(68)研究指向大学の成功に向けて(その1) 〜 大学法人の自治と教員人事慣習の是正
知は社会の豊かさの源泉である。近年の大学の教育機能不全と研究水準の衰退の最大の原因は、長年にわたる社会全体の「知」への無理解、とくに政府による財政の逼迫にあることに間違いない。しかし、大学の自治のあり方、とりわけ教員制度の不具合と現場人事の停滞、失策によるところも大きい。国際標準とはあまりにかけ離れた慣習の蔓延が、あるべき教員の新陳代謝の機会を阻んできた。研究指向の大学において、盛んに国際化の促進が謳われるが、現在の守旧的な組織運営は世界の学術界から到底受け入れられないし、国内的にも(内情を知らされれば)良識ある国民や様々な支援者、利害関係者にとって納得できるものではない。「改善の努力」では間に合わない。大学組織、大学人自らが、この危機的状況を直視して不退転の決意をもって不都合を是正しなければならない。世界の潮流に対応することなく、日本の国力再生はあり得ない。
国立大学は真の自治を享受してこそ「学府」と言える
国立大学は、国家の知性を自律的に先導しなければなるまい。筆者はかつて「国営」であった頃の新制国立大学に学び、のち長く教育研究にも関わった。残念ながら、当時の大学は制度上、国から一定の財政的保障を得る一方で、学事運営面における主体性は極めて限定的であった。産業界はじめ社会の要請により4年制の学部教育が主体であり、大学院は学者養成課程としての意味合いが大きかった。その学部、学科の基本構造はもちろん、教育研究の単位である「講座」の名称、つまり活動分野についても文部省の承認が必要であった。国家公務員である我々「文部教官教育職」は定数だけでなく俸給も経験年数による号俸で定められた。公務員試験合格の必要性はないが、国籍条項も残っていた。教育公務員特例法により、学会出席や出版活動などで勤務場所を離れて裁量労働をすることは許されたものの、助教授、助手は教授の職務を助ける、上意下達のいわば君臣の関係と定められていた。かくして、学長といえども既存組織全体の変革は容易ではなかった。
2004年に国立大学は法人化され制度的に自由度が増し、自らが展望する基本的な将来像の実現を目指して教育研究活動ができることになった。だが20年が過ぎて、優れた研究成果は少なくないが、全体的な国際比較においては従前に比べて満足できるとは言い難い。少なくとも当初設定した計画の進捗状況を説得性ある形で主張するには至っていない。かくして産業界はじめ一般社会は、時代が求める高等教育、人材輩出が不十分であると苦言を呈する。大学が過去の慣習にとらわれ自己改革しない(できない)ことが主因であるが、一方、政治行政は自らの不作為を棚に上げて、現場の学術活動の在り方を過剰に心配することにもなる。
もとより「近代国家の成功」は、国立大学、とくに研究指向大学における卓越した学術研究と世界に伍していける人材の育成なくしてあり得ない。そのために、大学は外部からの圧力によるのではなく、本来の自主的、自律的活動によって国力の再生に貢献すべきである。昨今、世界が混乱しパクス・アメリカーナが揺らぐ中で、学術界も例外ではない。米国トランプ政権の有力大学への不信、自治への介入は、同盟国日本にとっても対岸の火事とは言い切れまい。政権の本当の意図は何なのか。我が国の学術界には、これを他山の石として、改めて自らの使命への矜持と新たな覚悟が求められる。
大学人の自由の意識
大学人としてのアイデンティティーは、官僚や企業人とは著しく異なる。学術の府である大学では、目標必達が求められる国公立研究所や企業組織とは異なり、個々の研究者に最大限に自由が与えられている。この正当性は、彼らが自律的に公表する研究教育の成果の専門的評価をもってはじめて保障されるはずである。しかし、近年は研究者たちの過度の恣意、自己中心主義、大学への帰属意識の薄さなど、倫理観の低下が懸念される。それぞれの大学が自ら全学共通のHonor Code(名誉規定)を制定し、構成員が互いに倫理観を確認し合うことが大事であろう。これは学生教育の面でも大きな意味を持つ。他方で、大学人が組織的束縛を拒みつつも、同じく自由を尊ぶ文化人とは異なり、あえてXX大学教授、また学生もYY大学で学ぶと自らの所属組織を名乗るのはいったい何故だろうか。筆者の欧米の友人研究者たちは日本人と違い名刺を持ち合わせない。
国立大学は自らの特色ある目標を明確に宣言して欲しい
