2022年9月16日

(51)不寛容な学術研究の評価 ― ある科学者の想い(その2)

良い学術研究とは

多くの大学人は時代のパラダイムに沿って研究する。しかし、ここで生産される知識の多くは科学の進歩に貢献しても、変革をもたらすことは稀である。良い研究とは方向を転換する可能性をもつものである。ここでは借り物ではなく独創性が求められる。端的に「驚き」である。しかし、ただ新しければ良いのではなく、多くの人が信頼、納得する深さと普遍性がなければ評価は高くない。換言すれば「事実の発見」とともに「価値の発見」が大切である。結果的にはいかに科学的、技術的、さらに社会的に波及効果が大きかったかが判断基準になる。さらに、今日的には雇用の創出をも視野に入れたい。しかし、この道は長く実際これらの影響を直ちに見通すことは不可能に近い。

個人に対する評価

評価軸は多様であるべきであるが、さらに研究内容と人物の評価を混同してはならない。教学の府は多様な価値観、能力を持つ人を必要としており、各人がもつ一定の承認欲求を損なうことがあっては、組織は成立しない。画一的計量が可能な論文数、被引用数、特許件数、外部資金獲得額などの偏重は多くの人にとっては個人否定につながり、必ず問題が起きる。多大の時間を要する影響力ある著書や教科書の出版はより大事、努力を多とすべきである。評価圧力による論文生産偏重、教育軽視が続けば大学は形骸化する。有力な国際学会への招待も指標の一つだが、招待受諾の件数よりも辞退した件数を数える方が有効ではないか。レクチャーシップ授与、〇〇賞受賞、△△メダル授与、年配者にとっては名誉学位授与、名誉教授称号の授与、アカデミー会員選出などの栄誉もあるが、顕彰は競争の結果ではない。あくまで受動的であって研究者に強いることではない。

一方で、科学の発展と健全な教育のためには大部分を占める平凡、しかし誠実な研究者の役割もまた無視できない。いたずらにテイラー主義的な数値獲得競争を煽り、心理的に消耗させることがあっては人間組織の基盤は崩壊する。決していわれなき人格否定があってはならない。

科学力の強化には大学院教育は最重要である。直ちに評価はできないが、どれくらい立派な後進を育てたのか。small science分野における筆者の観察を付け加えれば、有為な人材はしばしば良き先生(mentor)の放牧的、自学自習の環境から生まれる。また逆説的だが反面教師との不運な遭遇が自立の契機となることも少なくない。若者の批判精神を刺激し、新分野への早期転進を促すからであろう。一方、有能で効率的な研究責任管理者(supervisor)のもとでは論文生産的ではあっても、長期滞在すれば若者の成長は阻まれる。大学における指導者はprofessorであり公的研究機関、企業研究所のプロジェクト達成を請け負うdirectorとは異なるはずである。我が国の教育研究体制のあり方とその評価システムが見逃している点である。

人は万能ではない。大学教員の基本的職務は研究教育であり時間には限りがある。それ以外の社会活動なども考慮されていいが、本来の責務からの逸脱によるマイナス要因にも留意すべきだ。大学組織として有能なURA(リサーチ・アドミニストレーター)などを活用して大学教員が教育研究に専念できる良質の時間を十分確保し、個人の特性を最大限生かさねばなるまい。

優勝劣敗、Winner-takes-allは米国由来の文化であるが、学問の府では尊敬される人だけでなく、感謝される人も大事にしたい。学術の進展、科学力の強化には「独創」とともに「共創」を求める時代が訪れた。日本の大学は「良い研究、良い教育」に向けた協調、連携の場であってほしい。ここにぶれずに貢献する人を高く評価すべきであると思う。

成果の相対評価よりも人物の絶対評価を

評価者は被評価者たちに権力を行使するが、見識と謙虚さを備えていなければならない。そして共にリスクを分かつ姿勢が求められる。つまり、姑息な相対評価ではなく科学や学術の本質的観点に立ち、明確に絶対評価すべきだろう。客観性や公平性の名の下に、安易に一点刻みの数値分析に逃避してはならない。それは評価者ではなく分析家や審判員の仕事である。評価者と被評価者側、時には見識ある第三者を含めた緊張感ある継続的な対話が状況を改善するだろう。

