(66)我が国の命運を握る大学院進学生諸君 〜 君たちに意識転換を求めたい
研究社会では、幅広い知識をもち物事を賢く分別できる人よりは、むしろ他人と異なることに好奇心をもち挑戦し続ける人が成功するように思える。何を目指すのか、動機づけが必要であるが、しばしば「異との出会い」がこれを助ける。科学自体の進展とともに「社会の中の科学、社会のための科学」が唱えられて久しいが、実際、現実の社会問題解決に貢献したいという若者が少なからずいる。では、まず社会を知らなければ始まらない。多くの新しい友人に巡り合い、多少なりとも社会に触れ、外国などに旅してみれば、世界はあまりに広く多様であることを実感するはずである。たまには凄い人や変わった人たちにも出会う。自分がかねてからもつ価値観を今一度、相対化した上で、改めて確信をもって新たな道を歩むことを勧めたい。
若者たちは社会の主体的存在であって欲しい
近年の日本の大学、とりわけ研究指向大学の活力の停滞は、財政基盤の脆弱性と研究教育体制の不備によるところが多いが、主役でもある学生の意識にも問題が多いと感じている。まず18歳の若者の意識調査(日本財団、2024年)によれば、自分は大人だと思う(その肯定割合は50%)、責任がある社会の一員だと思う(61%)、将来の夢をもっている(60%)、国や社会を変えられると思う(46%)、政治選挙社会問題について家族や友人と議論することがある(51%)などと前向きに答える割合が、いずれも日英米中韓、そしてインドの6カ国中最下位である。
つまり、諸外国の同世代に比べて無気力であり、社会的関心が乏しく、あまりの主体性の欠如に驚いている。彼らのうち相当数が大学に進学するが、いったい大学教育は彼らの意識をいかに変えるであろうか。その4年間が社会に出るための猶予期間であってはならない。あるいは社会情勢の低迷と合わせて、受け身の傾向を助長するであろうか。もしも感性豊かな彼らが目覚めれば、今日の社会の不具合の変革に大きく資するはずであり、これは放置できない問題である。
一度きりの人生である。「そもそも君は何をしたいのか。本当に何になりたいのか」、自らが置かれた環境、条件、また能力と相談するのではない。若者としての自己実現、その意思を尋ねている。もし仮に君に経済的制約がまったくなければ何をするのか、逆に私たちの子供時代のように貧困の極みにあれば、何処に行き何をするのか。敗戦後の困難な時代にも、無理を承知でなすべきことを考え、勇気を持って行動に移してさまざまな分野を再生、興隆に導いた高校生、大学生がいた。
大学院進学は専門性の分岐点である
筆者は少年期の「思い入れ」で化学を学ぶことになったが、これは他の分野を顧みない「思い込み」にすぎなかったかもしれない。その後、恩師の勧めや成り行きで大学人になり、30歳までは狭く貧しい日本にこもっていた。他の選択肢もあったかもしれないが、社会的視野が狭くやや受け身の人生に推移したことは否めない。さまざまな機会に恵まれるこの時代である。若者には人生の節目ごとに、自らの判断で進む道を決めることを勧めたい。節目とは人生の分岐点、とくに大学院進学は将来の専門性選択の貴重な機会であり、既定路線における通過点でも障壁でもない。多岐にわたる選択肢の中で、君たちの判断の根拠は何だろうかと問うてみたい。
大学の4年間はリベラルアーツを中心に広く学び、自分とは何か、いかに生きるかを定めたい。自分はいったいなぜこの学部に入学したのか、自らの大学の中だけを見回しても、学ぶべき多岐にわたる分野がある。近く一人で身を立てて生きるためにはまだ準備が全く不十分、世の中が認める一定水準の専門的能力を培いたいと思うだろう。だから大学院に進むが、ただ学部の延長線上であってはならない。ここは社会的自立のために非常に大事な出発点である。目を見開き、よく考え、夢が叶う可能性のある進学先を、ぜひ自分自身で選んでほしい。科学分野では、諸外国の同世代者が「出身大学」というのは大学院を指すが、大学名ではなくどの指導者のもとで何を研究して博士号を受けたかが個人としての信用にかかわる。
人生は不確実だが、漫然と進んだのでは後のち悔いが残る。進取の気概ある「知の旅人」であってほしい。旅は旅人の心に変化をもたらす。いくつかの可能性の中からいったん目的地を選択したとしても、おそらくその途中でまた分岐点に出会うだろう。そこでは何を選択の判断基準にするのか。もとより大学は社会の一部でしかない。大学生は、もし経済的に許されるならば、大学院進学前に1-2年間、海外を旅行し、あるいは産業界などの活力あふれる文化を垣間見ることもいいのではないか。道を急ぐことはない。さらなる80年の人生において本当にやりたいことを見つけるために決して無駄なことではないはずである。社会は人材発掘、育成のために、若者たちにできる限り多様な機会を提供したい。
