(67)研究指向大学(research-intensive university)におけるリーダーシップ
国家の成功は、卓越した科学技術と優れた高等教育なくしてあり得ない。我が国は是非とも教育研究体制を「刷新」すべきである。「改善」程度ではとても間に合わない。
多様性を確保するために、我が国には国公私立の異なる経営、運営形態の大学が約800校存在するが、なぜこんなに必要なのか。学生10万人あたりの大学数が31校もあり、米国の19校、英国やドイツの14校に比べてあまりに多い。567法人にのぼる私立大学法人のうち101校はすでに経営困難な状況にあり、約6割が定員割れであるという。大学は「生き残りをかけて」などというが、ことは個々の法人経営の問題ではない。
18歳人口は1991年の約200万人から約100万人と約5割にまで減少し、今後はさらに下がる。教育行政の不作為、この若年層の激減は20年も昔から承知していたはずであり、釈明の余地はない。また、現存のすべての大学が特色ある組織であるわけはなく、かつての規制緩和政策の失敗も明白である。
大学の整合性なき乱立
我が国の誇りであるはずの「国立大学」の86校も多過ぎる。学生の需給バランスのみならず学術的に整合性を欠く大学の乱立は、個々の財政基盤の脆弱化と経営・運営能力の人的不足、学術組織の著しい疲弊をもたらし、国全体の高等教育、研究力を衰退させてきた。
財源不足が原因だとする議論も聞かれるが、たとえ新たな資金投入により数校が国内競争に勝ち残ったとしても、あとは死屍累々である。研究教育への公的資金を私的な負担に比べて格段に拡大する必要があるが、国費への相対的な依存度を減じるためには、日本が「道州制」を敷いた姿を想像して、体質・機能強化に向けた統合ないし連携してはどうか。組織維持だけが目的の安易な連携体制には意味がない。
国費投入には大学側の陳情だけでは不十分、果断な政治判断を必要とする。そのためには大学に対する社会からの信が問われるが、現状では理解は得られない。公的資源は老朽化した現体制維持のためではなく、学問の府としての真の組織合理性・効率性向上に投入されなければならない。衰退は他国のせいではないし、自らの非力、過去の失策を思い悩んでも仕方がない。主要大学は「教育研究主権」を堅持しつつ、自らの意思で国際水準を実現すべく奮起して欲しい。
大学法人には多様な運営指導者が必要である
主要大学の使命は、社会の負託に応える高度な研究教育の確保である。それには、ただ優秀な教員と学生を集めるだけでは不十分であり、知識社会の本質を理解する経営者と具体的な計画を立案、運営を先導する専門家が不可欠である。例えばスポーツ事業が優秀な競技者だけで成り立つことはないし、音楽活動が優れた演奏家、歌手、舞踏家だけで、あるいは美術展が著名な画家、彫刻家、書家、工芸家だけで実現するわけではない。それぞれの分野・領域に練達しつつ、現場のプロジェクトを実際に企画・運営、指導できる者がいて初めて成り立つ。大学法人も同じであることを認識する必要がある。
大学法人全体としての経営能力の水準が厳しく問われている。今年の世界経済フォーラムのダボス会議は日本が「人材危機」に直面していると警告したが、アカデミアも例外ではない。我が国の国立大学の国際競争力が低い大きな理由は、単に卓越研究者が減少したことだけではなく、十分に力量ある経営責任者、経験ある指導者、専門性の高い幹部職員が欠如していることにある。旧文部省の指導下にあった法人化前の時代にはそうした人材を集める必要がなかったが、もはやその時代ではない。にもかかわらず、我が国大学ではそのための準備がいまだに追いついていない。もしも平凡な教員の維持にこだわり、有能な専門家の排除、削減に走れば、自縄自縛、機能不全状態に陥ることは必定である。
理事長と学長の権限の分離が不可欠である
この知識資本時代に、大学に社会が寄せる期待と要請は多岐にわたる。もし大規模、多機能な大学に社会的関与の拡張を求めるならば、その成否は教育研究の卓越性に加えて、経営陣の能力に大きく依存する。このために経営体制を抜本的に見直し、経営責任、管理・監督責任、実行行為責任を明確にしておく必要がある。大学法人は、公的事業組織(corporation)であって民間企業ではないが、その統括者の責務はあまりに過大であり、かつて知性の象徴であった学長の能力を遥かに超える。まずは理事長職と学長職を定めて、両者の権限を分離する(対立を意味しない)。国際水準の見識と実行力をもつ理事長を最高経営責任者(CEO)とし、深い学術的洞察力もつ学長(university president)が「学問の府」としての指揮をとることが合理的である。
