(64)人工知能(AI)技術 ~ 文化の歴史はAI支配を許すだろうか
第二次世界大戦敗戦後、我が国は独特の国民性を生かしながら経済復興を果たした。その後「失われた30年」といわれる相対的な国力衰退に直面して、今や是非とも「破壊的イノベーション」を起こして根本的に社会構造を変えるべしとする風潮が盛んである。是非とも国力再生を果たしてほしいが、いかなる方向を目指すのか。社会の変革はしばしば不可逆である。自然界と異なり社会には人びとの意思が宿るが、ではこの革新はいったい誰の意思に基づくのだろうか。
日本とはどういう国なのか。保守と革新。あるべき姿は現世代の自然観や人生観と整合し、次世代を中心とする多様な人びとの合意、熟慮のもとになされるべきである。極端な急進派や特定の権力者たちの政治的、経済的な野心に基づいて、後年取り返しのつかない結果を招いてはならない。流動する国際環境の中で、物質的のみならず精神的にも健全な日本を建設するために、実権者たちが信奉する人工知能(AI)はいかに貢献し得るのであろうか。留意すべきことが多々あるはずである。
文化を尊ぶ文明社会を
近代文明社会の礎が科学技術であることに間違いないが、筆者は「文化を尊ぶ文明」をつくることが大切だと主張している。「文化(culture)」は人びとの習俗、信仰、道徳、学術、芸術等、長年にわたって統合的に培われる精神的特質である。したがって地域や民族によって個性が顕著で多様であり、それぞれの伝統に基づき永続性をもつ。人びとにとって心の拠りどころである。
一方で、「文明(civilization)」とは、文化とともに人間の技術的、物質的な所産を合わせたその時どきの社会の状態を指す。現代文明は後者の要素が強く、地域や民族を超えて普遍性をもつ。そして流行と進歩が宿命づけられている。つまり、文化とは逆にエントロピー(秩序の乱れの度合い)増大を促す方向にあり、人間社会を席捲する大きな力である。しかし、精神的要素と物質的要素の二つが平衡をとって共生していって初めて、社会は進歩するといえよう。今後の新しい時代の科学技術、さらにイノベーションには、この視点が不可欠である。
現代の文明は普遍性が高いが、そもそも文化は個々に多様である。グローバル化を伴う巨大で圧倒的な文明の力が、長年にわたって先人たちが知性と感性によって培ってきた文化を、安易に損なうことは決してあってはならない。これから出現する高度な科学技術、とくにAI技術の社会実践において配慮すべき点だと考えている。
文化の歴史はAIの支配を許すであろうか
今後、文明社会が最先端AI技術を駆使し続けることは間違いない。先進諸国が軍事、産業、金融経済、医療などを国力の核心分野と位置づけ、その優位性の確保に傾注するからである。一方で、国家的、組織的、個人的な「力の論理」を超えて、人間本来の知性や感性を旨としてきた学術や芸術などの歴史は、万能とされる人工知能の支配や蹂躙を許すであろうか。
ここで銘記すべきは、(ほとんどの)科学技術は人びとが叡智を集めて営々と努力して「善意」でつくりあげたということである。しかしその結果、心ならずも人びとの精神と肉体を脆弱化し、また先人たちが築いてきた価値ある文化、さらに国家の品位を劣化するなら、この社会に身を置く一人として、これほど残念なことはない。科学技術は人類全体のためにあるべきであるが、現状は、先進国のThe Best and Brightestたちの「力は正義なり」の価値観が加速度的に支配力を強めるため、その恩恵の享受に不均衡が著しいことを懸念している。
AI技術は科学とその応用分野におけると同じように、美術家や音楽家たちの活動を支える。新たな形式の表現法や共同研究の可能性を提供し、場合によっては新たな気づきを与えることも間違いない。しかし、この技術は人間本来の美意識を深化させたり、固有の感性を高めたりするものではない。さらに人による作品や演技、演奏などの意義や評価については自ずと専門家に委ねられる。自らの思考によらず、既知のデータに基づきAIのアルゴリズムによってのみ制作されたものは創造とは言えない。残念ながら、すでに表現活動における技術的、倫理的課題が顕在化し、理不尽かつ多大な著作権侵害や職業機会の喪失など不都合をもたらしている。健全性の回復への努力を急がねばならない。データ自身は知財として守られないが、プラットフォーマーが使用したコンテンツについては作者へ対価が還元される方向にあるという。
