(58)財源は経費から投資へ 〜 我が国大学が持続するための不可欠条件
日本の科学技術力、特に基礎科学力の衰退の大きな原因が、大学セクターへの研究開発費、高等教育費投入の低迷にあることは疑いない。2019年の研究開発費の18兆円のうち民間資金が大部分を占め、公的資金はそのうちの15%にすぎない。2000年に比べて伸びがわずか1.2倍でしかなく、中国の24.7倍、韓国の6.4倍はおろか、先進の米独英国の2.5−2.2倍にも遥かに及ばない。さらに高等教育費の公的負担もOECD加盟38国中の37位、対GDP比0.5%で平均値1.1%を大幅に下回ることもここに追い打ちをかける。
研究開発費、高等教育は投資であるべき
研究教育費の増額は不可欠であるが、国が科学技術経営の意思をより明確にし、大学、研究機関も体制を抜本的に改革、国際標準へ転換せずして再生はあり得ないだろう。いつの時代も、大学は自主精神のもとで新たな道を拓く使命をもつが、現在、国立大学の財政運営の脆弱性が自律的な教学活動を著しく困難にしている。加えて、本来あるべき未来への「投資」意欲が薄弱で、むしろ財源の過半を現組織の維持のための固定費、つまり「経費」として消費し続ける傾向が、恒常的な研究教育の停滞をもたらしている。
大学の経営基盤の安定化のためには財源の多様化が不可避であるものの、国を支える公的機関の活動には引き続き強力な国庫支援が不可欠である。文部科学行政、大学側は、まず国益をかけた創造的研究、卓越人材養成などを目指す社会説得力のある将来計画を策定した上で、「国の存亡がかかる絶対不可欠な投資である」と強弁してほしい。さもなければ、1270兆円の累積債務を抱える財政当局は必ず「人件費は有効活用されるのか。経費ならゼロがいい、最小限にすべし」と回答する。この非建設的な長年の馴れ合いの継続、特に大学の気概の欠如が近年の国際競争力の低下をもたらしている。
科学の進歩 vs 研究教育の規模拡大
「伝統と革新」というが、学術は深化し、科学技術は進歩する宿命にある。そして、研究と人材育成の拠点である大学(大学院)への社会的要請は拡大、多様化していく。ではこれに呼応すべく、アカデミアの規模と活動量は拡張し続け得るのか。もとより国家による着実な支援拡大の約束が望ましいが、残念ながらそれは現実的でない。科学技術知識生産と活用の規模増大(年率>10%増と見積もる)に、より緩慢な経済成長(3%程度)が追いつけないからである。近代科学技術社会が包含するジレンマと言える。
したがって、大学組織はこの限界を認識した上で、あらがえない潮流に対峙し得る仕組みを内製化することなく、健全に存続することはできない。規模拡大指向ではなく、むしろ新陳代謝を旨として、質の格段の充実に向けて戦略的に注力し続けることである。ここに教員の資質のみならず、経営者、役員、職員の力量は決定的に重要である。大学統治者に求められるのは、安定経営のための分別ではなく、積極的に「投資リスク」を決断する英知である。現状保全の守りの姿勢は、アカデミアのみならず国全体の弱体化を招くこと必定である。
投資志向の強い中国と韓国
例外的成功を収めたのは、今世紀の中国である。科学技術こそが国力の源泉と信じて「科学強国」実現に向かう国家の意志は固い。毎年、科学技術には経済成長率を上回る投資をすべしとの国家戦略を定めて、日米欧の先進国の動向を見極めつつ確実に実行し続けてきた。そして、中国科学院や選ばれた主要大学群が政府の期待に応える。
前世紀にはまだ科学発展途上国であったがゆえに、この20年間に20倍以上にまで膨らんだ研究開発費の大半を成長分野への「投資」として有効活用することができた。多くの意欲ある学生、若手研究者を米国、欧州に送り、成育後に先端知識と共に還流して、自国の発展の糧とした。近年、米国と厳しい技術覇権争いが続く中、基礎科学分野では引き続き広範な共同研究が維持されている。自前の研究活動も充実している。筆者はかつて中国科学院大会における胡錦濤主席の演説に出会わせたが、中国独特の「自主創新」を目指す科学研究の推進をと院士たちを鼓舞していたことが強く印象に残っている。
