2023年7月14日

(57)「力量ある博士人材」無くして日本社会は存続しない

我が国の「失われた30年」、国内総生産(GDP)がジリ貧で、一人当たりではついに世界31位に低落した。原因は多層的であろうが、今後も続く少子高齢化による労働人口減を理由にするならば(2000年の出生者数119万人、2022年には77万人)、急速な量的挽回はできないので、質の「格段の向上」をもって対応する以外に道はない。人工頭脳(AI)の発達によって不足を補えるわけがなく、直ちに実効性ある具体策を講じなければ国は必ず衰亡する。

筆者の最大の懸念は、近年の国民の高等教育への信頼感、知に対する憧憬の念の喪失である。例えば、高校生の職業意識の特徴は「安定志向、生活重視」であり、教育進路についても「大学院博士まで」を望む生徒は2%にとどまる。米国の15%、中国の19%、韓国の6%に大きく後れをとる。この挑戦意欲の欠落は、大人たちの価値観、世論の反映ではなかろうか。魅力ある大学教育が彼らに知性の目覚めを与えてくれることを願っている。合わせて、社会が博士人材のキャリアパスのさらなる多様化、積極採用を図るべきであろう。

リーダー層人材の不足

政治行政、産業経済、医療、教育研究など、あらゆる分野でリーダー層人材の不足の嘆きを聞く。まずは、すでに保有する有為人材の流動化、適正再配置を図り、さらに魅力ある環境を整えて海外の高度専門人材を招へい、確保しなければならない。同時に、長期的展望に立ち大学院を本格的に充実させ、真に世界水準にある人材を育成すべきである。まさに国運を左右する課題であるが、我が国社会はなぜ決断できないのだろうか。「10兆円ファンド」を活用する「国際卓越研究大学」構想はその覚悟の表れか。厳しい世界の現実を直視しつつも、決して敗北主義に陥ることなく起死回生を期してほしい。

ここで高度人材とは、専門分野において、国際的に同世代指導者たちと十分拮抗し、また協調し得る能力を持つ人たちを指す。一般論として、現在の諸分野の指導層の専門的力量、少なくとも能力発揮の機会には大きな疑問符がつくと言わざるを得ない。あまりに脆弱な高等教育制度と旧態依然たる人事慣習の不具合によるところが大きいと考える。

「教育は有害か」

社会にまん延する由々しき「(4年制)大学歴本位制」が最大の問題であるが、1990年代の大学院重点化以降の施策も完全に失敗に帰したと総括されよう。大学院の意義を真剣に問うことなく、国際標準の制度への抜本改革を怠った行政の不作為の責任はあまりに大きいが、大学院重視をうたう主要大学もまた既得権維持に終始し、時代の要請に応えてこなかったことは事実である。

学術の流れは急速かつ不可逆に変化する。大学院は伝統的学問の継承のみならず、知の革新の場でもある。大学組織はあるべき自立性、自律的統治力を欠き、一方、教員たちもTaylor主義的な数値管理のもとで、自らの研究成果に執着し続けて、志ある若者の夢を叶えず、また社会が求める人材の育成にも傾注してこなかった。かのバートランド・ラッセルの「教育は有害か(Does education do harm?)」の問いにどう答えるのか。

とりわけ、創造活動の中核であり次世代高度人材でもある大学院生の深刻な経済的困窮を見て見ぬふり、みずみずしい才能の消耗をなぜここまで放置してきたのか。まことに罪深い。昨今ようやく国の支援を得て改善の機運が認められるが、他国と同じく彼らが安心、自立して、勉学できる環境を整えねばなるまい。

なぜ高度専門人材は社会で疎まれるのか

若き博士たちはどこへ向かうのか。現在、学部学生の11%(理工農では36%)が大学院修士課程に進み、さらに修士号取得者の10%が博士課程に進学する。ここにそれ以上の留学生、学び直す社会人が加わるため、総在籍者数は7万5千人程度である。そして毎年1万6千人程度の博士課程修了者(3,500人程度の満期退学者を含む)が生まれる。その約34%が民間企業や公的機関等に就職し、約16%が大学教員になり、約9%が博士研究員などとして働く。

