(70)研究指向大学の成功に向けて(その2) 〜 有為の若手研究者の登用と維持、人材の多様化と流動の促進
我が国の大学院は知の中核として、学術の後継者養成だけでなく、世界科学会議のブダペスト宣言(1999年)にある「知識のための科学」とともに「社会の中の科学、社会のための科学」の精神に沿った教育研究をしてきたはずである。しかし、経済団体は博士人材の積極雇用の提言をするものの、実際の採用や職場ではいまだに博士人材忌避感が根強く、高度人材の雇用機会を阻んでいる。多くの経済産業界分野で国際競争力を欠くのは「人がいない」ことによる。
他方で、自然科学、科学技術研究界もまったく同じ状況にあり、新興分野、複合分野を開く人材が極度に不足している。人文学、社会科学分野の多くの若手研究者もまた、雇用不安定に喘いでいる。最高度の教育を受けた才能ある若者たちが「どこにも職がない」という。大学が2004年に法人化して以降、全く計画性を欠く人材育成で、甚だおかしな話ではないか。有能な若者の漂流は科学力、学術の停滞に深く関連する。研究指向の大学は自治組織として合理的な雇用制度を設定し、公正かつ実効性ある人事を行ってきたのか。海外の状況とも比べつつ、検証が必要である。
大学は学術の変化にいかに対応しているか
日本の学術界は柔軟かつ機能的な秩序のもとで一体感をもって運営されるべきである。科学は常に進歩し、学術は進化する。それぞれの大学は自らの意思と希望で特色ある未来を語り、外部圧力ではなく自律的に学術の環境変化に対応しなければならない。多様な人の流動・循環をもとに円滑な知識情報の交換を促進することなく、アカデミアは責任を果たせず、持続的発展はあり得ない。現実には行政が長期的展望を欠く「選択と集中」により分野間、組織間、研究者間に過度の競争を強いて、学術界の分断を招いてきた。一方で、大学現場にはさまざまな既得権者の不都合なエゴが蔓延している。ピーター・F・ドラッカーの言にあるように、「公共の利益が自らの利益を決定する」と言えなければ自らを指導者とは呼べないではないか。
無限に広がる学術界においては、意気盛ん、野生味が残る若者こそが最大の無形資産である。アインシュタインは26歳の時に相対性理論を唱え、ジェームス・ワトソンは25歳でDNAの二重螺旋構造を発見し、日本でも湯川秀樹が中間子理論を発表したのは28歳の青年時である。標準的な高等教育で得る分別力よりは独自の好奇心や前衛的な着想が決め手になることは、今でも変わらない。いかにして、有為な若者を見出しその才能を磨き上げることができるであろうか。
新陳代謝なくして学術の持続性なし
学問の潮流は急速に変化しつつあり、未来はあまりに不確実である。だからこそ、大学は「一つ一つの人事」を自らの成長発展の機会と捉えて、果敢にリスクを取る覚悟が必要である。研究教育環境の変容をあえて無視して対応を先送りすれば、後年必ず取り返しのつかない負担を生じる。我が国に長く続く保守的な人事慣習は自らの将来の確実な喪失を意味する。大学は急速に訪れつつある人工知能(AI)技術の時代に、人間本来の知性を駆使していかに対峙するのか。むしろ今こそが抜本的な構造変革の絶好の機会でもあろう。
教員の新陳代謝こそが、変容に対応し活力を維持する唯一の道である。限られた資源のもとで、いかにすれば教育研究の観点から大学の価値を最大化できるか。全ての知は繋がるため、新しい分野の開拓に向けて人材の均質性は避けるべきである。独創とともに共創の場をつくるためにも多様性(性別、国籍、背景)の確保とバランスが重要視される。
急速に老化する日本の大学。若手研究者の登用が最優先課題
才能は個人に帰属するが、年配経験者が果たす役割と若年研究者への期待は異なる。多くの大学で実績あるテニュア教員が研究生産性を担うが、飛躍的創造を生むのは若い研究者である。創造的な科学研究を推進する主体は総じて40歳前後であり、我が国でも注目論文の半数以上が30−44歳の研究者によって生み出されている。