ひるがえって我々が敬愛する先人たちは、経済的に困難な状況の中、無の状態から誠実に学問の道を歩み続けた。のちに世界が認める輝かしい業績の萌芽期の研究活動を、我が国は一体どう評価してきたのであろうか。昨今のような数値化管理による評価システムからは絶対に生まれなかったことだけは確かである。私には論文成果よりも人そのものを信頼してきたように思えてならない。

私は幸いにして国内外の多くの卓越した研究者に出会うことができた。人柄はさまざまであるが、当人の振る舞い、周囲の取り扱いを見れば直ちに存在感がわかる。コンピュータは不要である。そもそも、ランキングとは順番をつけることではなくて「格付け」である。どうしても数値化しろと言われれば「桁を見る」、つまりログ(log)スケールで比べるべきであろう。

今日の問題点

大学は社会の中に存在する。それでも学術研究とは本質的に真善美を追求する精神活動であり、まずは個人の静謐な思考に導かれた「内なる確信」に基づいて行われる。個人の知性と感性、そして目的達成意欲によって支えられている。ゲーテは言う。「高度な意味で発明、発見と名付けるものは全て、秘かに長い間培われ、思いがけなく稲妻のような速さで実りある認識に至る真理に対する独自の感受性の意味深い発露であり、証である」と(M. Wolf, 村瀬有)。昨今の学術界はこれを阻む超並列的な喧騒の生活様式、優劣の数量的比較の呪縛、そして精神文化の衰退の中にある。ここから新たな思想は生まれ難い。

諸外国と異なり、我が国の社会制度は既成分野で均質な研究者を育成し、画一的な手堅い規格品をつくるように組織人を教化してきた。意図せずとも国民を自己家畜化(E. F. von Eickstedt, 尾本恵市)へ誘導しており、若者の生来の野生を損なってきた。科学力の再生のためには、是非とも自学自習、自問自答を促し素朴でいい、前衛的な創造品をつくるよう鼓舞しなければならない。

研究者の思い入れ

研究評価の中心に位置するのは発表論文(作品)である。しかし、いったい何処に着目すべきなのか。外形的な論文数は研究者個人またはグループの生産エネルギーの表れであるが、学問的な質とは無関係である。優れた研究者は創造性を尊び、生産量は二義的である。もちろん科学的意義を重視するとするが、それも主観的であるから話は難しい。

かねてから論文の質については、著者自身の主観と第三者の査定の間に大きな乖離があると感じてきた。真に創造性を求めるならば、個々の研究者の「思い入れ」を最大限尊重する以外に道はない。陶芸の名人は、たくさんつくった陶器の中から気に入ったものだけを残して他は廃棄する。一般人が見て十分に価値があっても、である。画家も同じ。習作はたくさんあれども人の目に晒すものはごく一部。同じく誇り高き科学者の良心とはこういうものであろう。

個人の発想か、グループの総合力か

分野により事情が異なるが、昨今国際的にも個人の業績評価が積分的になっていることを懸念している。実際に個人の前衛的発想よりも、大規模研究グループの目的指向型活動が過大に評価されている。この傾向は研究社会における強大弱小の分断と、強者たちの緊張感の欠如、堕落をもたらす。特に若手には「自分の生き様をこの一編で見てくれ」の気概が、学界にはそれを受容する度量が欲しい。実は、筆者も生涯の多数の論文の中から最高のものを一つ選べと言われても困惑する。その平板さは全く恥ずかしい限りである。

いずれにしても主観であれ、客観であれ一定水準に満たない論文はむしろ「研究廃棄物」であろう。研究には多大な資金と人力が投入されるが、さりとてその説明責任、つじつま合わせのため廃棄物の量産を強いれば研究社会は必ず汚染、劣化する。由々しきはエントロピー増大である。この問題は、近年の人間の処理能力を超える量の情報発信、特にSNSによるおびただしい真偽不明の情報の拡散(インフォデミック)とも軌を一にする。行政だけを責めているのではない。種々雑多な商業出版社の思惑と結託する研究社会の自治の欠如の結果でもある。反省しなければならない。