2023年3月27日

(54)科学技術人材の多様性と流動性

新世紀に入り「知の爆発」があり、人類共通の資産である科学知識の量は格段に増大した。しかし、研究投資に対する社会への還元効果は、世界的に停滞気味とされる。習得すべき既存知識の増加が、むしろ人びとの創造性を損ない、イノベーションを阻むとの逆説的な見方がある。一方で、人工知能(AI)の発展がこの状況を反転させるという人も多い。だがこの高度な技術の活用にも増して求められるのは創造的な人間の叡智(HI)の統合であろう。創造には知識の集約とともに、未知への想像力を培うことが必要である。最も確かなことは、我々の自然界に関わる知識は、未だなおわずかにとどまるので、科学界は引き続き真理の探究に向けてまい進すべきであるし、同時にあらゆる知を総合、融合して新たな社会的価値を生み出して、広く人類の福祉に貢献しなければならない。近年、我が国は知識生産と技術開発、社会実践・活用のいずれについても衰退傾向にあるが、この状況を転機として新たなイノベーション・エコシステムをつくり、再生を期すべきである。

人類存続のための国際協調

それぞれの国が誇るべき文化を、すべての人が特色ある価値観をもつ。19世紀のフランスに生きたパスツールの言葉に「科学に国境はない。しかし、科学者には祖国がある」がある。筆者は日本の科学者として、この名言をいつも心にとめながら生きてきた。ところが21世紀になり、むしろ「科学者には祖国がある。しかし、科学に国境はない」と語順を逆にしてはどうかと思っている。

私たちは、かつて経験したことのない世界のすべての知識、すべての人がつながる時代に生きている。未来は不確実性に満ちているが、人びとが安全な社会、平和と繁栄の促進を希求していることは確かである。国家としての国際競争力もさることながら、人類全体が新興・再興の感染症のまん延、地球温暖化、エネルギーの枯渇、生物多様性の喪失、自然災害などの深刻な問題にも直面している。これらの巨大かつ深刻な共通問題の解決、軽減には、世界のすべての叡智を結集せざるを得ないはずである。これまでのように各国、各組織が個別に高度人材の育成、確保して対抗するだけでは不十分であり、その多様な才能をつなぎ、縦横に活かす以外に道はない。「安全保障問題」などを超えて長期的展望に立ち、国家間、組織間の研究開発協力の実践が必要である。

ロシアのウクライナ侵攻が始まって1年が経つ。10年前に初めてキーウの科学アカデミーを訪れた時のこと、ロシアの友人研究者たちとの長い交流を思い出している。皆、真摯に科学を学んできた善き人たちである。国際社会は悩んでいる。スイスの素粒子科学研究の国際拠点(CERN)は、ロシア人研究者との個人的交流は妨げないものの、国や組織に対しては厳しい対応を迫るという。地球温暖化に関わる北極圏気候変動研究においては、ロシアの観測データが得られず、機能が中断されるとされ、また宇宙分野では、ロシアの宇宙研究機関ロスコスモスが、明年には国際宇宙ステーション(ISS)から離脱する意向という(朝日新聞、2023.2.28)。まことに困ったことであるが、我が国社会も国際共同研究の重要性を十分に認識し、その維持について論議しなければならない。

科学技術研究の質的転換を

我が国は民族的均質性が高いため多くのセクターがあまりに画一的な価値観をもつ。科学技術政策についても、「国が一丸となり、オール・ジャパンで」と勇ましく自前の競争力強化を求めるが、迅速かつ柔軟な国際協調無くして、もてる自国の力の最大化はないはずである。保守的で外からの強制力なくして自らの変化を好まない国民性なのであろう。70年も続き構造疲労が著しい体制を維持したまま、対症療法的に研究費増大、人的規模拡大など、いわば「足し算的手法」で能力開発、研究力の向上・拡大、成果の量的増大を図ってきた。研究成果も内容を吟味することなく、数量の多寡で判断する。しかし、近年求められているのは、「掛け算」による質の格段の向上、さらに質の転換である。揺るぎない中長期政策に基づいて幾何級数的な発展を図るとともに、異なる専門知識、技術の交わりによる非連続効果、つまり斬新な知恵を出さなければならない。

掛け算の効果

「足し算」と異なり「掛け算」は必ず単位の変更をもたらす。例えば流動性、静止物体を動かしてみる。質量(kg)と速度(m/s)を掛け合わせれば、異次元の運動量(ニュートン秒、kg・m/s)が生まれ、もう一度掛ければ運動エネルギー(ジュール、kg・m2/s2)の新世界が開けて、他の物体に作用し仕事をする能力を生み出す。究極はアインシュタインの相対性理論E = mc2mは質量、cは光速)に行き着く。純粋な単体物質も尊いが、化学反応による異元素の結合、異分子間の相互作用、また少量の異物質の配合が、画期的な物質機能を発現する。生物における種の交配は、クローン種よりも環境変化の中にたくましく生きる種を生みだすのではないか。