文芸作品におけるAIの力量
筆者は日本人でありながら、我が国特有の詩歌にも疎い粗野な科学者である。しかし「AIに俳句が詠めるだろうか」として「AI一茶くん」プロジェクトを立ち上げた川村秀憲北海道大学教授の研究には大いに興味を持った。(出村政彬、日経サイエンス、2024年6月号)。
「稲妻や僧と仏の間より」と「稲妻や三人一度に顔と顔」。前者がAI一茶くんの作品、後者が小林一茶自身の句であるが、AIの出力は相当に立派なものと感じる。基本データとして日本語ウィキペディアと著作権が消滅した文芸作品「青空文庫」を学習、さらにインターネットにある50万句を追加学習している。AIが速やかに詠む句は3−20年の経歴を持つ俳人が見ても十分な「俳句らしさ」をもつという。俳句の共通の土台はもちろん言語、特に季語の大切さであるが、その評価軸は結社や句会によってさまざまとのことで一律ではないらしい。
この二つの句は独立につくられたものであるが、「AI対人類チーム」の特別対局が催された。人類チームが「年金日待つたのしさよ十二月」と詠めば、AI一茶くんが「戦争があつたのですか秋の風」と応じたことは大いなる驚きである。決して句の出来、不出来を競うものではないが、対局の規則が「相手が詠んだ句から季語以外の言葉を抜き出して再利用する」とあるからである。平仮名の「つたの」の3文字を選び出したことは、明確に人との着眼点の違いを教えてくれる。目が覚めた。しかしそれを俳句の発想とよべるであろうか。
科学論文と俳句の作成における生成AIの働きは同じであろうか。このプロジェクト研究は、句を生成するだけではその世界を理解したことにはならない、と教える。言語モデルにより俳人に評価されるような俳句をつくることは可能である。しかし「人を唸らせる句」をAIが選ぶのは難しい。そこに埋められた人間の経験の復元が必要だからという。つまり、言語を理解するということは、人の心的状態をもつことであり、一群の形式的記号の操作とは一線を画す。
芸術家あっての芸術作品
また逆に、生成AIはある意味で極めて強力であり、主観的な人の心的状態をもたなくても、客観的な形式的記号の操作によって相当の作品が出来上がることを意味する。良い小説も書けるという。文学や芸術作品の根源には効率性とは無縁の心情があるはずであるが、問題は人間にその存在の有無が識別し難いことである。今後は評価行為そのものに革新が求められ、評価者にも新たな力量が問われることになる。
人びとの健全な精神を培い、国の品格を高めるのは独自性ある文化の創造であって、安易な模造品を効率的に迅速に生産することではない。意味を理解しないパターン認識への過剰な依存は、創作意欲を喪失させる。尊敬すべきは創造に命をかける芸術家であって、商業目的で安直に大衆受けする作品を開発する技術者ではない。
AI技術は文化的価値の維持を約束するのか
我が国の特有の文化風土に共感する人は多い。俳句や和歌を詠む、書道、茶道、香道を楽しむ、伝統工芸(匠の技)に敬意をもつ人がなくなるはずがない。将棋、囲碁もさらに盛んになるだろう。ビジネス優先で効率性、生産性、便宜性を優先する若い世代にも、是非とも積極的にこの心地よさを維持し続けて欲しい。できれば日本語を使った生成AI技術、例えばNECのcotomiやNTTのtsuzumiなどが日本語の深みや日本文化を世界に広めることに貢献してくれることを願っている。
文芸作品のみならず、美術、音楽、映画などの芸術、およそ創作と言われるものの全てにおいて、個人の創意に対して最大限の敬意を払うべきだろう。まず着想が全てであり、みずみずしい感性なくして創造的作品はない。時代が味方することはあっても幸運による成功は望めない。時に偶然の大発見に恵まれる科学研究とは異なる。
かのアルビン・トフラーは農業革命、工業革命に次ぐ情報革命の到来を予期して1980年に「第三の波」を著して、すでに「古い社会と文化を脇に押しやる」としていた。いよいよ生成AIが登場してこの懸念は現実と化してきた。しかし、さすがに彼は社会的に有用な多くの技能(わざ)は感情的であると賢察していて、データとコンピュータだけでは、良き社会は実現しないとも主張していたようだ。身体的、精神的な実感覚なくして人間の脳は適切に機能しないからである。
誰が芸術作品を鑑賞するのか
