、標的DNAの一方の鎖しか切断できなくなった変異体をnCas9と呼びます。
ii 複製フォーク
DNA複製の現場とも言うべき複製装置が進行してゆく先端部では、2本鎖DNAの水素結合が解離してY字型構造が形成されます。その形状にちなんで、この部分を複製フォークと呼びます。
WS参加者(敬称略、○は代表)
<伊藤チーム>
伊藤 隆司 九州大学 生体防御医学研究所 特任教授
大学 保一 公益財団法人がん研究会 がん研究所 がんゲノム動態プロジェクト プロジェクトリーダー*
岡田 悟 安田女子大学 理工学部 生物科学科 講師
武居 宏明 九州大学 大学院医学研究院 医化学分野 助教
<CREST「ゲノムスケールのDNA設計・合成による細胞制御技術の創出」研究総括>
塩見 春彦 千葉大学 次世代in vivo研究探索センター 特任教授*
<「ゲノム倫理」研究会>
岩崎 秀雄 早稲田大学 理工学術院 教授*
岡本 拓司 東京大学 大学院総合文化研究科 教授
四ノ 宮成祥 防衛医科大学校 前学校長/国立感染症研究所 客員研究員
田川 陽一 東京科学大学 生命理工院 准教授
田中 幹人 早稲田大学 政治経済学術院 教授
中村 崇裕 九州大学 大学院農学研究院 教授
信原 幸弘 東京大学 大学院総合文化研究科 名誉教授 ○
松尾 真紀子 東京大学 公共政策大学院 特任准教授*
三成 寿作 京都大学 iPS細胞研究所 上廣倫理研究部門 特定准教授
※高江可奈子 早稲田大学 先端社会科学研究所 助手(議論支援)
<JST>
小林 傳司 社会技術研究開発センター(RISTEX)センター長
RISTEX 「ゲノム倫理」研究会事務局
戦略研究推進部
*はオンライン参加