(44)科学技術を創る、使う、そして統治する
科学(science)の営みの本質はソクラテス哲学における「無知の知」である。科学者は自らに内在する好奇心に駆動されて森羅万象の客観的理解を試みるが、新たな知はさらなる未知を生み出す。精神の高揚のための真理の探究であり、本来は社会性に乏しかった。しかし、科学知識に基づく技術(science-based technology)は俄然(がぜん)社会性を帯びる。技術開発は国公私の多様なステークホルダーにより支えられ、同時に社会的期待と要請が寄せられる。今日では、未知の事実の「発見」に向かう営みと未踏の技術の「発明」への挑戦が、科学技術(単数扱いのscience and technology)として一体的に捉えられる状況にある。しかし両者の本来の意味合いを認識しておくことも必要である。そしていったい誰がこの営み全体の行方を決めているのだろうか。
CUDOS規範とPLACE規範
もともと科学は人類共通の知的資産を創るためにあり、特に学術界は「成果の共有、公開性」「普遍性」「無私性」「組織された懐疑主義」のいわゆるCUDOS規範(4項目の英語頭文字。R. K. マートンによる)に沿って運営されてきた。今後ともこの本質的営みの意義が揺らぐわけではない。しかし今世紀に入り、英国政府の方針が伝統的な自律的研究から「戦略研究」重視に移り、米国も「国家の利益における科学」を強く打ち出して現在に至っている。後発の中国においても同様である。ここでは軍事や産業との関わりが深く「成果の独占」「狭い範囲への特化」「権威主義」「受託、請負的研究」「専門的行動」、いわゆるPLACE規範(5項目の英語頭文字。J. M. ザイマンによる)が重視される傾向にある。CUDOSとPLACEの相違は主として研究組織の社会的使命に関わる問題であるため、その組織の構成員にも影響を及ぼす。よって、もともとさまざまな価値観を持つはずの個々の科学者、技術者たちの行動規範にも反映されるところとなる。
科学技術を支配するもの
20世紀に世界は科学技術の大きな恩恵を受けるとともに、さまざまな不都合に見舞われてきた。負の側面の責任を、その包括的な統治制度を欠いたまま、科学そのものや研究者社会に一方的に押し付ける風潮があることは甚だ遺憾である。それぞれの時代の国家の政治的意志と巨大な産業活動が社会的影響の質と規模を決定してきた。その決断と実践に敬意を表しつつも、強大な権力が科学的検証を排除すれば深刻な不具合を生じることは明らかである。
研究社会の理念と意思がこの圧倒的な支配力を超えることは難しい。それ故、国家が研究者社会に対し自由な発想に基づく研究を一定程度行えるように環境を整えることが必要である。その上でCUDOS規範に基づく学術界は健全な制度のもとに、自律的に本来の科学精神を継続、堅持する使命を持つ。残念ながら、わが国の大学や大学人たちは唯一自由が保障される学術の存在意義を自覚することなく、支配階層の要請を受け入れてPLACE規範の活動に携わりがちである。「考える葦(あし)」であり続けるべき大学たちの自己決定権の放棄は研究費確保をはじめ経済的理由によるとするが、果たしてそれだけだろうか。
基礎科学はあらゆる方向に分化する
ガリレオ・ガリレイは「宇宙は数学の言葉で書かれている」としたとのことであるが、STEM(科学、技術、工学、数学)に関わる基礎知識は、すべてつながっていて、潜在的にあらゆる展開の可能性を秘めている。例えば、ガウスの非ユークリッド幾何学があってこそアインシュタインの相対性理論が生まれたとされ、さらにその活用は不幸にも原子爆弾の開発をもたらす一方で、GPS(カーナビ、携帯電話)、電磁石、原子力発電などへの平和利用を通して限りなく現代社会に浸透している。根幹的な科学原理の潜在性は、発生生物学における受精卵から得られる胚細胞の行方に例えられ、この未分化細胞は、条件により筋細胞、神経細胞、上皮細胞などの機能細胞に分化し、やがてそれぞれに臓器を形成することになる。核兵器技術はあまたある可能な行き着く先の一つの臓器であるにすぎない。ワトソンとクリックがDNA二重らせん構造を発見したとき、一体どれだけの人が今日の医療、バイオテクノロジーへの展開の可能性を予見し得たであろうか。この科学と技術の普遍的性質と関係を認識せず、予見不能なリスクの恐れだけを理由に闊達(かったつ)な活動を妨げることは避けるべきで、むしろ無限の恩恵の可能性を見据えた積極的な振興と健全な統治に傾注すべきである。
マンハッタン計画
