2025年11月28日

(69)坂口志文、北川進両博士のノーベル賞受賞を機に考える

今年、「制御性T細胞」を発見した坂口志文博士にノーベル生理学・医学賞が、「多孔性金属有機構造体」の研究を牽引した北川進博士に同じく化学賞が授与されることになった。近年我が国の基礎科学力の衰退が懸念される中で、ともに約30年前の先駆的、しかしやや冷ややかに扱われていたとされる研究成果が、その後の地道な努力が実り、高く評価されたことに感慨を覚えている。両博士の不屈の思い入れに敬意を表するとともに、公的研究助成機関、大阪大学、京都大学が組織としてこの熱意に応えて研究を支え続けたことも付け加えておきたい。

今後は、この成果が社会の望む形で実践的に活用されて、広く国民が基礎科学の重要性に納得することを願っている。この度、両博士はこの国に可能性ある種をまいた。これから太い幹を育て、しなやかな枝に美しい花や果実をもたらすのは社会全体の仕組みと力量である。科学に国境はない。他国にもそのための肥沃な土壌が広がっていることを忘れてはなるまい。

科学賞は感謝しつつ授かるもの

実は、この授賞決定が伝わる10月6−8日に先立つ9月上旬に、筆者は文藝春秋社の依頼で梶田隆章、吉野彰両博士と対談をした。10月10日に発売する「文藝春秋」11月号に掲載すべく「今後30年で10個ノーベル賞を取るために、日本は何をすべきか」とのテーマ座談会を企画したので、ノーベル賞受賞者として具体的な提言をしてほしいとのことであった。だが、冗談ではない、これは科学界の矜持に関わることである。日本を代表し大きな影響力を持つメディアはもっと高い見識をもって一般社会、とくに若い世代を導いてほしい、と強く主張した。物理学者の梶田博士も全面的に支持してくれた。

もうずいぶん昔、2001年のことであるが、科学立国を目指す日本政府は第2期科学技術基本計画で「50年に30個のノーベル賞獲得」の目標を掲げた。しかし、私は化学賞受賞後の記者会見で「ノーベル賞の数値目標は不見識、国家としての品性にもとる」とした。スウェーデンの国際賞であるノーベル賞は「人類に最も貢献した人(person)」を称える名誉であって、決して国威高揚のためにあるのではないからである。

もう一つ、ノーベル賞を「取る、獲る」の言い方も不適切である。そもそも科学分野における賞とは、その主催財団や組織などが、創設趣旨に沿って主体的に課題と人を組み合わせて選考し、研究者たちに「授ける」ものである。したがって研究者たちは謙虚に感謝を込めて「授かる」、「頂く」、「受け取る」もの。オリンピックの金メダルのように予め決められた種目について、競技者たちが厳密な規則に則り、優劣を競いあって獲得するものではない。研究者にできることは、開かれた自由な世界で精神を解放し、ひたすら創造に向かうことだけである。

国家による資金提供と引き換えに、競争主義や経済論理を無理やり押しつけられてはたまらない。科学の世界は無限に広がる。研究者は自らの営みに誇りをもちながらも、他と相対して謙虚に振る舞うべきである。いかなる評価制度であれ、勝者総取り(Winner-takes-all)の文化は勝者・敗者の二極化、また個の序列化をもたらして学術界を歪める。人類文明が危機に晒される時代に、研究者や組織に自己中心的な競争を強いれば、必然的に新たな価値創造のための共創の風土を損なう。中でも論文数値評価など、無思想かつ過酷なテイラー主義の科学的管理法の導入は、確実に若者たちの知性、感性を損ない、学術の衰退をもたらす。近年、過剰な競争主義に煽られる研究社会に倫理観の揺らぎを感じるのは、筆者だけではない。先年訪日したスウェーデン王立科学アカデミーのスヴァンテ・リンドクヴィスト元会長とも「ノーベル賞獲得レース」を巡る不健全な風潮について懸念を共有した。米国、英国、ドイツなどで受賞者が多いのは、それぞれの国が寛容の精神で忍耐強く基礎科学や高等教育の振興を図ってきた結果である。

