コラム「ブダペスト宣言から10年-社会における、社会のための科学」

「ブダペスト宣言から10年-社会における、社会のための科学」

col02.jpg社会技術研究開発センター長
有本 建男

今年は、国連教育科学文化機関(UNESCO)と国際学術連合会議(ICSU)の主催で、「世界科学会議」が1999年に、ハンガリーの首都ブダペストで開催されてから10年目にあたる。この会議で、「科学と科学的知識の利用に関する世界宣言」いわゆるブダペスト宣言が発表された。世界各国から、科学者、技術者、政治家、行政官、メディア、NGOなど多様な関係者1800人が参加し、日本からも、当時の日本学術会議議長・吉川弘之博士(当時ICSUの次期会長)ら、多くの方々が出席された。

この会議が開かれた背景には、21世紀の科学のあり方として、20世紀型の知識の生産に重点を置き、知識の活用は使う側にまかせるという姿勢では、科学に対する社会の信頼と支持はえられない、という強い危機感があった。

1週間にわたる厳しい議論の末にまとめられたのが、いわゆるブダペスト宣言である。すなわち、21世紀の科学の責務(コミットメント)として、20世紀型の「知識のための科学:science for knowledge」にくわえて、「平和のための科学:science for peace」、「開発のための科学:science for development」、「社会における、社会のための科学:science in society, science for society」という新しい責務が加えられたのであった。

この宣言は、当時"launching pad"(発射台)と形容されたが、その趣旨はゆっくりではあるが、世界中の科学・技術の政策から、学会活動や研究実施の現場にまで浸透してきた。たとえば、地球規模の課題解決へ向けた政策提言を目的とする各国アカデミー間の協議組織(Inter-Academy Council : IAC)が設立された。わが国の科学技術基本計画の中にも、第2期計画(2001年3月 閣議決定)からこの趣旨が盛り込まれた。筆者が勤める科学技術振興機構・社会技術研究開発センターも、その趣旨の具体化のために設置された。近年、イノ ベーション、科学コミュニケーション、科学リテラシーなど、科学と社会の関係強化が大きな政策課題になっているのも、この流れの一環と理解できる。

この宣言は、19世紀初めに始まり20世紀半ばに完成した近代科学の推進制度や体制、評価の方法、科学者の規範などに大きな見直しを迫っているとみることができる。たとえば、歴史的に価値中立、 研究自由が原則であった科学研究活動に、社会との関係において、価値の判断と価値の創造という新しい視座の必要性を求めていると思う。

宣言文の「科学」を「大学」に置き換えてみれば、影響の深さが理解できるであろう。「university for knowledge」にくわえて、「university in society, university for society」である。大学の現代社会における社会的責任(university social responsibility)とは何かという問いである。同じように、「科学」を「科学者」に置き換えてみると、「scientist for knowledge」にくわえて「scientist in society, scientist for society」となる。19世紀以来の科学者の行動規範である「論文発表か、さもなくば死か」にだけ囚われていたのでは、現代の科学者たちは、M.ウェーバーが100年前に指摘したように、文化発展の最後に現れる「精神のない専門人」「心情のない享楽人」「末人」に堕するかもしれない。そうなれば、科学と科学者に対する社会からの尊敬と支持は消え失せてしまうだろう。

一方で、宣言の趣旨の浸透が未だに理念レベルでおわっている面も見受けられる。その内容は多義的である。科学研究の基礎を軽んじ応用面を強調してい るとの批判がある。また、宣言採択の際に、近代化を終えた先進国と今後近代化を進めようとしている途上国との間で、科学研究に対する取り組みの差異が顕わ になり、とりまとめが難航したことも想起しておきたい。

今年は、2013年以降の地球温暖化対策の国際的枠組み(ポスト京都議定書)を決める国際会議(COP15)が、コペンハーゲンで開催される。また、現在の深刻な経済危機への短期的な対策だけでなく、この危機を通り越した向こうに生まれるであろう新しい世界と価値感について、現在とは相当変わったものになりそうだという予感の下に、各方面で真剣な議論が始まっている。去る1月に開催されたダボス会議のテーマは、まさに「Shaping the Post-Crisis World」であった。同じ1月に発足したアメリカのオバマ新政権の政策の柱には、「新しい責任の時代」、「科学への尊敬の回復」、「ハードパワーからソフトパワー、スマートパワーへ」が掲げられている。

ブダペスト宣言から10年目の今年は、世界が社会経済の大転換に直面する中にあって、内外の関係者が、科学と科学者そして大学と社会との関係について、総点検を行い将来への課題と展望について議論を深める重要な契機になることを期待したい。

(2009年2月9日)

(本稿は、東京大学政策ビジョン研究センターWebページのコラムとして寄稿したものであり、東京大学政策ビジョン研究センターより転載の許可をいただき、掲載しております)

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