2023年5月12日

(56)日本科学界のガラパゴス化 – 国際頭脳循環からの脱落をおそれる

科学技術立国であるはずの日本の若者はなぜ、こうも国内に閉じこもるのか。この国の社会はなぜに外国籍の学生や研究者を受け入れようとしないのか。この閉塞感の中で、まさかその方が都合がいい、それは仕方ないと思ってはいないはずである。今年から発足する「国際卓越研究大学」を名乗る資格は、迫り来る人類共通の課題の解決に中心的役割を果たすことではなかろうか。もう「人材不足」の言い訳は聞きたくない。向かうべき方向は明らかである。将来を担う若者たちを励まして、徹底して海外で武者修行させる、一方で大学のテニュア教員(一般には准教授、教授)や主要企業の中核研究者、研究所長らが国際的存在感を格段に増さない限り、ことは始まらない。

第一次世界大戦後、科学先進国は常に頭脳争奪競争の中にあった。今でも全く同じである。いずれの国においても有能な科学者を収容できる場は限定的であり、多くの研究者が活躍の場を求めて国境を越えて移住する。生まれ育った国が最適な研究環境を提供できるとは限らない。結果として外国人に寛容で魅力ある国が栄えることになったことは、科学技術の性格を考えれば当然である。

国外流動する研究者は成長する

米国におけるノーベル賞(自然科学3賞)受賞者の約3割が外国生まれであり、ここには相当数の日本人も含まれる。彼らに望郷の念はあっても、祖国にとどまれば持ち前の才能を発揮できなかったかもしれない。ユダヤ系の人の世界人口に占める割合は0.2%に過ぎないが、ノーベル賞受賞者は、その100倍以上の22%にのぼる。国家生存の厳しさを認めて世界をめぐり、国際社会に溶け込んで広い人脈を作り、また互いに協力し合って厳しく生きる。

もちろん、勤勉な日本の学生、研究者は、海外で大いに歓迎される。米国・ソ連の冷戦の時代、日本がまだ困難な状況の中で、筆者らの有機化学分野で多くの先輩、同輩たちが勇気をもって豊かな米国に転出した。下村脩、根岸英一のノーベル賞受賞者に限らず、コロンビア大学、MIT、ハーバード大学などの看板教授として活躍した大研究者もいる。皆、研究も人柄も個性的であり、学ぶところは多い。私自身は若い日にそのようには振る舞えず、憧れの研究者に学ぼうと米国へ出かけたに過ぎない。それでも多様な友人を得て予期した以上の恩恵を受けたことは間違いない。

国外移動は個人に大きな活力を与える。OECDの調査によると、外国に転出した多くの科学者が自国にとどまった人に比べて優れた成果をあげる傾向があるという。単に専門知識の多寡の問題ではなく、異文化に出会って能力が触発されるのであろう。唯一の例外は米国で、有力研究者は国内では良い条件を求めて移動するが、外国には出たがらない。しかし、この国はすでに環境整備がなされ、十分に多国籍化していて、近年はむしろ外国人あっての科学技術力である。実際に、台頭するアジアの中国、韓国、インド生まれの多くの研究者が大学、産業界に活躍の場を得ている。

人材受け入れは科学力強化につながる

卓越した研究者はもちろん、一般に外国で学ぶ人は積極性をもつので、彼らを一定の受け入れ条件を保障して登用すれば国の科学力は確実に上昇する。科学論文発表の観点からは、米国と同じく、スイス、北欧諸国、シンガポールなどの開放性の高い国が、日本やロシア、東欧諸国のように閉鎖的な国に比べて高い成果をあげている。いかなる理由であれ、門を閉ざせば間違いなく成長は止まる。これらの国の多くはもともと小人口であるがゆえに、諸外国との連携によりかえってイノベーションを起こし易い傾向にある。

情けないことに、OECDの調査(2019年)によると、留学生にとっての「魅力的な国」の項目で日本は加盟35カ国中25位、また高学歴労働者についても25位に位置し、同じアジア圏の非英語国、韓国のそれぞれ16位、23位に比べて低位にある。平時においては有能人材の流れの変更は容易でない。かつて1989年のベルリンの壁崩壊(ソ連崩壊)と2020年の英国欧州連合離脱(Brexit)の混乱はともに、我が国にとって関係国の優秀科学者受け入れの絶好の機会であったが、行政が二度にわたり無策に終始したことは残念である。思い起こせば1990年代前半、前者と関連して統一ドイツが経済低迷する中、旧西ドイツの研究熱心な若者の多くが、異国にある私の研究室に参加してくれた。そして、昨年来のロシアのウクライナ侵攻である。我が国は欧州研究者の動向にどう対処しているのであろうか。来日するウクライナ学生もごくわずかではないか。困難な時に誠意を提供してこそ未来の協調が可能になる。

若手人材の出入国バランス

日本社会は国際人材流動の得失をどう考えているのだろうか。結論的には若者の移動は、派遣国、受け入れ国の双方にとって互恵の側面が強い。ただし、当事国の社会がその効用を十分に理解しており、相応の研究環境水準を有していることが前提である。努力がなければ、一方的な頭脳流出を招く。国際交流は間違いなく個人の成長を促し、国にとっても人材多様性を確保し、実効性ある科学技術外交を維持するための要諦である。

周知のように欧米諸国とアジア圏の若手人材の交流は極めて非対称的である。アジア諸国から先進国に大量の若者が派遣されるが、当然、逆の流れは少ない。高等教育レベルの全世界留学生プールは610万人(2019年)であるが、うち中国人が106万人(17.3%)、韓国人が10.2万人(1.7%)を占めていて、近隣国の若者たちの新天地に飛び立つ志の高さを示している。一方、日本は3.3万人(0.5%)に過ぎない。従来から派遣/受け入れともにあまりの低調が続き、その結果が国全体の研究生態系のガラパコス化を招いている。国際的な頭脳循環が加速される中、いつ正常化できるのか、このリスクはあまりに大きい。

