(52)不寛容な学術研究の評価 ― ある科学者の想い(その3)
論文の引用度とは
近年、広く影響を及ぼす論文被引用度とは、海外の情報企業が収集し、商品として提供するデータであり、それ自身が学術や科学、また研究者の価値を表すものではない。実はこの計測法の創始者であるE. Garfieldも「引用の内在的価値を評価するのが科学的知性である」としている。我が国の科学技術・学術の施策があえてこの指標に依拠するのであれば、強大なビジネス活動と緊張感を保ちつつ、その意味についてより慎重に検証しなければならない。もとよりこの数値だけで長期的な科学への貢献度を測ることはとうてい無理であるし、取り扱いの研究社会への影響についても深く考慮すべきである。
科学論文の被引用度は、おおむね専門研究社会における共鳴(エコー)の度合いを示す。行政や大学組織がこの科学論文統計値を把握し、研究分野全体の情勢を俯瞰しておくことには大いに意味がある。文部科学省NISTEPの多角的な比較調査結果はさまざまな示唆を含み、その情報提供には常に大いに感謝している。実際に研究人口の多い分野における良質な論文は格段に多数の引用を得ることとなり、研究動向を明白に物語る。しかし、一般の90%以上の論文については引用数と質の間に関係はない。格別に大きな値は「不易流行」の流行の部分を表すものであるが、学術の深化、発展にはむしろ個々の論文の不易への影響こそ尊重すべきである。
研究成果の評価にあたり多くの良識ある意見を聞くことは極めて大切である。そのため、総じて「被引用数Top10%論文」を合格と見る向きが多いが、この根拠となる引用行為は科学的良識によると言えるだろうか。唯々諾々として受け入れてはならない。世界で生産される膨大な論文成果物とは、実はその50%程度が年間を通して誰も引用しない代物である。もし被引用数が質の代理指標であると言い張るなら、これは主に品質保証なき累積体の意見に基づいてなされたものと言わざるを得ない。すでにこの評価法は論理的に破綻しているではないか。博物館やコンサートホールの入場者数が多ければ良い催しものであったと言えるのか、視聴率の高いテレビ番組、ツイート数の多い発信は本当に信頼できるのか。観衆、聴衆の鑑識力の質的保証が欠如していて、単に発信量を測っているに過ぎない。数値はいかに正確であれ、趣旨に鑑みて特別のものしか意味はない。
我が国の論文の平均被引用回数はたとえ一流大学発であってもせいぜい13回程度というが、実際にどの水準の論文に引用されているのだろうか。行政的に研究の科学的意義とともに投資の経済合理性を保障したいなら、一編の論文作成、一回の被引用にかかる研究費とその行方についても考えたい。もし多額であれば、「一編」のみならず「一回」の意味が問われてしかるべきだ。納得いく説明はおそらく難しい。
「創造」には競争はなじまない。論文量産に向けた政策誘導は科学力強化にとって効果はなく、むしろ学術界にとって極めて有害である。今や大学の研究者、特に国の宝、知的活動を駆動する若者たちが、評価圧力のもと一喜一憂しながら消耗していっているではないか。重ねて問うが、評価の本当の目的は何か。自律的な営みについてテイラー主義は排除すべきだ。実学であれ虚学であれ、また客観的でなく主観的であっても「面白く、良いと信じる研究」をするように鼓舞してはどうか。この頭脳争奪戦の時代に、異常に窮屈な我が国の研究環境に、自由闊達な優秀な外国籍研究者が魅力を感じるわけがない。
大衆文化の蔓延
論文被引用数の多寡には、研究内容のみならず、当該分野の研究者の知性、価値観が関わる。学術はビジネスとは一線を画す。論文被引用数には一定の統計的意味を認めるものの、これとて米国を起点とするある種の「大衆文化」の一環に過ぎない。大きな数値が必ずしも学問的な正当性を保証せず、安易に偏重すれば大きな問題を引き起こす。
筆者が専門とする化学分野においては、確かに多くのノーベル受賞者の論文の被引用数は多い。しかし、同時に多くの「被引用度スター」が受賞していない。一方で、世界の有機化学者が尊敬するA. Eschenmoser(スイス工科大学)の論文被引用数はTop1000人の中にも入っていない。化学進化の研究に傾注しDNAはなぜ五炭糖であるデオキシリボースを使わなければならないかなどと尋ねる。その圧倒的な科学的思想は他の追従を許さず、同業者不在で論文を引用できる人も少ないのである。
もしも業績が被引用数だけで査定されるなら、私自身の論文発表姿勢については反省の余地は大きい。500編程度の全論文中の1割程度で総被引用数の半分を占めることになる。つまり論文発表は十分の一か、五分の一であってよかったことになる。あとは「廃棄物」、しかしここに思い出深いささやかな論文も数多いのである。その主観はもはや時代遅れ、無意味だというのなら、不明をご勘弁いただきたい。
日本における論文被引用数尺度の登場
もちろん論文被引用度は研究活動の一面を映している。しかし、この値には研究環境をはじめ、個人の能力以外の多くの要素が含まれるため、個人評価の代理指標として用いることは極めて不適切である。実際、この適用により、我が国の多くの有為の若手研究者は自己肯定感を損なわれ疲弊している。