毎年8月6日は広島の、8月9日は長崎の原爆忌で、鎮魂と平和祈念の式典が催される。核兵器開発に関わるアインシュタインの道義的責任の念は、のちに核兵器廃絶、原子力平和利用をうたうラッセル-アインシュタイン宣言、さらにパグウォッシュ会議設立(1995年ノーベル平和賞)をもたらした。彼の純粋科学的な好奇心の発露である相対性理論、その後のオットー・ハーンによるウラン核分裂現象発見、このもとになる放射性核種の発見それ自体には社会的責任はない。
問題の発端は、第二次世界大戦中ナチス政権下におけるドイツの先行開発を恐れたアインシュタインが、同じく米国亡命者のレオ・シラードとともにルーズベルト大統領へ原爆開発を進言したことにあった。国家秘密のマンハッタン計画を企画したのは、軍産複合体形成を目指した科学研究開発局長ヴァネヴァー・ブッシュであり、実際に開発を推進したのはロバート・オッペンハイマーと、さまざまな野心に隷属した核物理学者、技術者たちであった。戦慄(せんりつ)の初の爆弾投下の最終決定は、オッペンハイマーへの相談なくトルーマン大統領の国家的意思に基づき極めて短時間になされたという。この間の重大決定はいずれも科学的公開議論を経ることなく、内部反論を封じる強権を持つ指導者たちの意思によりなされた。政治における科学者の影響力の限定性を象徴する。早期終戦を期して大量殺戮(さつりく)したとの政治説明には、50万人超の死没者の関係者が納得する倫理的正当性は見当たらない。2019年11月には、ローマ教皇が訪日し、「非人道的な」核兵器による悲劇が二度と起こらぬことを深く祈念したことは記憶に新しい。
「役に立つ」研究成果とは
科学知識は未利用のものか、すでに利用されているものかのいずれかである。そして知識を創った人と使った人は多くの場合異なるが、真理探究を求める純粋科学における「発見」(しばしば設計できない)と異なり、社会的意図を持つ技術の「発明」には、研究企画から開発の過程、成果の活用を通して相応の責任が伴う。
近年、わが国政府は基礎科学の振興よりもひたすら「役に立つ」科学技術の開発を求める。だが、いったい「役に立つ」とは何を意味するのか。「社会に広く、または深く実利的影響を及ぼす」ことを指すのであろうが、どのような世の中に、また誰の役に立つのか。社会はさまざまな価値観、時には正反対の考えを持つ人たちから成り立ち、技術成果の受益者が特定できていない。世間は善人と悪人で区別しようとするが、この違いも連続的であり、善人と呼ばれる人の心や振る舞いの中にも必ず好ましくない部分が潜む。
科学技術の使途の善悪について、もっぱら軍用、民生用の両義性、つまり二面性(dual use)の存在とその二者択一の観点でのみ議論されがちであるが、全く意味をなさない。海洋、宇宙、エネルギー開発などの国策、交通、医療福祉、防災やSDGsに向けた非営利の公共社会的対応にも深く関わる。ほとんどの基本的技術は多様な目的、社会のあらゆる局面で有効で役に立つ、つまりマルチプル・ユース(multiple use)、ユニバーサル・ユース(universal use)である。国家の意思で建設する大型施設、民間が創出するさまざまな汎用性商業製品にも無限の用途があり、そこに明確な境界はない。社会改革の切り札として期待して、各国がしのぎを削る人工知能開発とその兵器利用はどこで仕切ればいいのか。すべては連続的で功罪は常に相半ばする。
民生科学技術は常に正義なのか
最も厄介なものは、目的が明確な軍事技術よりもむしろ、便宜性、経済性を追求する民生用技術である。技術者たちは社会の求めに応じて善意で技術開発するが、しばしば多くの人が望むものほど影響は大きい。プラスチックは化学分野における20世紀最大の技術発明の一つであるが、むしろあまりに広く「役に立ちすぎる」ために深刻な海洋汚染問題を起こしている(コラム39)。
インターネットの発展は現代社会にさまざまな恩恵を与えてきた。一方で、情報流通のあり方のみならず、社会全体の形態に予期せぬ影響を与え、国境を越えるプラットフォーム企業の力は、今や国家権力さえ凌駕(りょうが)する勢いにある。いや中国では国家権力の源である。ブロックチェーン技術を駆使するデジタル通貨構想が国家運営の根本である通貨主権を脅かすともいう。この新たな情報社会の仕組みは大きな情報格差を生み、個人の行動を監視束縛し、画一的価値観により洗脳、精神のあり方まで効率化しようと試みる。結果として人間性また社会倫理に関わるさまざまな深刻な問題をひき起こしている。
科学技術は公正に制御できるのか
科学技術を利用しているのは史上最も賢明とされる現代人の選択の結果である。いかなる技術も健全な社会のためにあり、人びとの制御下に置かれるべきである。しかし「人びと」とは何か。民主主義国家と全体主義国家では意味が異なるであろう。技術はいったい誰が所有し、誰が公正に管理、制御し得るのか。現代社会の仕組みの中で、研究者や開発者自身がもはや自らの力だけでは制御できないことは事実である。