理事長は多様な背景をもつ理事や腕利きの執行役員とともに法人の経営全体を司る一方で、学長には自律性、公開性を旨とする学術研究と教育活動の代表者、筆頭理事としての確固たる指揮権限を賦与するべきである。
加えて理事会を監督する評議会の設置は特に大事である。2023年に国会で可決・成立した改正国立大学法人法は、運営方針を決める合議体の設置を求めるとしたが、いかなる賢人が集まり何を指南するのか。そしてその立派な合議結論には果たして実効性があるのだろうか。法人としての合理的な統治の仕組みをつくるだけでは不十分で、それを担うに足る有能人材の確保が不可欠である。
経営責任者(理事長)に求められること
政府から独立しかつ社会的目的をもつ大学法人において、理事長や学長の人選は決定的な重要性をもつ。実は、世界を見回しても力量ある指導者層が充足しているとは言いがたく、優秀な指導者を迎えようと、国を超えての凄まじい争奪戦が展開されている。この人材払底の状況を考えれば、国内大学全体として無意味な経営機能の重複は避けるべきであり、これが複数大学統合の必要性を冒頭で唱えた所以でもある。
学術の府の理事長は、経済界や行政の経験者であれば務まるものでもない。強い公共意識とともに学術、高等教育に深い造詣が求められるが、ここには国内だけでなく海外大学の役職や政府機関派遣などを通して得た経験、また国際共同プロジェクト運営への参画経験も役に立つ。卓越した学術業績は助けにはなるが、必須というわけではない。もはや大学は、かつての象牙の塔ではなく社会と深い関わりをもつため、理事長が果たすべき統治責任は、財政基盤の確立、国際人材の確保、学術外交、産官学連携、起業、知財、付属病院経営など広汎にわたる。
そうであっても研究指向大学に関わる要諦は、やはり「教育研究の卓越性」の担保である。この価値観に関連する、あるいは成果から派生する外部連携活動などについては、経営体としての有効な運営機能をもって対処すべきであり、決して現場の教員にさらなる負担を強いてはらない。「稼ぐ力」は法人経営に不可欠であるが、学術研究や教育の質とは無縁である。
国民の学識者への負託は、あくまで専門分野における最高の研究と教育であって、それ以外の業務ではない。理事長の指揮下にある学外対応、学内事務管理部門の格段の能力向上が求められる理由である。
学長に求められること
理事長の最終任命により学事統治権を預かる学長には、格別の学術的倫理観と責任感が必要である。最も大事な資格の一つは、自学の特色ある学術的存在感を国内にとどまらず国際社会に明確に示しうることであり、そのためには優れた研究業績、広い学術的視野だけではなく、豊かな国際経験が求められる。これまた相応しい人が多くいるわけではない。
学長は自らの深い洞察力と高い先見性に基づき教育研究の長期的構想を定めて、その推進への強い意思を学内外に向けて明示する。その高邁な思想とたぎる熱意は、大多数の教職員と学生の信頼、そして国内外から共感と支援を得なければなるまい。その上で、自らの指揮により最高資質の研究人材を確保し、最大限の自由を与えて最高水準の研究成果を創出すべく専心させる。外国籍の研究者も多いであろうが、冗長な役所的手続きなどで余計な負荷をかけてはならない。合わせて、国内外から志高い大学生を集める魅力的な環境をつくり、未来を託す博士人材に育成し積極的に各界へ輩出して欲しい。当然、理事長はもとより関連管理部門の理解と協力なくして計画実行は不可能である。
国立大学は法人化して20年以上経過したが、いまだに国有ないし国営大学時代の旧態依然の構造、受け身の慣習を維持しながら行政指導に依存している。そのため、最高指導者たる学長の信念に基づく特色ある構想、方向性が明確化され、実現に至った例をあまり見たことがない。大学の矜持は逼迫する財政からは独立した問題であるが、現実の財源不足を隠れ蓑に為すべきことを為そうとしないようにも見える。大学の目標が「生き残り」であるわけはなく、学長は就任時に「いかに良く生きるか」を宣言すべきである。裏を返せば、これは改革実践力をもつ理事長を必要とする所以でもある。一般社会は官僚的な中期計画の個別項目の達成など些細なことではなく、自らの価値観とリーダーシップによる知の府としての成功物語を聞きたいはずである。