中国とは正反対の小人口、しかし機動的な国際国家、ジンガポールもまた政府主導で戦略分野に迅速かつ効果的に投資して成功を収めている。また、研究開発費、研究人材ともに日本の6割程度でありながら近年急進を続ける韓国においても、米国との人的交流に基づく成長に向けた積極的な投資傾向が見られる。特にAI分野やかつて日本が最先端を担っていたロボット工学における進展は目覚ましく、大学の成功は確実に経済成長にもつながっている。
一方、全世界のみならずアジア・太平洋地域における我が国の地位が低落している。Nature Indexによると、高品質な科学誌発表論文について、この地域における我が国のシェアが、2015年の21.4%から2021年には12.6%まで急速に減少した。もはやアジアのリーダーとは到底言えまい。
日本の大学は持続できるのか
いったい何故こうなるのか。日本は前世紀に、経済成長に伴う規模の着実な拡大をもって、既存分野の水準の維持向上と新興分野振興にかなり適切に対応してきた経緯がある。しかしこの20年間、自らの成功を過信し続けて、2割に過ぎない研究費の伸び代さえも、既存体制の保持にかかる「経費増」として費やしてしまった。この間、政府は巨費を投じて、様々な研究教育プログラムを設定し、新たな拠点も設置してきたが、所詮は既存分野の継続、延命の色彩が強い。期待した体制転換を駆動する戦略的投資からは程遠い施策であった。
国の科学技術力の盛衰は決して研究開発費の「総額」の多寡だけの問題ではない。恒常的な成長の実現を決意して、最大限の投資効果を目指して経営することだ。困難ではあっても、不可能ではないはず、科学技術の本質に鑑みて、開放的に躍動する研究教育エコシステムをつくりたい。アカデミアに限定せず、産業界を含む国内外のより広い枠組みでの互恵的な連携が不可欠である。残念ながら、現在の国立大学組織が、自らの立場を直視し、あえて研究分野と人材の新陳代謝を駆動する気概を持ち合わせるとはとても思えない。今や、思い切った世代交代が求められる。
創造に向けた想像力豊かな若者への投資
近年の科学技術の進歩と発展、社会的役割の多様化の流れの変化はあまりに速く、大きい。科学技術立国として未来を「創造」すべきだが、私たちに未来を「想像」することは容易ではない。パーソナルコンピュータの創始者Alan Kayは「未来を予想する最良の道は、それを発明することだ(The best way to predict the future is to invent it)」という。これこそ若い世代の役割であり、沢山の勇気ある若者を発掘し育てることこそ大学の最大の役割である。
今や日本は顕著な少子高齢化、労働人口減がもたらす困難な環境の中で世界に伍して生きることを定められている。出生人数が2000年の119万人から、昨年の77万人にまで低下する中、「大学全入時代」へ移る。無策のままでたくましい高度人材が自然に湧き出てくるわけがない。いかにして時代が求める教育研究の質を確保するのか。大学は抜本的に意識改革し、徹底した成長戦略へ転じることなく存続できるはずがない。再生にはしばし時間がかかるが、方向転換の決断は直ちになすべきである。
創造の機会はすべての人に開かれている
革新の原動力は若者である。しかし、数少ない若者だけに過度に依存してはならない。年配科学者の一人として一言付け加えておきたい。科学における若さとは、自らの内在的動機に基づいて、新たな知を創造する力であって、一律に年齢で測ってはならない。かつて触媒化学研究で、私とともにノーベル化学賞を受賞したK. Barry Sharplessが、昨年21年ぶりに再び化学賞を受けた。米国スクリプス研究所の82歳になる天衣無縫の科学者であるが、「60歳頃の若き日」にひらめいた斬新な着想が、特色ある化学・生物学連携型の科学を拓き、高く評価されたものである。
ノーベル賞の対象となる業績の端緒はしばしば40歳前後に得られるとされるが、創造性は若者が独占するものではないことが証明された。だが、これはあくまで例外で、過去に2度化学賞を受けたのはFrederick Sanger(1958年と1980年)だけである。昨今、米国でも多くの大学、研究機関が膨大な非生産的なテニュア研究者を抱えて財政に苦しむが、これは類まれな夢見る還暦科学者を寛大に処遇して成功した例と言える。科学研究は人の営みである。