学歴エリートは傲慢であってはならない
未来は過去よりもはるかに大切である。教育は基本的に個人の自主性を重んじ、能力の成長、拡張を促すべきであり、いかなる段階においても若者の将来を拘束してはならない。この観点にたち、民主主義国の米国においてさえ既存の教育制度へ疑問を呈する識者たちは少なくない。例えば、現行の大学制度は労働者階級とエリート階級の二つのカーストに分ける仕組みであるとし、この厳しい格差とエリート層の道徳的傲慢が、近年の米国社会に修復困難な(左右ではなく)上下の分断をもたらしているという見方がある(コロンビア大学マーク・リラ教授)。加えて、米国の有名大学の「学部教育」は多様性を欠きあまりに同質的であり、また学費の高額化が学生の出身階層をさらに限定するという。実際に実業界による教育効果に対する評価も芳しくない。振り返って、我が国の「大学入試本位制」で選ばれた学生たちの社会観、また逆に国内外の社会からの彼らに対する評判はいかがなものであろうか。
ミネルバ大学は学部教育の革新に挑む
米国のこの困難な状況に果敢に挑むのが2014年に創設された4年制の私立総合大学ミネルバ大学である。未来の社会の形成に向けて実社会との関係づくり、多文化的価値観を重視する。世界の約100の国・地域から600人程度の精鋭学生が集うが、そこには20数名の日本人も含まれる。伝統的な地理的に固定したキャンパスはもたず、学生たちは20名程度のクラス単位で、4年をかけて本拠地サンフランシスコから、ベルリン、ブエノスアイレス、ハイデラバード、ソウル、台北、ロンドンの世界7都市を移動しながら集団で学寮生活を送る。豪華な講堂や校舎は不要である。
世界の著名な学者たちによるオンライン双方向の講義(1日2コマ、週4日)、産官学、NPOと共同プロジェクトやインターンシップを通してさまざまな社会的事柄を学ぶ。文化を異にする学生同士が生涯強い絆で繋がれるはずで、極めて魅力的である。なお、さまざまな運営合理化で学費の低廉化をうたうが、年間授業料は寮費を含み約780万円、日本人感覚では相当に高額なので奨学金も必要だろう。この建学趣旨に賛同する日本財団は包括提携して今後10年間に80億円を供与し、今年は150名の学生が東京に滞在して日本文化や歴史に親しむという。世界の志高い学生たちが日本に対して新しい視野を広げるので、この方向性は国としてもありがたいことである。新大学創始者たちの斬新な理念と実行力、そして支援者の理解に敬意を表したい。
外に飛び出して最高水準の先端科学技術を学ぼう
国家は真理追求のための知の営みを世界水準かつ継続的に支援すべきであるが、当然、現実の社会経済、直接的な国力維持にも注力しなければならない。最近、政府は「先端科学技術の戦略的推進」を謳い、具体的に人工知能(AI)、量子技術、核融合エネルギーなどの分野を取りあげる。では、これらの施策に共鳴する学生たちは、いったいどこで学べばいいのか。必ずしも明確な地図は示されていない。真に先進的な科学技術については、自校の大学院研究室が最高至適である確率はあまりに低い。他大学も探してみるが、世界には先導的研究者が日本の数十倍も存在する現実がある。ここで勉強を始めなければ、未来を拓くことはむずかしい。残念ながら、近年の日本は科学技術発展の最新状況の把握が不十分で、先端研究が欧米に比べて1年半くらいの後追いであるという。
新規分野を開拓するには、物事が分かった人の分別力ではなく、若者たちの好奇心、想像力、創造力こそが頼りである。行政だけでなく、産業界も学生の海外留学や各種インターンシップへの挑戦を、さまざまな形で後押しして欲しい。世界は大学院学生の厳しい獲得競争の最中にある。大学は学生を選び、学生は大学を選ぶ潮流の中で、そのための制度も相当に整備されている。いかなる国でも人材自給は難しく、ほとんどの国の大学院で、入学資格さえ得れば授業料が免除され、さらに生活支援も受けることができる。我が国も是非ともそうあって欲しい。