最高学府である大学は、理事長と学長の指導のもと、社会の信望を背景として毅然として自己決定権を行使すべきである。いったん社会の信頼を失えば、必ず政治行政や経済界の理不尽な介入を招く。その結果、学問の自由、そして国家の知性が損なわれることを恐れている。最近の米国トランプ大統領の大学と科学への敵対政策を、決して対岸の火事として見過ごしてはならない。外部からの看過できない影響に対していったい誰が、何について、いかに責任をもって対処すべきだろうか。あらかじめ十分な用意をしておく必要があろう。
学長任命に国籍条項はないはず
かつての国立大学の教職員は国家公務員であり、国籍条項があった。今でも日本を代表し、かつ世界を先導すべき大学の学長には、日本国籍が求められるのだろうか。もちろん大多数の教職員、学生が日本人である大学の長が日本人であることは自然であるが、直ちに必要とする数の国際水準の有資格者を確保することは簡単ではない。言い換えれば、我が国に海外大学の学長や理事長が務まる指導者はどのくらいいるだろうか。毎年10月に京都で開かれるSTSフォーラム(Science and Technology in Society Forum)に集う世界の指導者たちの振る舞いから受ける印象だが、知識量や言語力だけの問題ではない。彼らがもつ共通の主要関心事は何なのか、できれば海外の大学や研究機関におけるリーダーシップ経験、少なくとも職責の理解が望まれる。この時代の、さらに将来の大学指導者としての要件を認識しての有資格者の育成に意を注がねばなるまい。同じく大学を指導する行政にも同様の見識と力量が求められる。
もちろん、日本の大学には独自の文化がある。当面は定められた大学統治要綱(ガバナンス・コード)に則り、透明かつ最も有効な方法で最高の学長を選ぶべきである。だが、当該大学内ないし周辺の著名な教授を候補者に仕立てて、民主的に「学内意向」を尊重し、あるいは選挙を行う安易な方法で適任の学長を選べるわけがない。これまで学問に傾注してきた「生え抜き」候補者たちにとっても、おそらく困惑至極ではなかろうか。国際水準を維持するための指名委員会、選考委員会と有権者の責任はまことに重い。もし国内外の人材需給実情に明るくなければ、信頼できる外部専門家も含めた調査・評価委員会に託したうえで、最終的に学内で慎重に審査し、自らの確信で承認することも選択肢の一つであろう。
海を渡る大学指導者たち
多数の有名大学を擁する米国や英国などにあっても、自学内はもちろん、国内だけでは質、多様性維持の観点から供給力が不十分であるため、国際事情に明るい民間のリクルート機関を活用して、有能な外国籍指導者をヘッドハントして積極的に登用することも多い。だが昨今の米国トランプ政権の極端な自国主義、保護主義は世界にいかなる影響をもたらすであろうか。多くの国の学術界が懸念している。同時に、これまで閉鎖的に過ぎた我が国にとって開国の絶好期でもあろう。
躍進するアジア圏諸国も国際主義をとり、国籍は不問である。香港、シンガポール、サウジアラビアなどの大学には海外からの剛腕の「プロの学長」が多い。彼らの多くは社交的で新たな任地に迅速に馴染み、着実に改革実績をあげている。
中国や台湾の大学や科学院の指導者は自国民ではあるが、海外機関経験者が多く、広い視野と機敏な行動力をもつ。国内外の見識者たちとの広いネットワークが国際共同研究資金の獲得、共同研究を促す。その結果、組織に躍動をもたらし存在感を高めてきた。近年躍進する韓国の大学においても同様である。