私がこの新たな計測法の存在を知ったのは1981年で、日本がようやく有力科学国として存在感を確立した頃である。E. Garfieldが率いる米国科学情報研究所(Institute for Scientific Information)が、1965年から14年間にわたり発表された論文について、最も多く引用された科学者1000人を発表した。日本人の名が21名あり、シェアは2%程度。戦後我が国の学界を先導した著名な先生とともに米国で活躍する研究者が10名、約半数が含まれていた。この新手法に感心した朝日新聞は「引用回数は業績の証明」「論文小国くっきり」と大きく取り上げ、科学大国を標榜する日本の当時の自信過剰を批判的に論評した。
ここに福井謙一先生の名はないが、そのおり漏らされた感想は「論文が引用されているうちはまだ不十分で、業績が常識化して引用されなくなったら本物」とのことであった。先生の「フロンティア分子軌道論」は一般学術用語として定着しており、もはや1952年の原著引用は不必要になっていたのである。そして、奇しくもこの年の12月にノーベル化学賞を受賞されたが、まことに納得のいく教えである。1905年、さらに1915-1916年発表のアインシュタインの相対論、1953年のワトソンとクリックのDNA二重らせん構造の論文も、いつごろまで引用され続けたであろうか。
一方で、このような定説化、常識化とともに、時代の先を行く「早すぎる発見」も”sleeping beauty”と呼ばれ、あまり引用されることがない。萌芽期の独創的学術研究(技術開発研究ではない)の意義は本人以外に(しばしば本人においてさえ)明確に読み取ることは難しいのである。
では実験化学分野ではどうだろうか。現代の化学研究は、学界、産業界を問わず、1950年以降に発明された触媒や鍵化合物に大きな恩恵を受けている。しかし、現役研究者たちの発明者に対する敬意の念は薄く、原著文献を引用さえもしない。なぜなら、とくに利便性の高い研究材料はすでに世界で市販されており、「買ってくればいい」からである。科学誌の論文投稿規定から求められて研究論文に記載すべきは商品の販売会社名であり、もはや発明者名ではない。つまり研究促進に役立つものは、先人の生み出した知恵ではなく、自らの財布であるということになる。腑に落ちない話であるが、これが商業化時代の有名出版社や現役の研究者たちの価値観だから仕方がない。
商業的学術情報機関の影響力
かく言う筆者にもうかつにして気が付かなかった出来事がある。かつてISI/Thomson Scientific社が科学諸分野における日本の最高被引用数研究者たちにISI Citation Awardを授けていた。2000年に、私は化学分野から選ばれて他分野の約20名受賞者たちとともに式典に出席したが、そこでいささか違和感を覚え始めていた。もともと「授賞」とは、社会や特定の組織において上位者が下位者に対して、その存在意義や活動目的に照らして続けてきた努力に報い、また功績を称えるための行為である。学校では校長が生徒に、会社では社長が社員に賞を授けるもので、その逆はありえない。
では、いったいこの商業情報機関による顕彰の趣旨は何なのか。私を除くとしても、これらの代表的科学者の研究成果の卓越性、学術界への献身については、すでに十分に敬意が払われてきたではないか。専門家による科学哲学的考察を避け、わざわざ機械的な自動集計値をもって追認して称えることにいかなる意味があるのか。むしろこの顕彰は企業戦略の一環であり、科学知性の名を借りて「専門集団迎合的」な統計値の信頼性の認知を図るためではなかろうかと勘繰っていた。
論文を柱とする学術情報の本格的な商業化は20世紀半ば、Robert MaxwellによるPergamon Pressの創設(のちにElsevier社に売却)に始まる。私も化学分野で当時新鮮だった同社発行のTetrahedron誌などに助力したので、そのお先棒を担いだことになる。この延長線上にある被引用数利用は、後の研究社会の格段の拡大とコンピュータ技術の発展に伴うものであり、この先見的な独占ビジネスは実に見事に成功を収めた(例えば、Clarivate社の年間収益は12.5億ドル)。現在、対抗しうる非数値的な指標はほとんど存在せず、個人の論文発表、成果の査定、そして学術・科学技術施策に至るまで、強力かつ「循環的」に差配するに至っているが、果たしてこれでいいのか。研究界における行動規範に影響を及ぼしていることは明らかで、近年の各種の研究費申請者、顕彰候補者たちの論文目録には、しばしば誇らしく“high-impact factor” 科学誌の論文が並び被引用数まで付記されている。
数値至上主義は、今日のデータ駆動型社会における学術、教育、行政、さらにその周辺のあらゆる分野に着実に浸透している。「サンフランシスコ研究評価宣言(DORA、2012)」はこの不寛容な客観的統計値の個人評価における誤用を強く戒めたが、あれから10年、いまだに日本の研究社会では信用性が高く、採用、昇任人事においても、依然この商用論文データベースの実体なき統計値に判断を委ねがちである。一方、海外においてはむしろ共同研究などを通して候補者をよく知る研究者の推薦書や専門分野における評判、つまり信頼できる人の意見を重要視するという。労働提供者ではなく教育に携わる人たちだから当然ではないか。
