2024年1月26日

(61)我が国に誇り高き「国立大学」を 〜 自己決定権の確保

この知識資本時代の主権国家、日本国には世界的に存在感をもつ国立大学がぜひとも必要である。国立(National)とは、英国などで見かける王立(Royal)と同じく、国家や国民の誇りを象徴する称号である。名実ともに、国力の源泉でもあり、他の国には真似できないJ-ブランドともいうべき特色をもつ学術の府でなければならない。「国立大学」は国が一定の地位を保証する研究教育機関ではあるが、決して政府の管理下に置く「国有大学」、「国営大学」ではない。知の先導者としての矜持をもって、自立性、自律性を旨として活動すべきである。

残念ながら、近年は、国民からの大きな期待とは裏腹に、研究面での国際的地位は大きく低落し、また人材輩出についても社会の要請に十分に応えられていない。この変動するグローバルな時代に、その制度と実践体制がまことに脆弱であることを直視してほしい。もはや、ひとごとでない。本当に不足するものは、政治と行政の決意、大学の覚悟、そして社会の理解である。

財政基盤がまったく不十分である

財政援助を訴える大学に「壊れた器にいくら水を注いでも意味がない」とはかつての行財政改革論者たちの言である。その通りかもしれないが、今日、同じアジア圏でなぜ我が国が中国、韓国に圧倒されるのか。科学技術国際交流センター(JISTEC)の2023年の調べによると、財政問題が極めて大きいという。2022年の日本の文教・科学振興に対する財政歳出がわずか5.4兆円(比率で5.0%)であるのに対して、中国(2020年)では教育に56.2兆円、科学技術に13.9兆円(14.8%と3.7%)、韓国(2020年)でも教育に8.5兆円、研究開発に2.4兆円(16.5%と4.8%)の歳出がある。研究教育は社会のためにあるが、この開きはあまりに大きく、国の意思の相違は歴然としている。

いずれにしても「指定国立大学法人」や新設の「国際卓越研究大学」には、膨大な国費が投入されているはずであり、経営陣は責任をもって、真の意味で世界一級の研究者たちの登用、本当の意味で有為な大学院学生を採用して、その名に恥じない国際水準の研究教育活動を約束してほしい。

日本の大学に対する海外の評判

我が国を代表する国立大学は国際社会における競争力を欠き、また協調への貢献度も不十分である。英国のタイムズハイヤーエデュケーションの2024年大学世界ランキングによると、TOP10は常連のオクスフォード、スタンフォード、MIT、ハーバード、ケンブリッジなど、英国の3大学、米国の6私立大学とUCバークレーが占める。日本で100位以内にランクされるのは、29位の東京大と55位の京都大の2大学のみで、東北大(130位)、阪大(175位)、東工大(191位)、名大(250位以内)などが続く。教育研究重視のはずの我が国としては甚だ不本意ではないか。

ここでは、教育、研究環境、研究の質、産業連携、国際的展望の5分野17指標など、教学活動だけでなく、国際性、産業界からの収入、多様性などの運営面が問われる。これらは主に英語圏の価値観が関わる項目である。東京大は教育、研究環境や産業界との連携では高い評価を得るが、研究の影響力や国際性で見劣りするという。200位以内の大学数が、欧州勢のドイツにおいて21校、フランスで5校と、米国56校や英国25校に比べて少ない。これは基礎科学研究の中核をマックス・プランク協会研究所やCNRSなど国立研究所が担うためなのか、あるいは「市場資本アカデミズム」から距離を置くことが理由であろうか。しかし、同じアジア圏においても、中国が13校(清華大が12位でアジア首位)、韓国6校、さらに小規模な香港で4校、シンガポール2校が入り、5校の日本は、国内一般社会が想像する以上に後退している。

同じく英国のQS社のランキング(2024)では、研究実績を高く評価する傾向があり、MITが12年連続で首位、スイスのETHが7位、シンガポール国立大学が8位に入る。大勢は変わらないが、アジア諸国の大学にやや好意的である。200位以内に日本から東京大(28位)、京都大(46位)はじめ9校が入るが、全体的に後退傾向が顕著である。中国上海交通大学のランキングもまた特別に高い評価を与えるわけではない。

世界の学生にとって魅力が不足

大学は広く社会に開かれた存在であるが、この頭脳循環時代に国際化の度合いは特に重要な評価指標である。我が国の大学も強力な研究力とともに他国にない特徴ある魅力を示して、多くの優秀な留学生を招かねばならない。上記の商業機関によるランキングは深い学術的な考察に基づくものではないが、世界の学生たちはこの評点を参考にして進む学校を選ぶ。国内の若年層の激減が進む中、世界の600万人を超える留学生の大量受け入れに向けて、抜本的な施策が求められる。残念ながら、日本の有力国立大学が国際標準の魅力を提供できず、存在感は薄いが、科学立国としては大学院充実が特に大事である。博士号に信頼がなければ、優秀な海外学生を確保できず、さまざまな意味で国力を削ぐことになる。