世界が高度専門人材の厳しい争奪戦にある中で、残念ながら、我が国社会は専門知をあまりに軽視してきた。国内の博士取得者数(2018年)は人口100万人当たり120人であり、英国375名、ドイツ336名、韓国284名、米国の281名と比べて極度に少ない。さらに諸外国が増員に向かう中、日本だけが減少傾向が続く。大学院への社会的要請が多様化、拡大する中で、行政はようやく危機感を抱きはじめたが、日本社会の実態として、この数少ない博士たちでさえも才能を活かし切れていない。

博士号は一定の学識を持つ証左、高度専門職として働くためのパスポートにすぎない。必要な経験を積んだ上で実社会のさまざまな場面に労働参加し、主軸として活躍しなければ意味がない。本来誇りを持つべき彼らが自己決定できないまま、不安定な「非正規職」につき、国内を漂流しているのはなぜなのか。彼らの将来への不安の主原因であり、また社会の我が国大学院教育への不信の表れとも言える。

よく考えてほしい。仮に博士の数を他国並みに2−3倍程度に増やしたとして、いったい彼らは大学、研究機関以外のどこで歓迎されるであろうか。いずれの社会組織も「高学歴者」の生活保障のために存在するわけがなく、社会の健全性、豊かさの維持のためにある。まずは博士の高度水準の堅持、そしていかなる専門分野の博士をどのくらい育成し、いかに活用しようとしているのか、社会の動向を勘案しつつ一定の戦略性が必要である。日本の博士号取得者の実力が十分であることを前提に、社会にはその専門性を建設的に活かす仕組みを用意する必要がある。

一般社会における全面的な高度人材不足とあまりに小規模な博士人材プール、この著しい需給の不均衡は何を意味しているのか。昨今、若者たちの内向き傾向を懸念する声は大きいが、突如として一斉頭脳流出に転じ、知的空洞化社会が訪れるかもしれない。日本は直ちに三流国に転落し、しばし復活はありない。国際標準から見てあまりに異形な高等教育界が対峙すべき深刻な社会問題であるが、解答が自然に降ってくるわけがない。

行政府の博士たち

国の司令塔である行政府が最高の知性を求めることは各国共通である。人類全体が直面する核兵器使用、地球温暖化、エネルギー枯渇、巨大自然災害、生物多様性喪失、新興・再興感染症のまん延などの切迫する問題、さらに高度遺伝子技術の生死への介入、急展開する人工頭脳(AI)の活用に関わる倫理問題、社会制度について迅速かつ適切に対応するのは選ばれた、最高知性をもつ行政官たちである。この観点から日本国政府は、これまで高度知識者である(はずの)博士たちの専門能力をいかに評価し、実際にどう処遇してきただろうか。

実は博士号取得の国家公務員の総数は2,274名(2022年)と、全体の0.8%程度に過ぎず、うち研究職、医師が中心である。最も大きな驚きは全25府省のうち17府省で今後とも博士採用の計画がないということである。これではあるべき制度の設計が追いつくはずがない。また高い専門性が要求される国際機関、外国政府の高官と国家リスクを背負って渡り合えるであろうか。

スイスIMDの国際競争力ランキング(経済力、政府の効率、ビジネスの効率、インフラなどが指標)において、我が国は1992年の第1位から、2023年では64カ国・地域中の35位まで転落した。特に長期低位にある「政府の効率」が42位にあることは、行政における高度人材の厚みに欠けることを示してはいないか。

おそらく各府省ともに、自らの実地職業訓練(OJT)が、今日の「学問偏重」の大学院の学位取得課程に勝ると言いたいのであろう。そうであれば、諸外国に倣い理想をもって設立した専門職大学院が十分に機能しないのはいったいどういうことであろうか。

文部科学省では

高等教育、科学技術政策を司る文部科学省においても、博士は総員2,115名中117名(5.5%)にとどまる。しかし、2023年度の総合職では、35名中5名(14%)の博士を採用、初任給を見直し、専門性を活かした人事配置をしたとのこと、大きな朗報である。米国科学財団(NSF)には、若手の大学研究者を再訓練、科学行政分野に導くプログラムがあり、将来の指導者候補として登用する道を拓くという。筆者が勤めるJST/CRDSは広い視野を持つ極めて有能な専門家を擁するが、数は限定的である。是非とも行政と大学が協力して、専門性の高い科学技術に携わる行政官を本格的に育成してほしい。