日本の大学は人事制度の硬直化と、国立大学における教員定年延長(65歳)により老化があまりに著しい。結果としてコア論文(分野別Top10%論文)や学際的・分野融合的領域への参画が諸外国に比べて極めて低調である。やや古いがNISTEPのサイエンスマップ2020のコア論文に注目すると、継続性があり大規模な研究領域に32%もの論文が含まれ、新たな研究の芽となる可能性のある領域の論文は23%にとどまる。「伝統分野に強い」と言い張るが、もう20年も続く不健康な傾向である。
行政と主要大学には是非ともこの危機的状況を打開する責任がある。感性豊かな25-39歳の教員の割合は全教員のわずか21%に止まり、講座制の実質温存によって独立性も低い。新鮮な創造を目指して、若手のPI数を諸外国並みに40%以上に増やす必要がある。「独立」は「孤立」を意味するものではない。個人的な独創を尊重しつつ分野を超えた共創が求められる今日、多様な専門性を持つPIたちの組織、国境を越えた共同作業が新たな地平を開くが、内部拘束のない独立性こそがその動的機会を高めるからである。大学にはその可能性を高めるべく制度と財政を含む研究基盤を整備する義務がある。
日本の法律は若手教員の独立を定めた
我が国の大学院教育、高度人材の育成計画を機能させるためには、まず若手教員を独立研究者として雇用すべきである。欧米、アジアの諸外国でできることを、なぜ実行しないのか。閉ざされた「講座制」は外形的には崩されているはずであるが、施策は骨抜きにされ実質的には維持されているようにも見える。彼らを年配教員の配下におき、創造性の発露を阻めば必ず国益を損なう。文科省は中央教育審議会の議を経て、2007年の改正学校教育法により助教授、助手を廃して、それぞれ准教授、助教へと職名変更、独立を促したが、「諸般の事情」によって実態との乖離はあまりに大きい。この異形の徒弟制度にこだわる限り、国際化はほとんど望めない。昨今のトランプ政権下の米国大学体制の不安定化に乗じて、多くの有力大学が若手外国籍教員の獲得に向かうというが、彼らをどのように処遇しようというのか。若い日本人は徒弟であり、外国籍者だけ特別に客人扱いというわけにもいくまい。保守的体制の改革の絶好の機会でもある。
日本の若者は高らかに決意を語れ
卓越性を自負する大学は、本気で特徴ある若手を抜擢し独立させるべきである。一方で、日本の多くの若手研究者が内向的に過ぎて、このままでは独立の資格はない。個人の強固な意思が科学を動かすが、若者たちは公的に(海外で必ず求められる)抱負を宣言することもなく、いつの間にか職業的研究者になる。だから安楽な既成環境に引きこもりがちになる。研究者は未知や不可能に挑むが、成り行きで目標を達成することはできない。峻厳な山岳を登頂する、あるいは暗闇の深海を探索するには、それなりの心構え、準備と計画の策定が必要である。自由の府であり、いかなる目標に向かってもいいが、自らの言葉による決意表明は最低限の義務である。それは正気なのか、狂気なのか、「そこに山(エベレスト)があるからだ」(ジョージ・マロリー)の宣言を待ちたい。山の麓にも広い海辺にも美しい景色が広がるが、すでに整備された国立公園の散策は学術や科学技術の営みではあり得ない。
若者には未知や不可能への挑戦の義務がある。行政や組織の意向におもねり、受動的に流行分野に身を投じることは学術倫理にそぐわない。過去の延長線上の分別力の獲得は、かえって経路変更を困難にする。規格品製造とは異なり、学術研究には「合格点」なるものはない。かくして我が国の有力大学における研究評価と人事慣習は若い才能と感性を伸ばすことなく、むしろ無駄に消費し続けてきた。思い切りよく外国に移住して花開いた研究者は多く、決して日本人の知性が劣るわけでない。近年のアジア各国の若者たちの躍動ぶりを見ても明らかであろう。