日本の大学の留学生の割合(2019年)は、学部において3.1%、大学院修士課程で9.7%、博士課程で20.2%であり、OECD参加国の平均に近い(それぞれ、4.8%、14.0%、22.3%)が、その質的基準は満足できるものだろうか。外国人の学部、大学院留学生の国内就職希望者数は各6割であり、博士課程学生の27.5%が、修士課程学生の25%が国内で就職する。もちろん優秀な若者の国内定着は望ましいが、さらに、かつて多くの日本の指導者が若き日の欧米経験を糧として育ってきたように、日本で学んだ留学生が母国に戻り、また国際社会に進出して有力者に成長することをも願っている。指導教授はもちろん、大学や留学支援機構が、課程終了後も引き続き、彼らの応援を続けなければなるまい。また国際交流は双方向であるべきである。とにかく、海外留学生を格段に増やすことが不可欠で、2023年に定められた政府の教育未来創造会議の積極的方針の実効性に期待している。

卓越科学者が激減したという

我が国の研究者たちの存在感はどうだろうか。この科学国は20世紀の半ばから数々の有意義な研究成果を上げてきた。2001年の科学技術基本計画の策定にあたっては、50年間に30名程度のノーベル賞受賞者を輩出することを目標として(筆者は国家としての品位に関わると疑問を呈した)、実際、今世紀の23年間に19名の日本生まれの研究者が受賞している。この数は米国に次ぐ。しかし、これは過去の20-30年程度昔の状況を映す「遅行指標(lagging indicator)」であり、けっして今後の成功を約束するものではない。

一方で、時間軸と評価視点を異にする近年の「一致指標(coincident indicator)」は必ずしも楽観的ではない。英国クラリベイト社は、2022年に論文世界で注目される「高被引用度研究者」7,225名を選んだ。米国(2,764名、シェアは38.3%)、中国(1,169名、16.2%)が圧倒的であり、英国の579名、ドイツ369名が含まれるが、日本人はわずか90名(1.3%)に過ぎない。2014年の5位から15位へと後退した。人口20分の1のシンガポールの106名にも及ばない。一組織に過ぎないハーバード大学の233名、スタンフォード大学の126名にさえ届く数でない。

研究機関としても上位10位にランクされるものは皆無である。理研から11名、東京大の9名、京都大、物質・材料研究機構の8名という惨状であるが、国立大学の総数としてこの5-10倍くらいいても不思議ではないのではないか。指導教授に信頼を寄せる大学院生たちがこの状況を知れば何を思うであろうか。筆者は日頃、立派な年配研究者や聡明な若者に接する機会が多々あるが、絶対数はやはり少ないのであろう。

近年、米中は地政学的に厳しい覇権争いにある。だが、経済安全保障にかかわる先端科学技術分野の国際学会においてさえ、両国のトップ研究者たちは自らの最新情報を掲げて丁々発止の討論をする。そして、科学的観点から評価され有力者として世界に認知されていく。当然、世界の若者は彼らの影響を受ける。残念ながら、ここでも日本の研究者の影は極めて薄いという。国際的人脈が細く、主要論文誌の編集などへの関わりも少なく、大幅に中国研究者に置き換えられているようである。

大学が自ら明日を実現する

最近の論文分析数値に過剰反応して悲観すべきではないが、ここで最大の問題は、大学人の自己決定権の放棄である。近年の若い世代の研究者の学術的内在的動機の低迷に、分野細分化による視野の狭窄化が追い打ちをかける。更なる問題は、自ら専門的考察力を欠く行政評価システムが、分かり易さ、画一性、効率性を求めることである。そこには物語性は一切不在である。結果として、科学技術研究活動全体が、学界の全面的支配を目論む外国の商業的科学情報機関の巧妙な事業戦略に嵌ることになった。ここにIT技術の進展は大いなる追い風である。もはや学問的な思想、創造への敬意は不在、大学は不毛の数値競争主義に陥入り、消耗し切っている。

絶えず変化する国際環境の中で、日本国が自らの価値観でもって評価の手段、指標を持つことは極めて大事である。国際社会がその基準を受容するかどうかは不明だが、それで構わない。自画自賛ばかりは憚られるが、目的は日本に将来あるべき大学をつくることである。「(小さな)何かを成したか」ではなく、いかにすれば「明日の学術をつくる」ことができるのか。日本国が理想とする「国立大学」が他国と同じであるわけがない。視野を世界に広げつつも、やはり自らの文化的特質や、特色ある風土に配慮して、あるべき姿の実現に向かいたい。

日本の価値観で評価軸を考えたい

世の中は常に不確実性に満ちているが、アカデミアは気概をもって自己決定権を復活し、最も適切な(複数の)「先行指標(leading indicator)」を発案しなければならない。そこには今日の学術界を跋扈する人間性疎外の定量的基準だけではなく、より包括的な要素が尊重されるべきだろうし、日本人の価値観を備えた人工知能(AI)も役立つかも知れない。従来、行政も科学界もあまりに無策、怠慢であり続けたが、これこそ外部介入に対峙しつつ衆知を結集する「日本学術会議」の最も重要な役割の一つであろう。この信頼できる指標をも踏まえた大学人事制度、また研究資金配分が、今後の環境の激しい変容に対する我が国の大学の対応力、そして科学力の持続的成長を約束するはずである。