筆者が出会うアジア諸国の科学技術行政官の多くが母国を離れて先進国で学位を取得し、広い国際人脈をもつように見受ける。このグローバルな時代に、国外に多数の信頼できる知己をもつことが、国内守旧的、周回遅れではない国際標準の施策につながるであろう。

人文学、社会科学系における大学院教育の現状

筆者の周辺では、理工系の博士人材の資質や育成のあり方について議論することが多いが、上記の行政府人材問題はむしろ社会的価値の視座提供が期待される人文学、社会科学系の高度専門人材養成に関わることかもしれない。

まず不思議に思うのは、人社系において、学士課程修了者に対する修士課程(20−30人に1人。理工系では3人に1人)や博士課程修了者の数が、諸外国に比べて極端に少ないことである。アカデミア以外の行政府や経済・産業界などにおける社会的評価、通用性の認知の不足なのか、それとも大学院教育そのもの根本的な問題があるのだろうか。欧米の状況との違いを知りたい。東京大学大学院経済学研究科の教授陣には米国の著名大学院修了者が過半を占めると聞くが、その豊かな経験がなぜ国全体の教育体制改善に反映されないのだろうか。それとも外国方式は日本社会に馴染まないのか。

社会人学生、外国人学生たちの教育プログラムそのものへの満足度は高いが、修了者にとってキャリアパス開拓や就職支援への満足度は低いようである。大学院進学後、目指す研究テーマの決定時期が遅いため、5年の標準修業年限を超過してしまう割合が実に8−9割を超える。経済問題もあり課程満了後に、やむなく学位を取得せずに大学を去る学生も少なくない。わざわざ日本に来て学ぶ留学生はもちろん、向上心ある国内学生にとっても甚だ不都合なことであり、のちの不安定雇用にも直結する。理工系にも増して無責任な教育計画に対して、大学と教員には強く意識改革を求めたい。

悪しき「学部(研究科)自治」の慣習が、大学のあるべき「総合統治」の欠落をもたらしている。この現状では、国の社会的特性をより強く反映する人文・社会科学分野の若者たちが、国際普遍性の高い科学技術研究者たちとの積極的な連携、「総合知」の形成に邁進できるわけがない。

経済・産業界における博士たち

20世紀後半に世界は労働資本社会から知識資本社会へと移った。それぞれの国の大学院はこの新たな知の時代に呼応すべく、広い視野に立つ系統的かつ柔軟な教育を施して、アカデミアに限らず広い分野の先導者の育成を目指している。近年、ドイツでは博士全体の73%が企業に、大学に15%、米国ではそれぞれに40%、45%が所属する。一方、日本ではわずか14%が企業に、大多数の75%が大学に所属する。博士は大学だけのためにあるわけはなく、この人員配置は国際的には異常に見える。

日本の経済・産業界は行政府と同じく、やはり学位に信頼を置かない。企業は人に投資せず、個人もまた社外学習、自己啓発をする人が多くないとされている。やや専門性が高い科学分野の博士に限らず、専門職大学院のMBA(経営学修士)やJD(法務博士)なども含めて、高学歴者をリーダーとして登用する意欲は認められない。米国で上場企業の管理職の40%以上が大学院卒であるに対して、日本では12%に過ぎない。また時価総額上位100社のCEOについては、米国では大学院卒が67%(博士10%)、学部卒が32%であるが、日本では逆に学士が84%を占め、大学院卒はわずか15%(博士課程は2%)である。この状況が、IMD世界競争力ランキングにおいてビジネス効率性の64カ国・地域中47位、経営プラクティス62位へ低落したことに大きく影響しているのではないかと懸念している。

当然、分野によって高度人材の要求度は異なる。米国では既知の製品やサービスの改善、改良ではなく、新規価値を生み出すスタートアップ企業においては、より高度な知識をもつ人材が不可欠とされる。この点、我が国も同様であり、躍動し始めた大学発技術移転ベンチャーの従業員の博士の割合は33%に達し、CEO、CTO、技術開発マネージャーなどの役職についているという。そして起業者の満足度は高い。

