調査報告書
  • バイオ・ライフ・ヘルスケア

ドライ・ウェット脳科学

エグゼクティブサマリー

生物学的(実験系)脳科学分野は、ヒトがヒトたる所以に挑むという意味において、人類にとって最も根源的な生命科学の一分野であり、観測する構造や現象のスケールが分子レベル(10-10 m)から個体レベル(10-1-100 m)まで多階層にわたることが大きな特徴である。それぞれの階層ごとに時・空間的なスケールが大きく異っており、階層ごとの研究だけではなく階層を越えるための技術革新が必要とされ、細胞・回路・個体レベルの各階層に対応した様々な計測技術が近年大きく発展している。また、脳科学は脳疾患治療の土台としても重要であり、これまで多くの研究リソースが投入され、脳の分子・細胞的理解は長足の進歩を遂げている。

脳科学は実験的研究と理論的研究が車の両輪の様にして発展してきた。理論的脳科学分野ではニューラルネットワークモデルを階層化した巨大なモデル(深層ニューラルネットワーク)をビッグデータで学習させるアプローチが現在隆盛を極め、Google等の巨大企業が猛烈なスピードで実用化研究開発を進めている。一方、深層ニューラルネットワークの学習はブラックボックス化されており、学習がなぜうまくいくのかについての理論的解明はあまり進展していない。また、脳のように、わずかな経験からフレキシブルに学習する人工知能も実現していない。次代の人工知能の開発のためにも理論神経科学の成果は期待されている。

生命科学は個々の研究対象を深く掘り下げる従来の研究スタイルから、ゲノム情報、トランスクリプトーム、プロテオーム、メタボロームなど様々な階層での網羅的研究と、多階層の膨大なデータを情報科学を駆使して解析・理解するバイオインフォマティクスへと軸足を移しつつあり、生命科学と情報科学の両方を理解できる人材の払底が叫ばれている。日本国内では生命系学部教育に数学・情報科学が積極的に組み込まれていないことと卒後の情報科学の研修等が貧弱であることが認識されている。この「ウェットとドライの融合」という課題は生命科学全般に当てはまるが、脳科学ではそれに加えて「脳機能の理解」のためにモデル構築など情報科学との質的に異なる「融合」が必要である。実験脳科学分野では脳全体の活動理解のために膨大なデータを生み出す技術が次々に開発されており、それらデータを理解するための情報処理と理論的解析の必要性が明白になっている。欧米の生命科学教育あるいは脳科学教育カリキュラムには情報科学が組み入れられ、実験と理論(モデル)の両方を使いこなす実験神経科学分野の若手研究者が普通に見られる。これに対し日本は体系的ではなく各研究室でon-the-job trainingとして行われており、技術革新が押し寄せる現在、効率のよい対応はできていない。日本では脳科学そのものを専門とする学部や学科がほとんど存在せず、医学・生命系の大学教育には情報科学が欠落しており、情報科学を理解した実験脳科学者の数は非常に少ない。このファンダメンタルな差は10年~20年後に研究レベルの大きな差となって現れることが予想される。この状況を克服し、脳科学領域でも日本がトップクラスの研究レベルを維持するためには、実験系と理論系両方を理解した次世代の脳科学者の育成が喫緊の課題であり、そのためには学部・大学院および卒後の教育プログラムの拡充・改革とともに、若手・院生を指導する立場にある実験系と理論系の脳科学研究者同士の積極的な交流と意識改革の必要性があるのではないか。学際的な研究環境の整備や若手研究者の幅広い活動をサポートする柔軟な研究支援制度の拡充の検討が望まれる。

※本文記載のURLは2020年3月時点のものです(特記ある場合を除く)。