大学の使命が特定されれば、学長選考は厳しくなる。沖縄科学技術大学院大学(OIST、内閣府所掌の私立大学)には創設以来、最高の科学研究成果を創出し、さらにイノベーションをもって沖縄経済振興に貢献することが強く要請されていて、進捗状況の年次評価にも緊張感をもってたえねばならない。国内からの候補者も多いが、経験面から日本人学長の選出はなかなか難しい。Sydney Brenner(2002年ノーベル生理学・医学賞受賞者)らの指導を得て設立され、米国の高名な物理学者Jonathan M. Dorfan(元スタンフォード線形加速器センター長)、ドイツの分子生物学者Peter Gruss(元マックス・プランク協会会長)が学長を務めたが、彼らと執行部役員たちの組織運営の見識と我が国大学への弛まぬ献身には敬服する。2023年に第3代学長として着任したKarin Markidesはスウェーデンの女性化学者で、チャルマーズ工科大学学長を務めた経験があり、100名以上の候補者のなかからの選任であった。日本の古いしがらみに囚われることなく使命達成に向けて手腕を発揮してほしい。なお、OISTは教授が100名未満の小規模大学なので学長は理事長兼務である。
大学内の組織長の任命
大学は学術分野の発展と拡張を目指して、研究者や学生に最大限の能力の発露を促す。見識ある学長だけではなく高い専門性と広い視野をもち、かつ信望あるprovost(教学責任担当の副学長)、dean(研究科長、学部長)などの確保も不可欠である。日本ではプロ意識をもつ外部経験者の登用ではなく、学内所属部門の“長老”格の教授が順繰りに選ばれることが多い。着任後も教授職を続けるので緊張感に乏しいが、果たしてこのままで大丈夫だろうか。
大学ではないが、ドイツ公的研究機構であるマックス・プランク協会は傘下に多彩な84の研究所を擁する。その所長(director)は4代に一人は外国人でなければならないと定められている。この規則を遵守するために、交代期にはまず国外にふさわしい人材を優先して求めるようで、実際には平均して3代に一人の割合を達成している。この中には数名の著名な日本人物理学者も含まれる。所長の交代は所内の研究人事にも影響を及ぼし、これを機会に国際中核人材を充実させることになる。この刺激の正のスパイラル効果は顕著である。
事務機能の抜本的な強化を
高度な研究教育に専心する大学人にとって、大学院大学は十分な自由な時間を確保できる「特別の場所」である。そしてその自由こそが学術的な卓越性の源泉である。だが、世事に疎い研究者たちに特権意識があってはならない。自分たちの能力発露と成果の最大化のために、大学法人が戦略機能立案、財務・会計、人材確保・管理、法務、倫理、国内外の協力活動の調整などのバックオフィス業務、そして広報と情報発信・受信などの重要な業務部門を備えていることを銘記し、その活動に感謝すべきである。
大学が自立組織であるためには、格段に事務機能を強化すべきである。特に各部門のdirectorたちには研究者たちと同様に、高度の専門技能が求められる。近年、研究経験の有無を問わず、研究企画、マネジメント、成果活用などに高い技能をもつURA (university research administrator)を登用する大学が増えつつあることは朗報である。物事を効果的に成し遂げるためには、グループ(群れ、同一種の集まり)ではなくチーム(意図されて作られた組織)が必要である。
大学法人の「稼ぐ力」と関連して重視される知財戦略や起業促進などの活動は、学事とは独立した法人の責任組織のもとにあってよい。特許取得数について、米日両国の上位10大学の差は1.8倍に過ぎないのに、特許収入額が年平均、約1200億円と24億円の約50倍の差があるという。また主要収入である寄付金は年間8兆円と、日本の大学の実に30倍という。これらのフロント・オフィス活動の統括には相当の専門的な力量と広い人脈が求められる。これは経営問題であり、一般的な教授や研究者がその手腕をもち得ないことは明らかである。諸外国では職務の特性に応じて実績ある専門家を国内外から積極的にスカウトして役員に登用することも多い。
大学は持続性の観点から多様な才能の内製化に努め、安易な人事「外注」は避けるべきである。しかし、常に最適者が身の回りにいるとは限らない。特に研究指向大学は国際的存在であり、高度の人材発掘と事務機能維持のために、国外の補助手段を取ることも必要であろう。我が国の主要国立大学、研究機関が海外の学生や研究者にとどまらず、運営指導者・従事者にとっても魅力的な存在であってほしい。近年、政府が力を入れる「国際卓越研究大学」などにおいて、状況打破に向けた戦略的施策を期待したい。