テニュアトラック独立若手研究者の登用
急速に移り変わる時代の中で、大学制度が使命を果たすためには、まず全国的にテニュア制度の徹底から始めてはどうか。諸外国では、博士号の新規取得者ないし数年の博士研究員の経験をもつ若者をテニュアトラックの完全に独立した研究者(PI, principal investigator)として登用する。終身在職権はないが、日本の「雇い止め」の任期制とは異なり、5−7年後に「昇格ないし離任(up or out)」と「終身在職権(tenure)付与の可否」の業績評価を受ける。もちろん採用時の競争は厳しいので、彼らは選考評価に堪え得る独自の研究課題の提案をすべく、いつも「他と何が違うのか」と大事な卵を温めている。過去の優れた指導教員の研究の延長では失格である。創造は躍動的な想像から生まれるが、「良き大学」では周辺の多様な背景の人たちの刺激がこれを助ける。
大学側もこの若者市場に真剣に向きあう。この機会に是非とも新風を吹き込みたいので、同一大学出身者(pure inbred)の採用はほぼありえない。だが気鋭の若者は形式的な公募で集まるわけがなく、常に有望な候補者の所在と動向に目配りを怠らない。大学は新任助教授(assistant professor)に対して、実験室の整備、共通的基盤機器の利用だけでなく、研究室立ち上げの費用(スタート・パッケージ)を用意する義務を負う。財政的リスクが伴うため、真剣な選考が求められる。この点で日本の大学経営は全く無責任、個人の競争的資金獲得に任せきりであり、これでは外国籍の有力者の採用はあり得ない。一方で登用されたPIは、自身で経常研究費と学生への給料支弁の責任を負う。かくして、選ばれた新任助教授は学界で一定の注目を集め、覚悟を決めて出発することになる。
テニュア制度は学術の潮流変化に対応できるか
研究指向の大学院大学の主たる使命は、卓越した研究成果の創出と高度専門人材の育成と維持である。そのため、多くの海外諸国においては、教員人事について、上述のテニュア制度の合理性が受け入れられてきた。全ての教員に基本的権利として独立性が認められているので、当人にとっては処遇がかかわる職階よりも、むしろ定められた年齢までの終身在職権(tenure)をもつか否かの方が大事であるとも考えられる。現在は正教授にこの権利が与えられているが、本当にこの制度は合理的であろうか。科学の進展が加速される近年、年功は負債とは言えないまでも、過大な資産でもないことを銘記する必要があろう。
もちろん若き日に自ら分野を開き、なお先導的に活躍する年配のテニュア研究者は少なからずいる。しかし厳しい能力主義を軸とする研究指向の大学が、限られた財政資源の中でさらなる組織発展を目指すには、「年配教員の危機」は避けつつも、潜在能力をもつ45歳以下の独立研究者を主体としたいはずである。
実際に米国大学で80年余の歴史をもつアカデミア特有のテニュア制度が、大きく揺らいでいる。いったん業績評価を経て資格を得れば無期雇用で自由が保障され、解雇されることはない。しかし、この職位が決して、教員安定雇用のために定められた「保護区」であっていいわけがない。むしろ能力主義の原点に立てば、進歩が必然のSTEM分野においてこの特別な処遇は決して合理的ではあり得ない。職業スポーツ界における選手評価と同様である。研究競争力を欠き平凡な教育をするばかりで、本質的な期待に添えない年配テニュア教授があまりに多いことは事実である。そのため、共和党優勢の州において、あまりに経済負担が大きな古臭い制度は無用との政治的な動きがあり、また学術界の一部においてもこの特別な職業権利の有効性が疑問視されている。
