2022年7月28日

(49)明日の大学院の「あるべき姿」を考える

我が国で久しく嘆かれる科学技術力の衰退は、決して外国の所為によるのではなく、自らが招いた危機である。だが悲観することはない。この度政府は大学の科学力の抜本的強化を目指して10兆円規模の「大学ファンド」を創設し、これを用いて世界と伍する研究大学を目指す「国際卓越研究大学制度」を発足させる。本年5月にはこのための法律も成立した。この機会を逃してはならない。これから真に国際的に卓越した研究成果を創出し続けるためには、不退転の決意で実効性が高く、意欲的な事業・財務戦略、さらには自律と責任ある統治体制を構築すべきである。

ひるがえって、我が国の大規模総合大学は、「学問の自由」を曲解して法人としての統治が不全である。この機会に、大学の中核的組織である大学院に焦点を絞り、あるべき姿について考えてみたい。以下はもはや思考実験ではない。国際卓越研究大学を含めた全ての研究型大学にあてはまる本質である。まずは大学たるものの矜持と危機感が不可欠だが、ごく小規模でいい、確実に成功を収めたのちに広く展開してほしいと思っている。

学部と独立した大学院を実現するために

筆者は20年以上にわたり大学院に関わる意識改革の必要性を唱え、とくに学部とは完全に独立した大学院の設立が不可欠であることを主張してきた。なぜなら、研究型大学における大学院とは、真の高度人材育成の場であるとともに現実に最先端研究の中核であり、その活動こそがまさに国力の源泉であるからである。大学院はもとより学術の府であり、外部権力の介入を排し、自由な発想に基づき研究教育活動を営むが、一方でその成果を現実社会で最大化すべく、組織として学際的、国際的、そして諸々の社会セクターとの機能的連携を促進しなければならない。

今日我が国に求められる大学院は、明治以来踏襲してきた高等教育機関とは異なり、より開かれた価値創造のためのエコシステムである。むしろ、従来の6-3-3-4教育制度の延長というイメージは、とかく学生の知を狭め、組織が目的とする機動的活動を損ないかねない。法人間の競争を促すのであれば、大学により自主的かつ特色ある運営を委ねるべきであろう。学術分野は理工系、社会科学系、人文系など広きにわたるが、学位授与に要する年限はその特徴を踏まえて当然異なって良い。修士課程、博士課程の目的は「専門職大学院」とも関連して別途考えるべきだろう。筆者はこの改革の全面的展開を望むが、まずはこの機会に、理工系から本気で学部から独立した大学院設立が早々に実現することを願っている。

何が根本的な問題なのか

科学は普遍的な営みである。科学力強化の方策は、流動する社会との関連から複雑を極めるが、政府は単純明快、長期にわたりぶれない基本方針を提示すべきである。着実な公的研究教育投資、基盤整備が求められる一方で、大学自身がなすべきことの要諦は、(1)真に創造性ある、そして教育に情熱をもつ教員の登用と、(2)未来社会を担うに相応しい優れた学生の獲得、そして(3)教員、学生を問わず大学人に自由と十分な時間を与えることである。まず、あらゆる妥協を排して、この当然の事項を集中的に実践すべきである。端的に、これらの点における長年の不作為こそが、我が国大学の不振の大きな原因である。

研究教育投資の拡大は必要だが、それだけでは不十分である。選ばれた彼らが本来の活動に専心しない限り目標達成はありえない。社会からの要請も明確に、高度な研究成果の創出と有為な学生の育成・輩出であって、それ以外は付随的、派生的な注文である。

大学院教員に自由と時間を

大学研究者の活動は内在的動機により駆動される。近年の大きな問題は、発表論文指標などの数値測定-結果公開-報酬(懲罰)システムというTaylor主義的な画一的評価・管理制度がもたらす教員の視野の狭窄、そして明らかなリスク回避傾向である。動機不整合を生じる業績評価制度の中で、彼らは精神の解放が不十分、あるべき長期展望と挑戦性を失っている。

学術環境の整備が不十分である。大学人にとって最も理不尽なことは、日常的に課される膨大かつ瑣末な非学術的定型業務である。多岐にわたる学内外の会合、中央省庁の委員会などへの出席、誰も読まない研究教育報告書提出などに忙殺されるという。行政的な「説明責任」事項として強要されると聞くが、余力のない研究者当人のみならず、所属組織の本来の機能さえも損なっている。有能で責任感ある人たちほど、この非生産的、非創造的業務に多大な時間を収奪されるという。特に、本来の能力を発揮できない若手、中堅教員の悲鳴に耳をかたむけねばなるまい。大学外の方がたはこの非合理的現実をご存知だろうか。

もとより研究者は、何はさておき、思い入れのある仕事に集中してこそ成果が上がる。未知、不可能への挑戦は厳しく、創造は「狂気と正気の間の細い道」を歩んでこそ生まれる(梅原猛)とも学んだ。大学院生たちも先生のその姿勢に正対して初めて成長するはずであるが、残念な状況にある。

名ばかりの「大学院教授」

諸外国とは異なり、日本の有力大学の教授は、〇〇大学「大学院教授」と大げさな職名を名乗るが、実態はその名と大きくかけ離れている。本来果たすべき職務を放擲(ほうてき)してまで深く学部運営に関わるが、長きにわたり両組織は馴れ合いの関係にあり、教員たちは不思議と思わないようである。

例えば、国民的大行事である学部入学試験は、中等教育の実情をよく知る専門家が行うべきであり「大学院教授」の本務ではないはずである。典型的な専門バカである筆者も昔を思い出して、高校教科書を読み「間違いなく無難な」筆記試験問題を作ることは出来ても、青年の将来の成長性を見抜く力は持ち合わせていなかった。これでは志を抱く高校生諸君に責任を果たせず、誠に申し訳ないことであった。

