2022年11月25日

(53)「絶滅した旧人類のゲノム解読」から多くを学ぶ

今年のノーベル生理学・医学賞がスバンテ・ペーボ博士の「ゲノムに基づく人類学、人類の進化」の研究業績に対して贈られる。同博士は、1982年に生理活性物質プロスタグランジンの研究で同賞を受けたスネ・ベリストロームを父にスウェーデンに生まれ、のちに米国UCバークレー校、ドイツのミュンヘン大学を経てマックス・プランク進化人類学研究所の進化遺伝学部門を率いる。

私が勤務するJST/CRDS(研究開発戦略センター)は科学技術立国日本のナビゲーターを志向している。行政、大学、産業界から多彩な人たちが集い、研究開発や関連政策動向を俯瞰して、我が国にとって将来「役に立つ」研究開発領域や課題を抽出し政策提言に取り組んでいる。広範な生理学・医学分野には有力研究者がひしめくが、去る10月3日の授賞発表は彼ら専門家にとってはいささか意外で、一瞬不意打ちを食った感があった。しかし、すぐに本当に良かったと笑顔が溢れだし、私もこの選考判断に感銘を受けた。

科学する心

私は近年しばしば、小学生から高校生までの青少年、また科学を専門としない方がたの前で話す機会が与えられる。「科学する心は何か」と聞かれるが、画家ポール・ゴーギャンの「我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか」の問いかけに正対して、客観的に答えようとすることだとする。科学知識の体系が、人びとの真っ当な自然観と人生観、死生観を培ってきたと考えるからである。しかし、もとより私自身の研究成果をもとにした話では説得力に欠ける。

ペーボの旧人類DNA解読の研究業績は、まさにこの核心に迫るものである。我々地上に生きる80億人はすべて、20万年昔にアフリカに誕生した新人類ホモサピエンスの正統な末裔であるとされていた。しかし、実は6、7万年前にアフリカを出たのち、すでに絶滅した旧人類の亜種ネアンデルタール人(発生時は不明だが、40万年から3万年前ごろまで欧州、西アジアに生息したのち消滅)やデニソワ人(約30万年から5万年前にアジア全域に生息)と共存、交雑していたことを明らかにした。我々の来し方に関わる驚きの大発見であり、この遺伝子交流はホモサピエンスの「アフリカ単一起源説」にさえ再考を促すと聞く。

科学における反証可能性

この偉業が教える最も大事なことは、科学の真髄、「反証可能性」である。いかなる伝統ある信仰、社会的権威もこの科学の本質に反駁できない。動的性質をもつ生命体といえども、その存在は数学的原理、科学法則に厳密に支配される。しかし、現象は条件に依存し揺らぎがあり、多様である。人間と人生の無限の多様性こそが、人類の存続の根源である。他方、これが社会的軋轢、不安定性を生む。この業績は、過去数万年間に地上に起きたさまざまな客観的事実を積み上げて、かつての定説を覆したものである。個々の当該研究者ではなく、科学界全体が自律的な修正機能を担保していることの証であり、これこそが科学の営みへの信頼の根源である。これからもペーボの結論はおそらく揺るがないであろうが、なお人類の歴史の全てが解明されたわけではない。改めて反証の挑戦を受ける立場ともなる。

先端計測技術の凄さ

この困難な問題解決を可能にしたのは高度な先端科学技術の集積である。米国発のDNA増幅のためのPCR技術(1993年ノーベル化学賞)とケンブリッジ大学に源をもつ塩基配列決定のためのDNAシーケンサーの高性能化、さらに集団遺伝学的研究手法の導入が大きく貢献した。「測定は科学の母」という。我が国が科学技術立国であるためには、自ら卓越した先端計測技術を開発、維持すべきだと教えるが、生命科学分野などほぼ全面的に外国依存の現状はまことに心許ない限りである。