国家間の科学技術攻防

博士号は研究社会のパスポートであり、国際共同作業などにおいて不可欠である。まずはそれぞれの国で世界に通用する博士を養成すべきだが、現在、最も高度な若手科学技術人材とされるのは米国大学が生産する年間5.2万人の博士(2021年)である。その約3分の1が外国籍であり、中でも中国人が6,148名を占める。中国にとってみれば、皮肉にもこの膨大な派遣人材が中核となり、覇権を競う米国の研究活動を支えている。

一方で、中国は自国の台頭もやはり米国大学なくしてあり得ない。帰国者の優遇的な登用に加えて、有力外国人の招へいにも積極的である。結果として、近年は基礎科学論文のみならず、安全保障面の基盤ともなる先端技術においても米国を圧倒する勢いを示している。豪州の政策研究所ASPIのCritical Technology Tracker調査によると、エネルギー、人工知能、宇宙・防衛分野などの論文(2018-22年)の分析・国際比較の結果、44項目中37項目で首位を占め、米国の7項目を凌駕する。残念ながら日本は英国、インドや韓国にも大きく劣後し、競争圏外に去った。つまり、この人材派遣大国が、国家として一方的に頭脳損失の被害を受けているというわけでは決してなく、優位性を懸念するのはむしろ人材受け入れ大国米国である。無策の日本、これからどう決断するのか。

科学技術外交、インテリジェンス

我が国は自らの若手国際人材の養成、逆に国際人材の受け入れにも全く消極的である。だから世界の実時間の情報が得られない。今日、何が進行していて、明日、明年には何が起こり得るのか、国内の出来事への「虫の眼」を備えていても、大局を俯瞰する「鳥の眼」や非顕在現象を検知する「魚の眼」が欠如する。科学立国としてのインテリジェンス機能(非合法的諜報を意味しない)が不十分で、施策に先取りリスクが取れず、何かと周回遅れになりがちである。すでに世界で顕在化した主要課題を、いまさら後追いで推進しても効果は薄い。動向把握に先駆けて変化の微細な兆しに気づくのは、種々の規制に縛られる行政、事業機密を抱える企業などの職業人ではなく、むしろ自由が保障された個人である大学人、夢を抱く学生たちであるはずである。しかし、これまたガラパゴス状況の中で、好奇心を欠くためにアンテナ網が狭く、感度も鋭敏とは言い難い。成り行き任せで研究を続ける。

20世紀半ばに多くの優秀な日本人科学者が米国大学に転じたが、決して頭脳が一方的に流出したわけではない。彼らはやはり日本人であった。国内学界との絆は強く保たれ、若手人材の育成のほか、国際交流、情報共有にも貢献してくれた。

もちろん米国との関係は科学分野に限らない。忘れてはならないことは、かつて敗戦国日本の行政や経済界の復興を迅速に先導したのは、ごく直近まで「厳しく敵対してきた米国」の大学で学んだ若きエースたちであったことである。潤沢なガリオア資金やフルブライト財団などが彼らの志、価値観の大転換を強力に促進、支援した。その後70年、現世代は良し悪しにかかわらず多面的な日米協力関係のもとに生きているのである。

アジア圏諸国との交流促進を

昨今急伸する隣国の韓国においては、大学や企業の研究指導者資格として、しばしば米国大学の博士号が求められる。そのため学位取得者数は中国、インドに次いで1,026名と、世界3位を占める。いまだに自国の大学院制度の優越性を過信し続ける日本の122人(25位)の8.4倍、人口比では20.5倍にのぼる。そのまま引き続き米国にとどまる博士も多く、数字の上では輸出超といえるが、一方で、この間の広範な人脈形成を通じて、米国だけでなく諸外国との迅速で実効性ある学術、産業共同活動が可能になる。そのダイナミズムが今日の高い科学技術競争力をもたらしている。

筆者は教養のみならず対話力(会話力に限らない)に乏しく、とても国際人とは言いかねる。それでも、近年の日本の風潮はあまりに不自然、異常に映る。若者が海外武者修行をためらう本当の理由は何だろうか。もはやほかに学ぶことはないと思い込んでいるのか、あるいはインターネット情報技術への過信だろうか。いろいろ些事にわたる釈明を聞くものの、要は日本社会の学問の意義、科学技術の力量、人間関係の大切さへの無理解のなせるわざではないだろうか。周辺の大人たちはいったい何を教えているのか。

海外の大学で学ぶための経済的自己負担は相対的に大きく軽減されたし、欧米、アジア諸国における多くの大学の理工系大学院生への生活支援は充実している。自由が保障された、しかし経験に乏しい学生や若手研究者が「本当の社会」を学ぶ大きな機会ではないか。異文化の人々と共感を育み、改めて自らのアイデンティティーを再確認することができる。先人たちがかつて学んだ欧米の先進諸国に限らず、共に時代を率いるアジアの中国、韓国、シンガポール、インドなどの懐に飛び込んでみてはどうか。若者たちの向上心、躍動感には目を見張るものがある。専門科学分野だけが大事なのではない。現地ならではの文化、自然・社会環境についても直接学ぶことができ、そこで築いた友好関係は必ず将来世代に貢献することになる。

世界の高度人材獲得競争・交換の枠組みから完全に疎外されている日本は、いったい何を創り出し、何を守ろうとしているのだろうか。また、産官学、いずれにおいても十分な国際的発言力を維持していると言えるのか。ことは深刻であり、「国際卓越研究大学」の設立にあたり、頭脳循環の多面的な得失について抜本的な検討が求められる。