戦略プロポーザル
  • バイオ・ライフ・ヘルスケア

超高齢社会における先制医療の推進

エグゼクティブサマリー

急速に少子高齢化が進むわが国では医療技術の進歩や医療ニーズの増大があいまって医療費が急速に増加すると予想され、同時に介護の需要も増加するものと考えられる。さらに他方では若年労働人口の減少は確実であるため、高齢者およびその家族の生活をどのように守り、医療費負担の高騰にどう対処するかが大きな課題となりつつある。

高齢者の健康を阻害し、介護の必要性をきたす疾患は、一般に遺伝素因を背景とし、長期間にわたって環境因子が複雑に関わって発症することが多い。したがって、その病因や発生病理の解明は極めて困難であった。しかもこれらの疾患はいったん発症すると根治は難しく、次第に進行して重篤な合併症を併発し、生命の危険を招き、介護が必要になることも少なくなかった。これらの加齢に伴う疾患にどのように対処するかは、少子高齢化が進むわが国では喫緊の重要な課題であると言える。このような状況の下で予防の重要性が叫ばれてきたが、従来の予防医療は病気のリスク因子を解明し、リスクが高いと予想される人を対象としてそれを避けるという方法が主にとられてきた。

近年、ヒトゲノムの個人差と疾患の関係に関する研究が進み、疾患関連遺伝子が少しずつ明らかになってきた。また胎児期や生後の環境が、疾患の発症・進展にどのように影響するかを解明する研究も進みつつある。さらに、加齢に伴う疾患では、発症前の無症候期に一定の病理学的な変化が既に起こっていることも多くの場合で観察されるようになった。一方、病気の進展の指標となるバイオマーカーについても、タンパク質、RNA等の生化学的所見や画像(イメージング)所見等の研究が急速に進みつつある。こうした生命科学の進歩によって、いくつかの加齢に伴う疾患では、発症以前の、まったく症状のない無症候期(以下、発症前期とする)に一定の確率で診断することも既に可能となりつつある。したがって従来の予防法ではなく、バイオマーカーを用いて疾患の発症をある程度予測し、対象を限定して早期に治療介入をするという新しい医学が、近い将来実現すると期待される。

以上の背景を踏まえ、本イニシアティブでは、臨床症状がなく通常行われる検査所見でも異常のない発症前期に、一定の確率で疾患を診断、予測し治療的な介入を行うことを目指す新しい医療の方向性を先制医療として提案し(図1)、さらにその考え方に基づいて国として可及的速やかに取り組むべき研究開発課題を以下の4課題としてとりまとめた。これらは、疾患ごとに若干の差異はあるものの基本的には共通した課題と言える。

課題1:先制医療のための疾患の病因・発生病理の解明
課題2:バイオマーカー候補および治療技術シーズの探索・発見
課題3:バイオマーカー候補の絞り込みと治療技術シーズの臨床における有用性、 安全性の評価
課題4:先制医療を社会へ適切に提供するための科学的検討

課題1では、先制医療で用いるバイオマーカーや治療技術を開発する上で現在不足している基礎的知見や情報を補足することを目的とする。そのために、疾患の病因、発生病理を遺伝学、分子生物学、生化学、細胞生物学的、臨床医学、疫学などの多様な手法を使って研究する。特に遺伝素因と環境因子の影響を明らかにすることは重要であり、そのためコホート研究も重視する。課題2では、ハイリスク群を絞り込み、発症前期の段階で高い確率で診断、予測するためのバイオマーカーの研究と、この段階から実用化できる治療技術(薬剤やその他の医療技術)のシーズを探索する研究を行う。バイオマーカーは疾患の進行の程度を知るためのみでなく、治療の有効性や安全性を評価するためにも重要である。具体的にはオミックス研究(ゲノミクス、エピゲノミクス、トランスクリプトミクス、プロテオミクス、メタボロミクス等)、分子イメージングを含む画像診断、臨床や疫学から得られる様々な知見が含まれる。課題3では、課題2で得られたバイオマーカーの診断への応用を行い、その再現性や有用性を多数の人を対象に検討する。また早期に介入治療を行うための臨床試験を実施し、治療技術の有用性と安全性を評価する。課題4では、多数の人で有用性、安全性が確認された診断、治療技術を社会に普及、定着させるための心理学的、社会学的、経済学的研究を行う。先制医療は従来の発症してから行う医療とは異なり無症候の人を対象とするため、医療の提供者側、受益者側双方における治療への理解、特に統計学的研究への理解を深めるための検討が必要になる。またコンプライアンス(患者が医師の指示を順守すること)、費用負担の在り方、副作用への対策、先制医療への参加を促すための行動科学的方法の導入なども検討する。

以上の研究開発課題は、アカデミアを中心とする基礎研究(主に課題1、2)、産業界も巻き込んだ産学官連携による応用研究(主に課題2、3)、病院を中心とする臨床研究(主に課題3)、そして国、地方自治体、アカデミア、医療機関、保険者、企業、マスコミ、NPO等による新しい医療技術の社会への受容・定着に向けた応用化研究(主に課題4)として多くのプレイヤーを通じて推進する。また、これらの研究開発を効果的、効率的に行うため、長期的視野に基づいた戦略的な既存コホートの連携や新規コホートの設計、臨床研究支援センターネットワークの形成も併せて推進する。新しい医療技術の開発、応用には10年単位の比較的長い期間が必要となるため、本イニシアティブ全体の時間的規模は20年程度と想定する。
なお本イニシアティブでは、先制医療の事例疾患としてアルツハイマー型認知症、2型糖尿病、骨粗しょう症、乳がんを取り上げ、疾患ごとの現状を踏まえた取り組むべき課題も整理した。その詳細は本文記載の通りである。

以上のような先制医療が実現すると、従来の医療とはまったく異なる新しい医療が生まれることになり、関連する様々な医療技術の開発は大きな産業的利益を生み出すことになる。同時に多くの国民が健康な長寿を全うできれば、医療費、介護費の削減が実現するだけでなく、質の高い生活を保障することができ、その価値は計り知れないほど大きい。先制医療の推進は、イノベーションで提唱される産業的、経済的価値とともに、大きな社会的、公共的価値を生み出すものと期待される。これらの価値は第1次産業に伴う第1の富、工業生産に伴う第2の富、知的財産権による第3の富に対して、第4の富と言うことができる。それは人々がより健康な長寿を全うし、質の高い生活を送ることに大きく貢献するからである。