このグローバル時代にリーダーを目指す若者たちは、新たな役割を自覚して思い切って国際社会に身を投じて欲しい。野球やサッカーなどの運動競技と同じく、国内の優越感に浸るのではなく、世界の鎬を削る舞台で最高の指導者に出会い、また新進気鋭の同世代者と交わらなければ、最先端、さらにその先は見えてこない。競争は厳しいが世界に飛躍するいい機会となる。海外では、多くの学生たちが国境を越えて新天地に向かうではないか。その結果、極めて多くのコスモポリタンがさまざまな分野を先導しているが、ここに日本人の影はあまりに薄い。
実は、萌芽的であれ世界の最先端の科学技術研究に触れることは、組織にとらわれない自由な学生だからこそできることで、企業や公的研究所の職業人が所属組織の障壁を超えて合法的に察知できることは限られる。国家として見れば、頭脳循環の促進は若手人材の成長を促すだけでなく、新分野の発展の兆しの収集や将来の円滑な科学技術外交に大きく資することになる。近年の中国、韓国、インドの目覚ましい躍進の理由の一つはここにある。
日本の人工知能技術の競争力は十分か
我が国は自立して生存しなければならないが、実は深刻なリーダーシップの危機にある。将来社会に責任を持つ若い世代には現実を直視した上で、傍観することなく、決断力を欠く指導者層を突き動かしてくれることを願っている。君たち自身や家族、友人たちのためだけではなく、君たちが本当に良いと思う社会をつくるために、である。例えば、君たちの自己実現、あるべき未来社会の構築、さらに国の経済産業力の原動力とされる人工知能(AI)技術の振興はどうあるべきなのか。君たち世代の倫理観と技術的力量こそが社会に決定的な影響を与える。
昨年の調査によると、「2030年には世界を牽引すること」を目標に国家が計画的に後押しする中国の競争力が、民間プラットフォーマー主導の米国を猛追している。今年に入り中国の新興企業DeepSeek社が、米国のオープンAI社のChatGPTに匹敵する性能を格段に少ない計算リソースで実現したというではないか。実は、この4年間にAIの国際的に主要な3学会で中国の採択論文の延べ著者数は8倍に増大し、上位10機関のうち4機関を中国の大学が占めている。一方、日本を代表する理化学研究所、東京大学の発表論文数は首位のグーグル、2位の精華大学に比べて僅か10分の1程度、64位と71位にとどまる。なぜに12位のシンガポール国立大学、13位のKAISTなどにも大きく劣後するのか(日経新聞、2025.1.10)。
さらに「AIの成熟度」、つまりAIが産業や雇用に与える影響の大きさとAIへの対応力に関わる調査(ボストン・コンサルティング・グループ、2024)においても、日本の評価は芳しくない。AI導入で先行する第一グループ、米、中、カナダ、シンガポール、英国の5カ国に遅れて、第二グループに属するとされる。
この明白な比較低迷の原因は研究者数や研究投資の多寡だけではなく、この20年間にわたる政府、産業界、研究社会の先見性、計画性の欠落によるのだろう。だが、国の存亡が関わることであり「仕方がない」では済まされない。日本の若者の知性と感性、そして勇気が他国に比べて劣るわけはない。彼ら自身が自覚して必死に実力を培い、積極的に国際協力するならば、必ず現状を打開することができると考える。そのために私たちが用意すべきことは何か。ただ巨大な資金を投入して競争を煽るだけではないはずだ。
米国の学生は自学大学院には進学しない
高度人材たるべき学生にとって大学院進学こそが自己決定の絶好の機会である。ここで思い切って新天地を目指せば、その経験で、あとはいかなる場へも躊躇なく移動することができる。一方で、多くの組織は社会的生き物であり「動的平衡」、つまり構成員の流動性促進こそが社会の新陳代謝、活性化の鍵である。
今日の米国の繁栄の原因の一つは研究型大学院制度の成功にある。学生の進学動機は様々だが、米国一流大学では、自学大学院への進学率は日本と比較して極めて低い。定められた規則ではなく、そこに大きな意味があるからである。多くの若者が目指す医学大学院(Medical School)も、他大学だけでなく医学以外のさまざまな基礎科学を修めた学生たちが入学する。多様な背景の人が集まる場は躍動感があふれ、異分野融合の先進的トランスレーショナル研究が生まれる。昨今、米国は中国の猛追を受けるものの依然として科学技術を先導する。
日本の学生はなぜ自学の大学院に閉じこもる
我が国に頭脳明晰な学生たちは多いが、画一的な閉鎖環境に育つため、あまりに社会経験に乏しい。まずは、彼らの国内外の流動化を格段に促進し十分な刺激を与えて、特色ある能力を最大限伸ばして欲しい。優秀であっても輝く個性がなければ既存社会に埋没する。大学組織、教員は学生たちに常に外部情報を提供し続け、適宜推薦するなどして適切な進路選択を支援するべきだ。大学としても外部組織への人材輩出のフィードバック効果は大きい。身勝手な「囲い込み」などにより彼らの意向を拘束すれば、国として多様な活力ある人材を育成できるわけがない。
