第282回「暗黙知の伝承、イノベ生む」
大学などの研究力の低下が言われており、被引用論文数などの、数値に基づいた議論がかまびすしいが、研究力の根幹にある「知の創出」や「知の伝承」についての議論は乏しい。
研究力支える根
一般に「知」について論じるとき、多くは「形式知」についてであり、文章・図表・数式などによって説明・表現できる知識を指す。一方で、「暗黙知」という対義語に留意したい。暗黙知とは個人の経験やスキル、直感によって形成される知識で、言葉や文章では表現しづらく数値化できないが、学問を支えるいわば「大木を支える根」のようなものだ。
具体例としては、研究者の直感的な洞察、学会などにおける議論から醸造される哲学的視野などが挙げられる。この視点で考えると、大学などが置かれた厳しい状況下で暗黙知の伝承が困難になってしまったことが、「研究力の数値」に表れているのではないか。
論文には著者の哲学が流れている。同じデータに基づいても著者によって解釈が異なり、それこそが論文の価値を決めるのだ。ここでも暗黙知が重要で、世代を超えて受け継がれることが重要である。この文脈において「学校で学んだ事をすべて忘れて、それでもなお残っているもの、それが教育だ」というアインシュタインの名言は興味深い。
1990年代ごろから、日本は国際化や研究・開発で後れをとった、と言われている。くしくもこれは「選択と集中」の政策が前面に押し出された頃と重なり、現在に至るまで変わっていない。すなわち、特定の大学などに重点的な資源配分を行い、学問的な成果のみならず経済貢献をも求めるという方向性である。これは、学問の特性や長期的視点に立った方策とは言い難い。
将来への投資に
科学研究の一つの重要な前提条件は、最先端で発見された専門知と現場で蓄積されてきた暗黙知が、研究者コミュニティーの内部でスムーズに継承されていく持続的な仕組みが存在することである。その仕組みを生かしながら、卓越した学問的ピークを形成すると同時に、研究の裾野を広くすることによって新たな知を生み出していく確固たる土台が形成されてこそ、より高い学問的ピークが生まれる。
多様性に富んだ科学の裾野と卓越した研究は不可分な両輪なのだ。むろん、アカデミアもこの視点に立って発信していくことが重要である。暗黙知の伝承は「将来への投資」でもあり、イノベーションの根幹を担う。わが国の捲土重来を期待したい。
※本記事は 日刊工業新聞2025年3月28日号に掲載されたものです。
<執筆者>
谷口 維紹 CRDS上席フェロー
スイス・チューリヒ大学大学院博士課程修了(Ph.D.)。がん研究会がん研究所部長、大阪大学細胞工学センター教授、東京大学医学部教授を歴任。東大名誉教授。米国科学アカデミー、米国医学アカデミー会員。専門は分子免疫学。
<日刊工業新聞 電子版>
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