米国におけるテニュア教員の割合は1987年の39%から、2021年には24%まで少なくなっているが、それでも多すぎるという(米国化学会C&EN誌、2023年9月4日号)。学務の責任者として内情をよく知るprovostたちのうち、現行制度を必要とするものが65%と多数を占めるが、おそらく「学問の自由の維持」の観点によるであろう。しかし否定的な人が18%もいる。アカデミアは著しく個人能力に依存する世界であるため、すでに多くの大学がテニュア教員の再評価の制度を始めたというし、また終身雇用ではなく10年契約にすべきなどの意見も有力である。
最も大事なことは、今一度熟練のテニュア教員の役割、責任を明確にすることであり、若い非テニュア教員への期待とは当然異なるはずである。彼らが世代として受ける恩恵は、次世代に受け継がれるはずで、新たな条件は一時凌ぎではなく、持続的な合理性をもたねばならない。大学において「研究と教育は必要だが、現行の教授職は必要がない」とならないことを祈りたい。
我が国の研究大学はどうありたいのか
すでに周回遅れの日本の大学教員制度はどうすべきだろうか。1989年から2022年の約30年間に国立大学の本務教員は約10,800人増加しているが、その内訳は40歳以上の約16,000人の増加と40歳未満の約5300人の減少である。教授の約4,500人増加、准教授の約3,100人増加に比べて、助教・助手は約2,600人しか増加していない。甚だ不健全ではないか。
大学は社会の中にある。近年の社会環境は急速な変化、特に大学に対する要請の多様化は、必ずしも従来の人事慣習の正当性を保証するものではない。何が公正か、健全な制度運用に向けて強く再考が促される。年配者の理不尽な既得権維持の振る舞いは、年を経て必ず後継世代に引き継がれる。とくに研究指向の大学においては、テニュア制度の是非についての開かれた議論が必要である。
もとより能力主義を基本に、最高の活力ある陣容を立て直すべきであるが、米国にも増して多数を占めるテニュア教員への優遇制度がそれを阻害している。財政逼迫とも関連するが、過去20年にわたる衰退の原因の核心はここにあるのではないか。そして今、古い慣習から抜けきれず無用の世代対立が顕在化しつつある。若者たちに不満が燻るが、彼らが目指す正教授の地位はもはや知的な憧れではないのではないか。
少なくともしがらみのない外部識者の率直な意見も取り入れるなどして、学術界、一般社会が共に納得する合理的かつ柔軟な制度を考え出してほしい。既得権の是正を図るべきなのであって、決して年配者の排除を主張するつもりはない。もとより学術における知は普遍的な意義をもつ。国家の学術戦略をもとに整合的に頭脳流動化を図るとともに、新たな社会的要請を踏まえて豊かな経験を最大限に活かす仕組みを作り出す必要があろう。
無期雇用と有期雇用の制度設計
大学においては優れた人材こそが最大の無形資産である。しかし現行の法人経営の形態では当然財源に限りがある。まず若手研究者の雇用の確保、教員の高齢化問題の克服に向けて(定年制)無期雇用・(短期)有期雇用の問題の本格的検討が不可避である。それぞれの大学は、(内部の大多数が望む)現状維持に努めるのではなく(評議会はじめ外部の知恵を借りて)自らの価値を高めることに傾注すべきである。学内教員に安易にテニュアを与え続けることも、逆にたびたび「厳正な外部評価」に付して短期契約雇用を繰り返すことも無責任である。是非とも大学におけるジョブ型とメンバーシップ型の雇用の得失を考えるべきだろう。たとえ困難であっても、大学の特色ある将来計画に整合すべく、また年齢と研究分野により最も適正な評価法をとりたい。
多数の志ある若者の苦境を差し置いて、年配者が既得権維持に向かってはなるまい。いかなる制度も法人の経営基盤改善のため、教員の生活保障のためだけにあってはならず、あくまで自らの教育研究能力の強化に資するものでなければ、社会から受容されまい。これは学術界全体の倫理意識と個々の大学の自治の問題でもあり、自らの不作為がいずれ好ましくない政治介入、行政指導を招くことは必定である。権力から独立した有識者組織、日本学術会議はどう考えているのか、積極的な提言を期待したい。