コピー文化を排除したい
この状況の中で周辺の評価に携わる人たちはこう嘆く。「理工系、生物系など自然科学はまあいいのです。人文・社会科学系が困るのです」。冗談ではない。いかなる分野であれ数量評価への依存は、学界の責任放棄そのものではないか。学術の本質を理解せず、評価の外形的数量化を強要する政府官庁の無神経さと、疑うことなく唯々諾々とそれに追従する学界や研究社会の精神の衰退がこの傾向を助長している。再考と大奮起が望まれる。
目利き不在が、コピー文化をまん延させる。生まれたばかり、完成度の低い本物よりも見た目の良いコピーを早くつくったものが高く評価される。合法的なコピーや転用、極端には盗用やねつ造によって、もっともらしいものが出来上がり、その結果量産可能、商業化も可能になる。残念ながら、これが近年の世界の実情であり、真善美に創造的な本質を求める芸術家、作家たちは虚しさに痩せ衰える。我が国の若い人には、科学研究においても安易なコピーは排除すべき邪悪であることを知ってほしい。
現存のパラダイムへの挑戦は困難である
あまりに多くの人が、自らを顧みることなく安易に既存のパラダイムを打破しろという。しかし特別な才能に恵まれた科学者は稀であり、他分野においても同様に現実にその壁は厚い。進展著しい人工知能の活用は当然のことながら合理的なアプローチだけでは困難で、むしろ偶然に訪れる幸運の機会を見逃さないことが大切であろう。研究者にはその兆しを吟味する余裕、社会には研究活動に対する寛容と忍耐が必要である。
現役の研究者が信奉する高いインパクトファクターをもつ科学誌は多数の流行分野の研究論文を掲載する一方で、過去にあれほど多くのノーベル賞級の創造的研究論文を拒否してきたのは何故だろうか。思想なき大衆研究社会の意見に信頼性が欠如する一方で、一流と言われる専門家たちの判断もまた万全ではない。ここでも自己の能力、価値観におごりがあってはならない。
例えば、今回のCOVID-19パンデミックの中、ウイルス感染判定の主役を務めるのは、K. B. Mullis(1993年ノーベル化学賞)によるPCR技術である。しかし、この発見に関わる1987年の投稿論文はNature, Science両誌から拒絶の憂き目にあっている。そして後にMethods in Enzymologyに掲載された。また、近年脚光を浴びるゲノム編集技術の発見には多くの「歌わぬ英雄(unsung heroes)」が存在し、公表の経緯についてもさまざまな見解がなされている。なぜにCell誌は2012年、V. Siksnys(リトアニア、ビルニウス大学)のCRISPR-Cas9論文を査読にも回すことなく不採択にしたのか。続いて全米科学アカデミー紀要への再投稿、審査が進行する中で、2ヶ月遅れでScience誌に投稿されたE. Charpentier(スウェーデン、ウメア大学)とJ. Doudna(米国UC バークレー校)の論文は早急に採択されて学術的優先権を認められ、2020年のノーベル化学賞受賞へとつながっていった。なお、2018年のKavli 賞がSiksnysによる独立の発見の意義を明確に評価したことは、科学界の健全性維持の証である。
これらの出来事に対する出版社の説明はもちろんない。しかし当該論文の専門家審査による過程を含め、回避し難い定説権威主義の罠が存在したに違いはない。研究成果審査が「異端審問」であってはならない。ガリレオ・ガリレイの地動説「それでも地球は回っている」とはいかなくとも、現実にはパラダイムの転換は困難を極める。そして大事な科学的知見こそ真価の定着には時間がかかる。かのマックス・プランクはこう言っている。「新しい科学の真実というものは、反対者を説き伏せ、光の輝きを見せることによって勝利するものではない。むしろ、彼らはやがて死んでいき、代わってそれに精通した新たな世代が成長するからである」と。創造の重要性については全ての科学者が同意するにもかかわらず、その集合体である現実の科学界はなぜにこうも保守的なのだろうか。まさに先に述べた現代人の「自己家畜化」、つまり過度な分別力の尊重の結果であろう。
研究社会の確信ある自己評価の復活を願う
人物評価はもとより、研究評価を正当に行うことは容易でない。研究者と価値観を共有し得ない行政、ビジネス界が理不尽に介入して科学精神の営みの優劣を判断することは傲慢であろう。それでも「国の科学力強化」のために評価制度は不可欠という。ここは理解できる。しかし、その指標(あるとすれば)の向上が目的化し、対象に不毛の競争を強いて疲弊させる結果、意図に反して駆動の原動力を失うならば本末転倒ではないか。客観と主観のバランス感覚、できるかぎり包括的な認識が必要であるが、そのためにまず科学社会、特に大学人が根拠不全な統計数値依存を脱し、自己決定権を奪還することが不可欠である。自らが主体的に知恵を結集して互いに納得、信頼でき、社会の理解を得る評価システムを編み出すことだ。さもなければ、科学の進歩と国力再生は大きく滞ることになる。