日本の国立大学は国が設置し文部科学省の管轄下にあるが、85大学それぞれに自主性、自律性が保障されている。学術活動は多岐にわたり、その分野連携・融合が求められる中で、真の総合性を活かした大規模大学は必要であるが、多くの法人はむしろ、さまざまな特色を生かして戦略的に重点分野を定めて、唯一無二の存在たるべく先鋭的な研究・教育に向かうべきではないか。国家が短期的な視点に基づく「選択と集中」政策をとり、意欲ある大学組織の自律性を損ない、画一的に序列化して管理運営することは全く得策とは言えない。
自立した公的存在として国立大学は、それぞれにいったい何を具体優先的に目指すのか。学術の本質である主権を放棄し、あまりに横並び傾向が強い。未来を洞察した上での確固たる意思の発露と、その実現に向けた戦略的実行力が欠落しているように見えてならない。自らの20年先の学府としての姿に、誰がどう責任を取るのか、甚だ不明確である。これでは次世代へ責任を果たせない。
大学法人としての人事規定を明確にすべきである
大学の学術水準は教員の力量によって決定されるので、各大学は自らが定める公正かつ合理的な規定に則り、責任をもって人事を行うべきである。今日のさまざまな不具合の多くは、自らの統治要項における教員採用、昇任の人事規定の不明確さ、あるいは学内における不徹底による。具体的な審査プロセスにおいても、責任担当者たちに自らのこととしてリスクを取る緊張感、研究評価の力量、当該分野における国内的、国際的な連帯感が欠けているように思える。
結果として、国際人事の停滞はおろか、国内でもごく限られた貴重な有資格者がしばしば登用の機会を失することになる。この不都合の常態化や、無責任の積み重ねが、近年の大学組織の脆弱化を招いている。特に多くの大学人の感覚がこの不具合に麻痺していることが問題である。今後、この状況が無用な外部介入、また人事過程の画一形式化を招きかねないことを恐れている。
標準的な教員選考の手続き
教員人事は学術の進展と自学の名誉ある発展を旨とすべきである。そのプロセスは大学の規模や性格によるが、開かれた公器としてまずは国際標準の規定に基づかねばなるまい。
以下に筆者の知る国際標準の選考過程のあらましを述べる。一般的な大学機関において、シニアからジュニアまでいずれの職階についても、まず学長の名において教育研究担当副学長(provost)が総責任者として、各専門分野の研究科長(dean)などの所信や要望を受けて「大学として推進すべき」分野を定める。その上で学科長(department chairperson)などの幹部教員からなる採用・昇任委員会を発足させて具体的選考が始まるであろう。
これを受けて、複数の学内専門家からなる選考委員会が10数名から100名以上にも及ぶ公募また特定の招聘候補者の中から、最終候補者一人を選び出して推薦する。その要諦は「大学が目指す将来のために是非とも欲しい人」の選出であり、「そこで教授になりたい人」、「過去に多くの論文を書いた人」、「研究費獲得が得意な人」が本質的趣旨に合致するとは限らない。絞り込み過程ではピアレビューが不可欠であり、候補者の専門分野を深く理解する相当数(しばしば10名以上)の外部の見識者の意見を聴取する。若手候補者といえども存在が外部者によく知られている必要がある。専門家の意見を参考に、選考委員会が信念をもって主体的に人選する。多数の候補者リストから相対的に優秀な者を選ぶのではない。学内の戦略的な基本方針と合わせて最適と認める人がいなければ手間をかけてもやり直す。その後、上位組織である採用・昇任委員会の議、学長の承認、最終的には理事会の「大学の意思」で決定するので説得性ある人選でなければならない。大変な専門労力を要する作業であるが、これが筆者の知る国際標準の選考過程のあらましである。もちろんこの人事過程の詳細は非公開であるが、のちの(必要が生じるかもしれない)内外検証に備えて記録保存することが大事である。この手続きの遵守が「大学自治の保障」の条件である。
しかし、実際の登用は候補者選考では終わらない。教育研究の初期環境の整備、処遇(俸給の上限と下限、さらなる補償など)、教育義務、兼業、知財権などの条件について契約責任をもつのは、選考に関わる専門学科(department)ではなく大学法人である。とくに有力な外部招聘者との交渉は必ずしも容易ではない。
「大学の自治」ではない「学科、講座の自治」は避けたい