メディアはなぜ受賞予想をしたがるのだろうか

情報の時代に有力メディアの力は行政や専門学界からの発信にも増して大きい。我が国の最新の科学技術研究動向の紹介記事は一般社会に理性と技術の力を説き、夢を与えてくれる。ノーベル賞受賞者への大々的な祝意も、明日を担う若い世代を励ましてくれる。一方で、多くの全国紙が毎年9月になると競って掲載する「ノーベル賞受賞予想記事」の目的は何なのか。成熟した国の知識層を対象とする新聞としては違和感をもつ。政界、官界、産業界へ我が国の科学研究の卓越性を(分かりやすく)アピールし、資金援助の拡大を促すためだろうか。しかし、写真入りで受賞最有力と名指された研究者たちと周辺は対応に苦慮するだろう。ある種の野心家や所属組織の承認欲求を満たすかもしれないが、伝統的に内在的動機に基づき学術に勤しむ研究者にとっては迷惑千万ではなかろうか。はたまた第三者としてノーベル財団の選考委員会へ授賞推奨、提案するつもりなのだろうか。欧米先進国の研究社会が知れば奇異な慣習と映るだろう。いずれにしても科学界の意図ではなく、研究活動の「政治化」や「大衆迎合化」に与みして欲しくはない。国家の学術ガバナンスは統合経路に向かうべきで、根拠不十分な分離経路を促してはなるまい。

ノーベル自然科学賞の受賞は3分野、各3名以内の生存研究者に限られる

世界にはさまざまな意義ある研究分野があり、その貢献を称える多様な仕組みが存在する。もとより125年の歴史をもつノーベル賞は、科学者たちにとって最も栄誉あるものであることは間違いないが、これだけを特別視することは避けたい。このスウェーデンの科学賞は国籍を問わないが、対象は物理学、化学、生理学・医学の3分野に限定されており、また各賞とも個人研究者3名以内への授与を原則とするからである。2013年の物理学賞はCERNの数千人の国際共同研究によるヒッグス粒子の発見、2017年の同賞は巨大なLIGO実験による重力波の観測成果を対象に選んだが、それぞれの代表者2名、3名だけに授与された。なお、ノーベル平和賞(ノルウェー委員会)は、昨年の日本被団協のように団体や機関が受賞することがある。

ノーベル賞は、他のほとんどの著名な賞と同じく、アルフレッド・ノーベルの遺言に則り存命の人にのみに贈ると決められている。自然科学の世界が空間、時間を超えて限りなく広がる一方で、研究者の命は短く、これが近視眼的、競争的雰囲気の醸成の大きな原因にもなっている。一方で科学者はさまざまで、謙虚に「無知の知」、人生100年内に成しうることの限界をわきまえ自らの生き様を歴史に委ねたい人もいるはずである。ノーベル賞はこれに応えられないが、その必要もない。科学顕彰にとってその個性こそが大切な価値である。

科学の歴史をつくった古典的成果を称える

米国化学会の歴史部門は2006年にCitation for Chemical Breakthrough Awardを創設し、18世紀後半から現在まで、化学の発展に特に大きな影響を及ぼした90件余の歴史的な業績を選出してきた。ここには過去にノーベル賞の対象となったキュリー夫妻の放射性元素、ワトソンークリックのDNA二重らせん構造の研究も含まれるが、それに先立つアボガドロ(化学当量)、パスツール(光学異性体)、メンデレーフ(周期表)などの巨匠の業績が並ぶ。近代化学の祖ラヴォアジエの1787年の化学命名法に関わる論文の価値は、実に228年後の2015年に再確認されている。これらの創造的科学者の魂のほとんどは長く墓地に眠るため、直接に敬意を表することはできない。したがって、顕彰を受けるのはそのような自由闊達な研究文化を育んだ大学や研究機関である。ラヴォアジエの古典的業績については、かつて彼が所属したパリの科学アカデミーが顕彰された。良き研究風土なくして創造的な科学は生まれない。後継世代を導いた今は亡き、かけがえのない先人たちに是非とも感謝を捧げたい。欧州に比べれば科学新興国の米国の化学歴史家による一つの見識ではなかろうか。