この観点から、筆者はかつて安倍内閣の「教育再生会議」の座長を務めた折に「同一校、同一学部からの大学院進学は、最大値3割程度に(本当は例外的としたかった)、外国籍学生は2割程度を目指す」と主張した。認められて報告書に書き込まれはしたものの、「学境」にこだわる大学側の守旧勢力の抵抗は極めて強い。また、幼い頃から勤勉に学び、訓練もされて知識を得たはずの学生たちもまたこの風土に馴染み、リスクを含む変化を避けてぬるま湯の中にとどまる。あれから17年を経て未だに古い「家元制度」は存続して、あるべき体制改革の実現からはほど遠い。「ガラパゴス化」、「刺激の貧困」の結果、若者たちは伸び悩み、昨今あらゆる分野で人材不足の状況にあるではないか。しかし誰も不作為の責任を取ろうとしない。
「大学渡り歩き」のすすめ
既存組織のしがらみを解き、流動して他に受け入れられることは、本人にとって名誉であり、社会にとっても有益である。そのため、研究志向大学院は国内外の人材流動を通して、高い独立性、機動性と高品質を担保すべきである。しかし、日本の多くの大学教員は転職を好まず、さらに学生の他大学への転学を「学歴ロンダリング(洗浄)」と揶揄するむきがある。いったい組織間の流動の何が不都合なのか。一本の高速道路、新幹線、空路で行ける場所、見ることのできる景色はごく限られている。勇気を持ってより高度な知的環境に積極的に移動して自己を高めることは、安全志向のモラトリアム、「井の中の蛙」、「タコ壺の中のタコ」に止まるよりもはるかに成長に資するはずである。大学院は学部学生の成育を阻む囲い込みをやめる。そして学生たちは積極的に新たな環境に触れ、時代を共にする多様な友人と絆を結び、自ら最大限に成長して欲しい。科学研究者にとって、また科学技術社会にとっても決定的に大事なことである。
大学院入学試験において蔓延する不都合
我が国は6−(3−3)–4–Xの教育システムをとるが、4年制の学部は専門性の高いX年制の大学院の予備校ではない。互いに異なる使命を持つので、明確に分離、独立して運営されるべきである。それぞれの組織長(Dean)は分野の特性に応じて異なる運営責任を持つはずである。国家の将来のために「プロジェクトX」としての大改革が必要である。
主要大学において特別の称号「大学院教授」を名乗る教員が、けじめなく「学部教授」を兼ねている実情が、様々な不具合が起こす。例えば、自らが学部授業、卒業研究を通して教えた学生の大学院入学試験に考査員として携わることが常態化している。つまり「学部教授」として学生を推薦しながら、本来の「大学院教授」として自ら筆記ないし面接試験を課して、自ら合否判定する。さらに、合格すればしばしば自らが主宰する研究室に配属させる。公器たる大学院におけるこの上ない縁故主義で、世間が最も注目する18歳時の大学入学試験の厳正さとは著しい対照をなす。現行の大学院生選抜法は、明白な利益相反といえるのではないか。この不都合な慣行に、学内外の誰も疑問を呈することさえしない風土にこそ問題の本質がある。
国内外の全ての希望者に対して保障すべき公平性、大学が本来的に維持すべき開放性、多様性の欠如をいったいどう説明するのか。内部学生が4年前に得た「先住権」を、大学が不透明なプロセスで追認することはあってならない。進学生たちも、初めて出会う異質な友人たちに新鮮な刺激を受け、共に学びたいはずである。4年制の学部を終えて一般社会に出る理工学系の学生にとって「卒業研究」(人文・社会科学系では「ゼミ」)の意義は極めて大きいが、大学院を目指す学生にとっては無意味に近く、ときには不都合でさえある。むしろ3年で学部を修了し、自ら最適の大学院を選択するがいい。修士課程、博士課程の位置付け、さらに大学院生の経済支援も含めて、制度を根本的に考え直す時期に直面している。
大学院入学試験は教員による教務ではなく、大学経営の重要実務である
上記の機会不均等、そして大学の不誠実、不公正な対応に対して、教育行政はなぜ黙認、放置してきたのか。ことの非倫理性に加えて、我が国の大学府があまりに内向きで、長く社会の要請に応える才能の発掘、確保に注力を怠り続けたことの証左でもある。