均質な「グループ」から機能する「チーム」へ

ことは数学や科学にとどまらない。社会事象のイノベーションも相乗効果創出なくしてあり得ない。もちろん先人の独創的な足跡には敬意を表するが、現代社会が求める巨大かつ複雑な課題の解決は、多様な人の共創に待つところが多い。中心的人物の専門的能力の高さだけではなく、どのくらい異なる人と出会う機会をもちうるかが鍵となる時代である。

人びとがただ生きながらえるためならば、居心地のいい同質な人たちのグループ(自然発生的な生き物の群れ)がいい。しかし、特定の目標必達のためには専門性重視のチーム(意図して組織された集団)が必要だ。この協働は連携では不十分、連帯感が不可決である。さらに適時性が求められ、もはや時間を失ってはならない。

なぜ「多様性」なのか

異なる才能の組み合わせの可能性とその効果は無限である。もちろん異能な科学研究者の出会いやチーム協業が常に正の効果を生むとは限らず、均質なグループによる活動と同じく、その行方はさまざまである。しかし「科学は進歩する宿命にある」ため、継続的な実証と反証を経て意義ある新規成果のみが生き残るので、心配は無用である。

むしろ科学そのものではなく、科学知識に基づく新技術の開発と社会実践においてこそ、正しい規範と健全な倫理に基づく自己修正機能が働いて然るべきである。ここに多様な社会的価値観の存在と包摂性が、均質集団による危うい独断の排除に大きく貢献する。この知識資本時代に、まさに日本社会の叡智が試されるところであり、特に日本文化を特徴づける人文学、また社会科学を含む非自然科学分野における多様な知の確保と積極活用に挑戦しなければ、勝機は生まれない。

知の複合化、総合化を阻むもの

新たな科学の地平を開くためにはオープンサイエンスが、さまざまな課題解決のためにはオープンイノベーションが不可欠である。知識、技術の複合化、総合活用を促進する共通活動の場(コモンズ)が求められ、実際に、国内外の大学間の連携、産官学組織の連携による共同作業の重要性、そのためのエコシステム形成の必要性が叫ばれて久しい。しかし、頑強この上ない非共有・専有意識の壁(アンチコモンズ)が立ちふさがり続けるのは何故なのか。

科学は一つであっても、研究社会は均質ではない。優れた研究能力は個人に、一方、生産される知識財産、使用権利は特定の組織に帰属することが多い。加えて、産官学の3本柱には本来の使命、役割があり、また所属する研究者たちの価値観も異なる。自由な学術を旨とする大学、事業性を追求する企業、国家戦略を担う国立研究開発法人の研究者が、利益相反、責務相反を克服して共同事業を計画、実行することは容易でない。同じ国内にあっても、制度的手続きがあまりに煩雑であり、知識の総合化には多大な時間と費用がかかることは認めざるを得ない。

各府省の傘下にある研究機関は当然固有の設置目的、戦略目標をもち、他組織の研究者と柔軟に協業することは難しい。自由であるべき大学においては、論文偏重の評価制度が専門分野の細分化、研究者の視野の狭隘化と自己中心主義、有能な研究統括者の不足を招いている。一方で、企業では過度な知財保護・秘匿意識が、自社技術の迅速な外部活用、複合的展開を阻み、結果として貴重な財産の非生産的な休眠化、陳腐化をもたらしている。技術内容の詳細を知るのは当然発明者であるが、その意味を洞察し社会的価値に変えるのはしばしば外部の目利きであるにもかかわらずである。

人材の流動化が多様性の確保・活用の切り札

理想である抜本的な制度改革は非現実的であり、従って現在の堅固な構造、秩序の存続をしばし容認するとしてみる。であれば、次善として組織内容を、知の複合化に向けて実質機能するように変えなければならない。真に求められるのは産官学の形式的組織連携ではなく、異能人材の実質的協業による「掛け算効果」の発現である。直ちに始めるべきは、慣習で縛られてきた研究・技術人材の流動の格段の促進であるはずである。多くの高度人材が、古い社会的慣習や制度、職業人としてのしがらみを脱して、円滑に流動することこそが社会の多様性を保障する。岩盤構造の打破、刷新に比べて遥かに実現性が高い。もちろん、あくまで個人の特質の最大活用が目的であって、組織に帰属する機密の漏洩は厳にあってはならない。

人が動くことはさまざまな活力を生む。諸外国では、多くの高度専門家たちが国境、組織を超えて旅をする。科学技術立国日本の研究者たちも、ためらうこと無くこの流れに加わらねばならない。「往復切符」や「巡回切符」をもって綿密に計画された組織連携、共同作業へ参加することにも一定の効果はあるが、十分に機能するとは言えない。最も有効なのは「片道切符」による転籍である。退路を断って新たな場で価値共創活動に取り組んでこそ最大効果が生まれる。志をもって旅する人たちにインセンティブを与えなければならない。最も重要なことは、流動化の加速は、才能ある個人はもとより、そこにかかわる組織、国家、さらに世界全体にとっても有益であることである。