有期雇用教員は何処へ
2024年における日本の約6.4万人の国立大学教員中、無期雇用、有期雇用の教員比率は、61.4%、38.6%であり、米国や他国に比べて無期雇用者が圧倒的に多い。年配者の滞留は顕著である。一方、創造力が最も高いとされる40歳未満の1.5万人程度の教員について言えば、任期なし雇用が30%、任期付きが60%、テニュアトラックが10%と状況が反転し、有期雇用者が7割を占める。また、大規模大学において任期付き雇用やテニュアトラックの割合が多い傾向にある。
これらの有為な若者たちは何を求めて、何処へ行くのか。有期雇用の契約は遵守しなければならないが、それが大学と個人の利害調整のためであってはならない。たとえ論文が量産されても学術は衰退する。彼らはもともと特定の目的に沿って厳正な選考過程を経て登用された価値観を共有する人材であり、組織として若き同僚を突き放して済むものではない。高度な専門能力に思いを寄せる外部者とともに新たな境地を拓くことに最大限尽力してほしい。
大学法人の理事長と学長は全学の現在の活動と将来の方向性に整合すべく人員配置に責任を持たねばならない。しかし、若手研究者に対して(審査による昇進への道を開く)テニュアトラック制度が機能しないばかりか、(能力を一切考慮しない)画一的「有期雇用」による「雇い止め問題」が顕在化している。10年後の年齢構成をどうするつもりなのか。成り行き任せでは、我が国の学術研究、高等教育は破綻する。
優秀人材の流動性を格段に高めたい
研究者にとって転身は名誉であり機会でもある。平均的な人材にやむなく移動を強いるのではなく、むしろ逸材を厚遇しつつ流動性を高めることこそが上記の状況を打開、さらに日本の研究力向上に資すると考えている。米国や欧州では、名伯楽の信念や目利きの直感による個性ある若手抜擢成功が組織に格段の発展をもたらした例が枚挙にいとまない。優れた研究者はしばしば旅をする。ノーベル賞受賞者が平均4.6機関を渡り歩いてきたこと(筆者がかつての選考委員から直接聞いた話)と無関係ではあるまい。今年の受賞者である坂口志文、北川進両博士をはじめ、我が国の成功者にも転身傾向が認められる。
大学法人が長期的に組織健全性を維持するためには、特色ある研究成果の創出のみならず、学生と研究者の成長のために責任を果たさなければならない。まず自学の研究者たちに最大成果を期待して学内環境を整備することは当然ながら、彼らの意向を汲み取り、必要に応じて外部組織との協働を働きかける。内部活用にとどまらず、産業界や政府関係組織への転身、起業などを助け、個人としての満足できるキャリア形成に十分配慮してほしい。研究者の転出は、自らの大学組織の新陳代謝、機能転換の機会をつくり、さらに人的ネットワークの拡張にも寄与する。もちろん国全体の社会としての活力維持にも貢献することになる。
一方で、冒頭の「人が足りない社会」について、特に産業界と深く関わる学協会はどう考えているのか。欧米、アジア諸国は有望な若手を発掘し激励することに躍起である。米国化学会のC&EN誌には「Talented 12」と呼ばれるプログラムがあり、「化学で世界を変えたい」意欲を持つテニュア以前の大学教員、博士研究員終了後10年未満の公的機関や企業(しばしばスタートアップ)に属する独立研究者を、毎年12名ずつ選んでいる。今年も30倍以上の競争倍率、多様な当選者たちはたくましい「回遊魚」的な経歴を持ち、目を見張るような大胆な夢を語る。日本のように安全な閉鎖環境に育つ「養殖魚」的な秀才では、太刀打ちができるはずがないではないか。人が足りないとするのは、社会に覚悟と知恵が足りないためであろう。