学術は変容し科学は進歩し続ける。大学は、常に学内外の衆知を結集して研究教育の長期的方向性を真摯に検討し続け、その実現のための「大学としての」人材獲得計画を果断に実行しなければならない。それぞれの大学に目標があり、多様性の意義を取り違えてはなるまい。近年、世界の人材争奪戦が熾烈を極めるのは、研究指向大学としての命運が教員の能力に直接的に依存するからである。
教員の登用、昇進人事には、当該大学が唱える将来像の形成との整合性が問われる。我が国においては現実には大学法人としてのガバナンスが欠如するため、分野別末端組織の状況に追従的で、恣意的かつ説明不能な人事が常態化している。これでは大学が掲げる崇高な目標が達成できるわけがない。本来の「大学の自治」ではなく、細分化された学科(専攻)や講座(研究室)による意思決定は「教授会自治」とも呼ばれ、文部行政が国立大学を隅々まで支配していた時代の残滓でもある。現在は、制度的に全ての教員が経営主体である大学法人の一員であり、決して学部(研究科)や学科、ましてや講座(研究室)やそこに所属する年配教授に雇用されているわけではない。
縁故人事と訣別すべきである
教員人事は組織の新陳代謝の絶好の機会であるので、海外では能力主義による頭脳循環を基本とする。学術的な血縁人事(inbreeding)をよしとしない文化があり、研究者をその経歴により、pure inbreds(博士号取得大学から移動しない教員)、silver inbreds(他大学を経由して博士号取得大学に在籍する教員)、non-inbreds(他大学で博士号取得した教員)に分類することもある。もちろん形式的であり固有の専門的能力とは全く無関係である。
しかし、特定目的を持つ教員人事における空席はただ一つである。研究社会は広く「最適の人」が当該大学に存在することはまれであるが、我が国では学術的に「血縁」とも言える学内関係者の縁故登用、昇進があまりに多い。近年の、一般に10数倍から100倍といわれる数的競争率から見ても不自然であり、科学的必然性は不在、inbredsの増殖を社会に説明することは難しい。海外からも評判の芳しくない「講座制度」が残るため、身内優先の人事が常態化しているためであるが、この不健康状態には猛反省を求めたい。
開かれた学問の府、とくに自然科学とその応用分野においては「一子相伝」の家元制度は馴染まない。一般的に、内部登用、昇任人事は研究生産性やネットワーク形成の低下をもたらすとされる。官庁や東証プライム企業(同族経営を除く)においても、身内の採用については極めて慎重であるはずである。理事会所掌による学事ガバナンスの欠如によるが、場合によっては今一度、評議会による開かれた制度評価が必要かもしれない。
鍵となる研究者の獲得と処遇
教員であれ職員であれ、全ての採用、昇任人事は、研究科や専攻学科など末端組織の恣意に任せることなく、大学法人が全責任を持つべきである。もちろん大学としての目標の実現のために、研究者の個人的能力による成果の創出とともに、その社会にもたらす影響も勘案する必要がある。海外の研究指向型の大学では、もとより専門性に懸け国内外を流動するジョブ型研究者が主力であるが、余人をもって代え難い業績や格別の技量特性ゆえに、請われて同一大学内にとどまる人もいる。また建学の精神、伝統を重んじる私学などでは特色あるHonor Code維持のためにメンバーシップ型の教員も必要だ。上記pure inbredsやsilver inbredsたちに所属大学に対する忠誠心、支援行動、責任感が比較的強い傾向にあるからである。
大学の戦略的意図による特定分野の振興には、しばしば研究者の一般公募だけでは不十分で、他大学で活躍する著名な研究者のリクルートが必要となる。しかし、彼らは自らの所属組織における責任に鑑みて公募に応じる立場にはないため、獲得は容易ではない。理事会、学事統括者による一般規程を超える格別に魅力的な条件提示など、法人としての積極的関与が不可欠となる。