センス・オブ・ワンダーこそが命綱

しかし、科学とは本来、自然界の真実を追求する人の精神高揚の営みである。高性能機器の活用だけでは不十分、実際、この謎解きの鍵は、何よりもペーボのあくなき内在的動機、原始人の遺物、さらにエジプトへの好奇心と思い入れであった。それを見守る忍耐と寛容の環境がドイツにはあった。

今昔、世の東西を問わず、子供たちは生まれながらにみずみずしい「センス・オブ・ワンダー」を持ち合わせる。我が国においても私が近年、科学技術館のイベントや各種の科学コンクールを通じて接する多くの少年少女たちは驚くほどに創造的で「科学する心」を持ち合わせている。その真剣さに接して愛おしい思いが募る。いったい「彼ら、彼女たちは何者か」。日本だけでなく、未来社会の形成のためにかけがえのない宝物である。

だが、あまりに歪んだ教育と職業制度、さらに様々な社会的しがらみが、生来の感性を削ぐ結果を招くことが残念である。これでは日本に明日はないではないか。各界の指導者たちは無責任にただ拱手傍観するだけである。なぜ今日の人材枯渇を直視して反省し、反転に向けた決断をしないのか。日本だけが衰退する状況に何を思うのか、明確に答えてほしい。本来、人びとはそれぞれの個性を保ちつつ、環境に適応すべく緩やかに進化する。今日の硬直化した社会の仕組みの中で、決まりごとに対して従順な子どもたち、異端たり得ず分別力で生きる若者たちが特に犠牲者となりやすい。大学においても「選択と集中」重視の政策のもと、大学院学生や若手研究者が、上位下達で競争を強いられ続けて消耗し、自由な発想と闊達に生きる力を損なっていく。科学的意義に乏しい短期的成果偏重の評価制度で支配すれば、本来あるべき展望をもち得ない。彼らは、ペーボの生き様や、研究の時空間をどう思うであろうか。近年の科学力の衰退を見れば教育研究の仕組みの不具合は明らで、近々の取り返しのつかない結果を恐れている。

ひとつ強調しておきたい。日本の科学界はスバンテ・ペーボの業績を今回のノーベル賞選出に先んじて高く評価してきた。2016年には慶應医学賞、2020年には日本国際賞(Japan Prize)を授与した。さらに多くの国立大学とは異なり、世界に開かれた沖縄科学技術大学院大学(OIST)は2020年から客員教授として処遇して若者の実験研究指導を託している。見識者はやはり見るべきものを見ている。

嬉しいことに、一般国民もまた、新聞やテレビによる解説報道を通して、この古代ゲノム研究にロマンを感じ、基礎科学研究の意義を肯定的に捉え直しているとの印象をもつ。欧州で紡がれた物語ではあるが、我が国の基礎科学再興の絶好の機会と捉えるべきであろう。

基礎科学、技術開発、イノベーションの関係性

近年の我が国の科学技術政策はイノベーション(経済を含む社会公共的価値の創出)を志向する。そのための科学技術であるとする。大目標として文明社会の持続性を掲げるが、国内的にはかつての「富国強兵」「殖産興業」、今日では「経済安全保障」もその中心課題であり続ける。ここで定義する科学技術(science-based technology)は「真実の追求」である科学そのものとは異なり、科学知識をもとにした「不可能への挑戦」である。つまり今まで「なかったものを創り出す」「できなかったことを可能にする」技術をつくる。「発見」ではなく「発明」に向かう。これがイノベーションの原動力であると考える。