大学院生こそが日本の科学研究の活力を担うことは明白である。各大学法人は自学の特色ある目標、教育研究環境をできる限り広く紹介して、有為の学生を集める責任をもつ。学生募集、選抜は有能な入学事務局(Admissions Office)の管理、主導下に、長期的戦略性や財務面も含めて最も合理的、効果的になされるべきである。教員はむしろ研究成果による知名度や優れた専門性をもってこれを助ける立場にあるに過ぎない。自らの学術研究に傾注する教員が、希望者選別のための定型的な学力試験を課すだけでは、大学が求める最優秀な学生を集められるはずがない。
多様性が重視される今日、もはや優秀な海外留学生なくして大学院は成り立たない。我が国における4年制学部生263万人(2023年)のうち、今後どのくらいの人が大学院に進学するのか。教育課程を軽んじる企業が身勝手に「青田買い」を早めれば、進学者数はますます減少する。一方、世界には自国の教育に飽き足らない「学びの旅人」、海外で学ぶ留学生が690万人(2022年)もいることに注目したい。厳しい若者の争奪戦の中で、諸外国の大学に提携を働きかけ、特に積極性をもつ学生たちにいかに魅力を示すのか。大学経営には財源確保とともに、海外の専門エージェントの活用を含めて広範なリクルート機能が不可欠である。日本人学生の国際感覚付与のためにも危機感を持ってほしい。
すべての大学に4年制学部は必要でない
我が国では少子化傾向が進む中、毎年約60万人、18歳人口の57%程度が4年制大学に進学する。一般国民のみならず、経済産業界、そして高等教育行政の関心もこのマス教育に集まりがちであるが、真の先導者の育成に特化する大学院も必要である。当然、その教育研究理念が通常の大学とは異なることを、主要な研究志向大学にはよく理解してほしい。
2011年に大学として認可された学部をもたない沖縄科学技術大学院大学(OIST)は、教員、学生ともに世界で上位5-10%程度の質を求める。5年一貫教育で、近年は90名程度の教員を擁し、毎年50名程度の大学院生を受け入れている。職階を問わず全ての教員は独立しているが、学内外の協力により学際性を追求し、事務職も合わせて互いの国際人脈を活かしながら学生の博士学位取得後の進路についても支援も惜しまない。明確な教育研究目的、「差別なき受け入れ」の態勢に共感するのであろう、世界各国から1000名程度(コロナ感染症蔓延の時期を除く)の学生が受験する。現地対面も含めた丁寧な審査を行うが、選別率が20倍程度の難関である。教員の6割以上、学生(経済的支援は十分)の8割程度が外国籍であるが、日本の若者たちも近場に引きこもることなく、思い切ってより開かれた学術文化に触れてみてはどうだろうか。昨今の有名国立大学の大学院における選別倍率の低さ、時に定員割れの状況は、高等教育行政と(教員ではなく)大学の経営努力の不足を意味するものではないか。時代錯誤の国内優越感に浸っていては、有為の若者を招くことは到底できまい。
一般社会は高度専門性を必要とする
若い博士たちに積極的に一般社会に出てもらい、果敢に変革の旗を振ってほしい。我が国において「教育」そのものに対する信頼感は健在である一方、「大学入試本位制」が破綻していることは明白である。まず、国策を先導する行政に改革を求めたいが、経済界においても時価総額上位100社の経営責任者(CEO)のうち大学院卒はわずか15%(博士課程修了は2%)に過ぎず、米国の67%(博士10%)に比べて著しく低い。もとより指導者としての実力が問われるべきであり、学位の有無の問題ではない。だが、この知識資本主義の時代に有名大学学部を卒業して各界の高位についた人たちが、急変する社会の中でたじろぎ、リスクを決断できていないではないか。慣習に囚われる社会に再考を求めたい。
一方で、学歴と知識量、洞察力、実践力は相関すべきである。現行の日本の大学院教育の水準は社会の負託に応えているのか。近く到来するAI駆動の時代に、いかなる展望をもって研究教育を行い、いかなる人材を輩出すべきだろうか。人間が営む社会であり続けるので、特色ある高度専門性が不可欠であることは間違いなかろう。世界の指導者に対峙できる若者たちを大量に育てて円滑にバトンを渡してほしい。
最後になるが、国力の原動力である学生たちは、自らの力量と10数年後に担う社会的責任をどう考えているのだろうか。是非とも先導者としての気概、国の将来への想いを聞かせてほしい。この頭脳循環の時代に、日本の大学制度がこのまま成り立つわけがない。世界各国と協力しつつ、自国内で社会総がかりで、持続的な制度をつくり直す必要がある。我々世代に大きな油断があったことは間違いない。そして、もう残された時間は少ない。