「生命科学とゲノム倫理のこれから ~セーフティ、セキュリティ、ガバナンス~」
2025年10月10日
岸本 充生
大阪大学 D3センター 部門長・教授
四ノ宮 成祥
防衛医科大学校 前学校長/国立健康危機管理研究機構・国立感染症研究所
松尾 真紀子
東京大学 特任准教授
見上 公一
慶應義塾大学 准教授
生命科学研究において、どの段階で、どのような形で人文・社会科学系研究者とコラボを開始すればよいだろうか。コラボ相手として誰を選べばよいのだろうか。むしろ足を引っ張られるようなことにならないだろうか。それとも、自ら勉強した方が手っ取り早いのだろうか。再生医療も遺伝子治療も臨床段階まで来ると、安全性を示すための手順や、倫理的な線引きや、どれくらい安全だったら安全といえるのかという難問にも答えなければならなくなるし、承認のための複雑な手続き(レギュラトリーサイエンス)が必要になる。しかし、基礎研究段階ではそういうことほとんど意識しなかったかもしれない。本パネルディスカッションでは、過去のケースを振り返ったり、他分野での人文・社会科学系とのコラボの実例を参照したりしながら、セーフティ、セキュリティ、ガバナンスを確保するための人文・社会科学系研究者との付き合い方を議論した。
ディスカッションに先立ち、4名の登壇者による発表が行われた。それぞれの発表は、ELSIやセキュリティ、研究 者間の連携など、現代の研究活動において重要なテーマを取り上げていた。
岸本氏:人文・社会科学系の研究者とのコラボレーションについて、現在進行中の事例を紹介した。EUの研究資金提供プログラム「Horizon Europe」を例に挙げ、プロジェクト申請時には通常のレビューに加えてEthics Reviewが必要であること、倫理専門家の承認や、実施中にも倫理専門家の支援が求められる現状について説明した。
四ノ宮氏:2000年代初頭、テロの増加を背景に、アメリカでバイオセキュリティの強化と研究ルールの再考が進められた経緯を説明した。また、GOF研究は病原体の伝播性や病原性を向上させてしまう研究であり、2023年の新型コロナの影響を受けて議論と再定義が続いていることについて説明した。
松尾氏:「セーフティ」と「セキュリティ」に焦点を当て、研究者自身が主体的に対応する必要性を指摘し、他者との協力・連携が不可欠であることを説明した。
見上氏:人文・社会科学系の研究者との共創について、両者の連携が必ずしも容易でないことを指摘しつつ、共に課題に向き合うことの意義について説明した。自身の経験を踏まえ、相互に学術研究として尊重し合うことの重要性について述べた。
パネルディスカッション
ELSIへの取り組みと現状
4者それぞれの発表の後、自然科学の研究者を対象に、ELSIへの向き合い方についてディスカッションが行われた。アメリカでは1990年代に実施したヒトゲノム計画のときから、自然科学の研究費の一部がELSI関連に充てられていたが、日本でELSI分野そのものに研究費が割り当てられるようになったのは、ここ数年のことである。この現状について、岸本氏は「こうした新しい分野の研究にこそ、将来の研究の種が多く潜んでいる」と述べ、倫理的な問題が発生する可能性を人文・社会科学者とは異なる視点から捉えられるのは自然科学者ならではであり、人文・社会科学者と自然科学者の共創が重要だと指摘した。
プロジェクト現場の課題と展望
松尾氏は、「ELSIやRRIを研究開発に組み込む必要性が、日本でも認識され始めている」と語った。プロジェクトのリーダーが国際会議に参加し、人文・社会科学系の研究者がELSIに関する論点を提示している様子を目の当たりにし、その必要性を感じて体制に取り入れる動きがあるという。一方で、自身が参加するプロジェクトでは、PI(プロジェクト責任者)が何十人もいる中で、人文・社会科学者は一人だけというのが現状である(それでもこうした取り組みが開始されていること自体は大いに評価されるべきであることは言うまでもない)。こうした状況を踏まえ、若手研究者に対しては、今後、ELSIの観点と人文・社会科学者との連携を早期の段階から視野に入れた研究体制の構築に取り組むことが望まれると述べた。
セキュリティの課題
四ノ宮氏は、感染症の観点からセキュリティには2つの側面があると説明した。ひとつは病原体や研究内容の管理に関する安全性、もうひとつは感染症の拡大防止や国民の健康を守る観点からのセキュリティである。特に後者については、日常的な対策や法整備など新しいアプローチが求められると指摘している。また、科学技術が進展する中で、研究の予期せぬ結果や社会的な議論の発生にどう対応するかも重要な課題だと指摘した。Gain-of-function(GOF)研究の例を挙げながら、研究の透明性や価値の説明責任の必要性にも触れ、こうしたある種、社会的な側面を軽視すると反発を招きかねないと述べている。
ELSI教育の重要性
岸本氏は、規制については技術の研究者自身が提案することが理想的だと述べている。技術に詳しくない側が非現実的な規制を導入してしまう危険性もあり、研究を守るためにもELSIを学ぶことが非常に重要であると指摘した。また、大学などの教育機関でELSI教育の機会が増えている現状を踏まえ、見上氏は、もっと早い段階から楽しく学んでもらいたいと語った。ELSIが若手研究者の研究の幅を広げる可能性に触れる一方で、負担なく取り組める環境づくりも重要だとした。人文・社会科学者と自然科学者が日常的に個人として交流し、気軽に意見を交わせる関係性を構築することも提案した。
今回のディスカッションでは、ELSIへの理解と取り組みの重要性、分野を超えた連携や研究体制の構築、そして研究の透明性や社会との対話の必要性など、多面的な視点から意見が交わされた。