国内に人材が不在なら外国から招聘する。しかし現在の日本の国立大学の正教授の平均年俸は、研究能力、業績、存在感十分には反映せず1,000万円強である。米国の有力私立、州立大学の3-4分の1程度に過ぎず、これでは4年制の私立大学と変わらず、法人として頭脳獲得に競争力をまったくもち得ない。海外出身教員の比率は、大阪大学で13%、東京大学は8%とせいぜい10%前後で、中国の北京大学の21%、清華大学の14%に劣後する。現在のインフレと円安問題も関わるが、これは制度的に無責任ではないか。私学の早稲田大学は学内基金を運用し、3,000-7,000万円を提示することを公表したが、先鞭的な成果を期待している。もちろん給与だけが決定要素ではない。英国の名門、オックスフォード、ケンブリッジ大学における教授年俸は日本と同水準であるが、海外教員比率はそれぞれ44%、52%と極めて高い。長年の知恵の積み重ねにより、魅力ある学術環境を提供しているに違いない。
昨今、国際的な研究市場は極めて流動的である。米国学術界、特に気象分野、医療分野の研究者の多くがトランプ政権の科学政策により大きく動揺しているためで、欧州は彼らの招聘・定着を目的とした支援パッケージに5年間で約8,500億円を投じ、日本も総額1,000億円規模のJ-RISE Initiativeやグローバル・スタートアップ・キャンパス構想の先行的活動による招聘が進められている。今回の取組みがその場限りで終わることなく、日本の研究者人事に良い影響を及ぼすことを期待したい。国際卓越研究大学である東北大学は、人事戦略の司令塔となるHuman Capital Management室を設置、5年間に約300億円を投じて500名の一流研究者を採用するという。ここにも大いなる成果を期待している。
いずれの世界でも特別の人を特別の栄誉をもって処遇することは当然である。分野象徴的な研究者を招聘する、あるいは保持し続けるための有効な方法は寄付金などを「基金」とする特別教授席(endowed professorship)の設定であろう。米国や英国でよく行われているが、数億円の寄付者や大学への貢献著しい先駆者の名を冠した教授席をもって特別に処遇してはどうか。当該教授、寄付者の双方にとって名誉であり、大学の存在感の向上にも資するところが大きい。特例処遇を制約の大きい国費に依存することにはとうてい無理がある。
国際的に卓越した研究組織とは
「知恵の伝達」とは単なる専門知識やデータの交換ではない。日本の大学に優れた研究業績をもつ教授たちは多いが、夢多き外国の若者たちが「海を越えて直接に会って教えを乞いたい」、世界の超一流研究者が「是非とも一緒に散歩して、食事をしたい」とする人物がどのくらいいるだろうか。筆者は若い日に、多くの憧れの先生たちに巡り合い、励まされながら科学者人生を歩んだ。今後も学者の成育には論文発表だけでは不十分だろう。「XX大学に所属するYY教授」ではなく、「YY教授がいるXX大学」を目指して人材を育成、獲得すれば、大学は格段に存在感を増すはずである。
外国機関で活躍する一流の日本人は多い。一方、外国籍研究者にとって、日本にはおそらく大きな文化的、制度的な障壁があるであろう。かつて米国ニューヨークで長く活躍した超一流の日本人有機化学者が「母国の有力大学からは一度も招聘されたことがないし、仮にあっても、とても受ける気持ちになれない」と言っていたことを思い出す。決して給与だけが理由ではない。外向的性格をもつ彼は、おそらく高い学術的倫理観と責任感をもち信頼できる同僚たちと、日常的に創造的、批判的に対話できる質の高い知的環境を求めていたのではなかろうか。近年の我が国の大学指導者、有力研究者たちの話題は、学術や文化論よりもあまりに研究資金、大学評価、学術政策、産学連携など財政問題などに偏っていると感じている。我が国の卓越大学には論文や特許などの研究成果創出にとどまらず、世界が共感し、信頼を寄せる学術文化の醸成が不可欠であると思っている。
一定規模の機関にあらゆる分野で卓越性を求めることは現実的でない。戦略的に特定分野において旗艦プロジェクトを設定し、輝ける研究成果を産み続けるためには、世代を異にする超一流の研究者たちを集結することが必須である。基礎科学を推進するドイツのマックス・プランク研究所では「世界中の誰でも招聘できるし、そして誰でも受けてくれる」ことを一流の研究機関の証としてきた。1990年代には一時的に統一ドイツの経済停滞も重なり、この誇りが汚されていたが、その後は回復し、近年は研究所も所属研究者たちも共に満足しているという。欧米の著名大学も同じであり、分野的に顕著な特色をもつ。米国ケンブリッジで隣接するハーバード大学とマサチューセッツ工科大学も異なる特徴を持つではないか。我が国が目指す「国際卓越研究大学」も総花的ではなく、ぜひそうあるべきであろう。