戦後時の産業技術開発の担い手たち

海外企業では、かねてから博士たちが主に研究開発を担っており、米国では大多数の産業分野で5%以上が博士号を持つ。一方、日本産業界では個々の企業内に蓄積した知識、技術を動員してOJTを積み重ねて対応してきた。行政や社会の様々な専門職と同じ傾向にある。

もとより研究者の学歴と職業的技量は同列に扱えるわけがない。戦後の経済復興の時代(筆者は1961年大学卒業)、工学部の最優秀な友人たちは学部を終えたのち直ちに大企業に入り、研究、技術の現場で研さんを積んで活躍した。大学院に進学したのは学者志望者か、工学研究科とはいえ産業技術からやや距離を置く「変わり者」だった。筆者自身は産業界入りを視野に入れつつも、勉強不足を恥じて大学院に進んだ。修士課程終了後、助手に任じられ4年間に発表した論文をまとめて「論文博士」(乙博士)となった。当時、「課程博士」(甲博士)取得のための教育は系統性を欠き、個別に指導教授の手作りの方針に任されており、決して十分であったとは言いかねる。

しかし、日本の学位制度も進化する。国際化の流れもあり教育プログラムは格段に改善され「課程博士」が正統になった。因みに、諸外国の学位制度では栄誉的な特別の博士号を除き、一般的なPh.D.学位は課程教育を通してのみ取得できる。大学院学生の成長度を重視し、彼らがキャリアを追求するために授与される。一方、我が国では現在に至るまで「論文博士」制度が温存されており、多くの企業研究者が社内の技術開発研究における成果をもとに論文を作成、大学に提出して博士号を取得する。学生としての成育よりも研究業績を重んじる日本特有の資格である。

我が国の産業界は依然として自前主義、現場実証重視(これは正しい)であり、大学が生産する新規の萌芽的科学知識、技能への評価は必ずしも高くない。自らの課題設定能力や先端知へのアクセスなどの汎用的能力の方が遥かに役に立つ、という。ミディアムハイテクノロジー(化学製品や電気機器、機械器具、自動車など)開発はそれで十分かもしれないが、この強いこだわりが日本の発明特許の科学論文との関係性を希薄にしてきた。

ハイテクノロジー(医薬品、電子機器、航空・宇宙)の貿易収支(2019年、韓国が首位)の大幅な赤字転落からも先端技術開発力の劣化は明確である。今後、産業界が国家存続をかけて開拓すべき最先端科学技術はあまりに多く、その成否はひとえに高度専門人材の確保にかかる。端的に、各国で急激に進展する量子産業では40%程度が博士であることが必要とされる。世界最高の若き専門研究者なくして未来は拓けないことを、社会は銘記すべきである。

近年の技術開発研究における高度人材の活用

日本ではほとんどの分野で研究者・技術者に占める博士号取得者は5%に届かないが、特許出願件数から判断して、彼らがプロダクト・プロセスイノベーションで修士、学士に比べて相当に高い成功率を残してきたことは明らかである。

近年、ようやく前向きの動きがある。2020年には約4,700名程度の理工系博士の4分の1は産業界で採用されるようになり、特に製薬、化学工業分野において彼らの活躍が強く期待されている。工学博士である平井良典社長(秘書もやはり博士号取得者)が率いるAGC(株)の研究所では、すでに4人に一人が博士号を持つという。他業種でも、博士号を有する小島啓二氏が社長を務める日立製作所(株)は博士研究者を積極的に採用する。

おわりに

もちろん指導者の力量が学歴と直接関連するというつもりはない。第二次世界大戦後に日本の経済復興を担ったのは経営者たちの情熱と知恵であって、決して高学歴ではない。しかし、21世紀に大学院が知の生産、価値創造の中核拠点であることは間違いない。

我が国の大学院が機能不全であることは明白であり、他方、高度専門人材に対する社会的認知も全く不十分である。今後、高度専門人材には是非とも我が国固有のイノベーション(indigenous innovation)創出にも貢献してほしい。大学は従来型の欧米の亜流の博士を生産するだけではなく、文化的特色を生かし、躍動するアジアを先導する魅力的人材の育成にも注力すべきであろう。