日本らしい国際賞にもっと光を当てたい

あらためて我が国の良識ある一般社会と、そこに圧倒的な影響力をもつ有力メディアとに理解を求めておきたい。今やいずれの国においても科学技術は「国家生存の条件」であり、有為な科学者の育成、確保が不可欠である。同時に科学者としての理念に基づいて言えば、我々に特定分野、課題に関わる国際的な「競争力」の有無を問うことはあまり意味がない。むしろ日本に生まれ育った科学者たちが、特色ある学術、広く言えば文化的背景に基づき、いかに科学全体の発展に貢献できるかが問われる。欧米先進国の施策、価値観のものまねでは不十分で、日本人らしくこの国に内在する特徴を生かしたJ-ブランドをつくり、世界の共感と信頼をうることが必要である。筆者の世代は貧しく力不足であったが、結果としてそのように生きてきた。そして政治、経済界、そして国民全体の熱気と期待が後押ししてくれた。若い世代にThink globally, Act locallyを薦めるが、同時にThink locally, Act Globallyも忘れてはならない。

もとより著名な国際的顕彰、ノーベル賞を受けることは個人や組織にとって大きな栄誉であり、日本国にとって(少なくとも30年前の)科学力、潜在力の証でもある。しかし日本は欧米を追従する後進国ではなく、特色ある精神が宿る立派な科学国家である。現状に安住するのではなく、この確立されたスウェーデン国財団の価値観と整合しつつも、日本独特の価値観を加えた自前の顕彰制度を発展させ、自国と世界の若い世代を激励する責務をもっている。

この観点から、我が国にはすでに30−40年の歳を重ねてきた立派な国際賞がたくさん存在する。筆者の知るところ、日本国際賞(人類の平和と繁栄のための科学技術、1983年-)、京都賞(先端技術、基礎科学および思想・芸術、1984年-)、ブループラネット賞(地球環境問題、1992年-)、やや新しいが政府系の野口英世アフリカ賞(医学・医療、2008年-)などは、その特徴ある設立趣旨、規範、業績の水準、賞金額、天皇皇后両陛下や皇族の臨席を仰ぐ式典の格式、受賞者たちの満足度、さらに若い世代への教育効果などの観点から、世界に全く引けを取らない。

日本らしい価値観、哲学の披瀝の場でもある。活動業績の卓越性は論をまたないが、京都賞の理念は、受賞者の資格をこう謳う。「謙虚にして人一倍の努力を払い、道を究める努力をし、己を知り、そのため偉大なものに対して敬虔なる心を持ち合わせること。世界の文明、科学、そして精神的深化のために大きな貢献をしたこと。さらに、自分の努力をした結果が、真に人類を幸せにすることを願っていた人でなければならない」。この賞の審査は、創始者である起業家、思想家の故稲盛和夫氏の篤実な人柄、利他を尊ぶ人生観を拳拳服膺しつつ進められてきた。

これらの国際賞の創設者と資金提供者の志、運営責任者の創意工夫、応募および選考関係者の努力に敬服している。しかし国内外の知名度を高め、趣意の波及効果を向上するには、各財団の発信力だけでは不十分で、有力メディアの力を借りる必要がある。だが、なぜに我が国主要メディアのノーベル賞と日本発国際賞の取り扱い、発信の力の入れ方が、かくも極端に非対称なのか。外国籍受賞者たちの訪日の感想、若者との交わり、我が国制度への提言などを積極的に取り上げてみてはどうか。価値基準があまりに旧態依然の西洋崇拝主義、長年にわたり自国の文化的、学術的な価値を卑下する風潮を残念に思い続けている。

今日の日本の科学力

いずれにしても、坂口志文、北川進両博士のノーベル賞受賞に改めて祝意を表したい。一昨年10月に英国ネイチャー誌に「日本の研究はもはや世界第一級ではない」(Japanese research is no longer world-class -- here is why)とする屈辱的な記事が掲載されてから間も無い慶事である。いったい日本の科学力の水準は如何なるものか。この印象ないし実態の著しい乖離の原因解消に向けて、両博士が新たな社会的責任を負わされることは避けられないが、混沌とした国際情勢、さらに人工知能が席巻する時代に我が国、そして世界の科学界の健全な発展のために指導力を発揮していただきたい。