鑑賞とは何か。芸術と(人間)脳科学にかかわる基本的な問題である。画家アンリ・マチスは「絵を見ることはそれ自体ですでに創造的作業であり、努力を要するものである」としており、作品制作と評価の間には一定の緊張関係が存在する。近年の大きな問題は、評価者側の見識の欠落と道義的怠慢に加えて、心なき大衆迎合と商業的動機による「超転写・超複製文化」の蔓延である。やがて好まざる文化の不均衡や侵略をもたらすことは間違いない。
この無定見が必然的に多様な美術や芸術化活動におけるあるまじき著作権略奪につながる。著作権を軽視、無視する国さえある。ここでは言論・表現の自由と権利の概念の不整合、むしろ作品内容は伝達の方法を問わずできるだけ広まるほどいいとする。不用意な技術活用は国際文化交流のあり方を歪めることさえある。まさに今、人間とは何か、AI時代の人間とその文化的な営みの価値についてより真剣な議論が必要である。
新たなジャンルの開拓、多様性の確保、人間の本性に基づく素朴な活動、さらに異端、前衛を鼓舞すべきであろうが、無神経な多数派迎合の風潮が精神高揚の機会を妨げている。今後、それ自身は責任を問われないAI分析評価がこれを助長しないと保証できるだろうか。既成ジャンル、均質・画一的企画作品の優先に傾向くことは避けなければならない。すでに科学者、技術者たちは、自らの創意工夫の評価を同分野の専門家ではなく、論文被引用数などの統計数値分析の「御託宣」に委ねている。主観の排除、そして客観の偏重による責任回避。この恥ずべき人間不信、機械依存の状況を見ての懸念である。
我々は人格までスコア化されるのか
人間は数字でもモノでもない。一律計測されることをよしとせず、一人ひとりに物語がある。だからすべての人の個性の尊重が、言語、情緒(芸術)、論理、科学を基本要素とする文化の根源にある。だが近年の情報技術の誤用が、人びとが先天的にもつ能力、あるいは後天的に培った特質の多様性の喪失を招いている。この喧騒の情報技術駆動社会の中で、我々は自由であるべき精神まで効率化を求められ、耐え難い価値観を押し付けられる傾向にある。
恐ろしいことに、文化を尊ぶべき人間社会が統一標準により一元化的に数値化、スコア化されて(Citron, Pasquale)、さらに「Software-defined Society」に移行する可能性があるという。誰かの画策により「間違いを起こすはずがない」AI技術の支配下におかれれば、基礎データも検索アルゴリズム非公開のまま、当事者の主張や批判は全く無用になるだろう。さらに国家安全保障、インテリジェンスの名のもとに、生活のすべてが監視下に置かれてプライバシーは剥奪される。私たちが若き日に犯した小さな瑕疵も一生消え去ることはないという。画一化された社会制度は支配者にとっては極めて好都合である一方で、精神の解放であるべき文化は不可抗力で制限され、生き残る道はほぼ断たれるであろう。
現代人の自己家畜化
我々はなぜこうも愚かな怠け者になったのかと考える。無意味に過剰に働かされる職業人としてではない。身体的に逞しくしなやかに、精神的に自ら生きた先人たちに比べてである。現代人は科学技術を駆使して、間違いなく身体能力の外的拡張を成し遂げたが、同時に必然としてこの便利すぎる外部の力に精神的に制約されることになった。とくに社会における自律的生命力の喪失は明白である。ただ人工空間に生かされている。人類学的な野生を失いつつ社会的に「自己家畜化」(Eickstedt(1930年代)、尾本惠市)したと言われて久しい。遺伝的な退廃、知性や感性の衰退、伝統の崩壊が顕著であり、多くの国民もただ「分別」があり「有用」ではあるが、画一的に規格化された人間に成り下がった傾向にあることは否めない。
現代人は自らの意思で「よき文化をもつ生活共同体(community)」を「利益調整型の社会(society)」に変革してきた。ここに人知を超える「汎用AI技術」支配の社会が登場するという。あるいは文明の突然変異、不可逆の進化(進歩ではない)をもたらすのではないか。人類が自ら培ってきた知性、感性を不器用に矯正し、自ら「考える葦である」ことを放棄する。人間とAIの対立は無意味であるが、多くの知的職業が消失する。もし、十分な食糧だけでなく知識までも寝て待つ精神的な「怠け者の天国」(ブリューゲル)を望むならば、自己家畜化現象がさらに極まることは間違いない。
この新たな文明社会に、もし幸運に「文化」が存続するならば、その歴史はAI技術の支配をいかに評価するであろうか。社会の聡明な先導者たちは今一度、自然の摂理を尊重し、真の人間性へ回帰を促すべきではなかろうか。