科学には人類社会にさまざまな意味で恩恵をもたらすことが期待される。しかし、もし発見から発明、イノベーションを目指すならば、その道はあまりに長い。だから、この線形発展モデルは幻想に近いとして、新たな知識を創る基礎科学はないがしろにされがちである。ならば、逆にバックキャストと称する経済成長、社会問題解決を目指す「出口志向」活動だけに巨額の投資をすべきだろうか。明確に否である。社会の価値観が急速に変化する中、誰が責任をもって「正しい」目標を特定し得るのか。さらにこの「出口志向」の研究に用いられる目標管理的なアプローチではとかく既成技術をもとに瑕疵のない官僚合理的、定型的計画が策定されることが多い。一方で責任感ある研究実行者たちはK P I(重要業績評価指標)に囚われ、視野狭窄に陥りがちである。だからこのアプローチは、柔軟な試行錯誤が不可欠な学術的な基礎科学研究にはなじまず、明確な国家的、企業的目的をもつ戦略研究に限定されるべきである。

基礎科学は「役に立つ」

ペーボの人類進化に関わる考古学研究は、科学に対する人びとの価値観の大きな変革を促す。純正基礎科学とイノベーションの関わりである。絶滅した旧人類の遺伝子配列の混入が地球上各地に住む現代人の生理や健康に影響すると主張する。例えば、新型コロナウイルス感染症の重症化の程度が、数パーセント混入するネアンデルタール人の遺伝子の割合に関係するという。ならば、この超基礎科学的な大発見は、今日喫緊のワクチン生産研究のみならず未来の医療の進歩に密接に結びつくではないか。

我々が認識すべき最も大切なことは、全ての知識は特定の場所に設置された箱の中に整理、収納されているのではなく、動的に絡み合っていることである。ただ人びとがその関連性に気づかないだけである。あるいは、社会の何かの仕組みが気づきを妨げている。もとよりイノベーションとは多くの知識の集積の結果である。だが考えてみよう。高山の山頂を目指すとき、その出発点や道筋とそのための装備の選択はまさに多様である。また逆に、その起点からはあらゆる「意味のある」地点に向かい歩むこともできる。四方を見渡せば到達すべきは、下から望む近くの山頂だけであるはずがない。時には予期せぬ出来事に出会う。しばらく立ち止まり、目的地変更の判断があってもいいではないか。研究者には自らの立ち位置の座標を確認することが求められる。

いかにすれば、多様な知識(knowledge)を関連づけて知恵(wisdom)に変えることができようか。多くの人びとに創造のための「気づき」を与えることが大切であろう。旧来の線形進展モデルでもバックキャストでもない。さまざまな知識や技術を、もっと機敏かつ迅速に(米国ではagileという)自動組織化できる柔軟な仕組みをつくるべきであろう。必然と偶然の組み合わせによって、創造の確率は大いに高まる。近年は「経済安全保障」に配慮しつつも、広範な国際連携、頭脳循環を促し、さらに情報技術改革を進めて、社会的価値の創発(emergence:組織化により部分の集合を超えた特性を生むこと)に向かわねばなるまい。世界はここに日本の多様な貢献を期待しているはずである。

いったい何に「役に立つ」のか

基礎的な科学知識はあらゆる方面への応用展開の可能性を秘める。「役に立つ」とは何か。社会的影響を生むことを指す。科学技術は、もはや軍事と民生のdual use(両義的使途)ではなく、multiple useさらにuniversal useであり、その行方と社会的影響力は誰にも予想できない。もたらされる結果の善悪は利用する人、組織、国家の意図、倫理観次第である。

ペーボも駆使したゲノム情報は基本的科学知識であり、その用途は無限である。しかし、まかり間違っても、高度な遺伝子解析が、ナチス・ヒトラー時代の理不尽な政治的偏見、人種差別による社会の分断を増幅する「優生学」の再興を許すことがあってはならない。最高水準の技術は最悪の結果をもたらし得ることは、人類史上最大の暴挙である核爆弾の開発、投下から明白である。社会的に甚大な不都合は科学の尊厳を毀損することは必定である。

「我々はどこへ行くのか」。人類はいずれ衰亡に向かう運命にあるのかもしれない。しかし、自らの愚かな行為によって死滅してはならない。科学技術の統治には、知性と倫理性を兼ね備えた科学者、技術者たちが主体的に関与しなければならない。