学部教育は難しい

決して学部教育をないがしろにするのではない。ただ大学院、学部のもたれ合いは共倒れを招くので、この4年間の教育は、全面的に他の大学や有能な「非大学院教授」に任せてはいかがか。

そもそも学部教育の目的は大学院入学の準備ではなく、知の根幹づくりである。時代は移る。筆者の専門分野における「一般化学」「基礎化学」などの内容、水準についても、昨今の学問の広がりや学生たちの立場、諸外国の高等教育の状況を踏まえて見直しが求められる。学内の検討とともに、広く社会を俯瞰する日本化学会の専門家たちの助言も必要ではないか。一考を願いたい。

それに先駆け、まずは健全な人間性と知性を育むべきであり、専門分野に偏らず、より総合的ないし学際的なリベラル・アーツを重視すべきであろう。夢おおき20歳くらいの若年層の教育は容易でない。実際に相当数の私立大学で、建学の精神などに基づいた立派な教育がなされていると理解するが、一方で国立大学の理工系の「大学院教員」人事はおおむね論文業績に基づくため、若手教員には失礼ながら高水準の学部教育を行うことは荷が重いのではないだろうか。万能の人はおらず、両刀使いの達人、教養あふれる人も少ない。むしろ、自らが望む高度な専門研究、大学院教育に徹してもらうことが最大の成果を生み、期待される社会貢献につながるはずである。

繰り返すが、思い切って制度を簡略化し、不合理な慣習を改めて、教員に良質な時間を与えるべきである。もちろん組織の良識ある一員として、研究偏重、過度の自己中心主義は否定されるべきである。従来、筆者を含めて不条理に従順な多くの教員が、忍耐強くこの状況に対応してきたが、異なる環境で育った外国籍の有力教授に耐えられるわけがない。

外国で活躍する日本人研究者

逆に諸外国の大学は優れた日本人研究者にとっても適切な環境を提供してくれる。20世紀の半ば、まだ我が国科学界が困難な状況にあった時代に多くの先輩、友人たちが米国に移住、著名な「大学院」で活躍して世界を先導する研究成果を生み出し、また有為の後進をも育成したことは周知のことである。

近年でも、若い研究者が海外で活躍する。例えば2020年度日本学術振興会賞受賞者(45歳未満)25名のうち6名が欧米の大学に所属する。また日本学士院学術奨励賞受賞者6名のうち半数の3名が外国大学在籍者である。彼らの専門能力と高さもさることながら、良き環境、特に十分な自由時間を与えればその才能は一挙に開花することの証左ではなかろうか。

研究者の高度な能力は基本であるが、もとより「論文力」だけでは国家、組織の「科学力」の強化は難しい。大学が掲げる目標実現に向けた円滑な組織運営のため、高い専門性をもつURAの充実など格別な工夫が求められる。多様な職能が求められようが、数量的にも京都大学における教員(約3,500名)一人当たりの非教員職員数(約4,000名)は1.1人に過ぎず、米国カリフォルニア大学デービス校、米国南カリフォルニア大学の3.5人に比べて圧倒的に少なく、ドイツのミュンヘン大学の1.4人、英国エジンバラ大学の1.3人にも及ばない。

教員人事の透明性の保障

現在の日本の有力大学は、国内外の多くの有識者、格付け機関が指摘するように、国際的に著しく魅力を欠く。これまで大学の命運を握る教員人事があまりに安易に推移してきたことが一因と考える。今回「国際卓越研究大学」の発足を機に、その名に値する格別に創造的な研究者の登用、昇進を行うべく、人事プロセスを明文化し、実効あるものにする必要がある。大学としては、当然、この世界水準の教授、准教授、助教の全てが自らの考えに基づき完全に独立して研究、教育しうる環境を整備する義務を負う。

世界に伍する大学はそれぞれに特色ある理念と使命を持つ。その基本方針に基づき定められた将来計画を実践する教員の人事は公正でなければならず、また労力をかける大作業である。例えば、研究教育担当副学長(provost)や研究科長、学部長(dean)などが司る人事委員会(appointment committee)が具体的な分野を設定した上で、学内に設置した専門家組織(faculty search committee)が世界中から可能性を探る。ここでは国際的人脈をもつ主査が先導する必要があろう。規定に則り公募や内部提案を行い、有力候補者の能力や実績について相当数の外部者の意見を聴取して(筆者もかつて外国大学のこの作業に随分と関わった)顕著な研究教育成果が期待できる人だけを選ぶ。この提案理由は人事委員会に報告されるため、利益相反を生じかねない内部有力者の恣意が入る余地は極めて少ない。もちろん、採用候補者には経済的処遇、研究環境等の条件を提示し、折衝する必要があるので、最終決定権をもつのは学長である。

若手の人事こそが生命線

大学には明確な人材育成計画が求められるが、特に若手採用プロセスの是非が組織の浮沈を決める。「学術の府」におけるこの人事は、一定の発足環境を整えた上で「経験に乏しい、しかし大学の将来を担うはずの若者を登用して、十分な自由を与える」ことを意味する。安直であっていいはずがない。諸外国では論文成果だけでなく、海外経験や国際的存在感も踏まえて期待の人材が登用されるが、それでも運、不運があり、見込み違いで十分な成長が見られないことも少なくない。だから、テニュア・トラック制度がある。テニュア(名誉職位も含めて終身在任権)の獲得の成否はあくまでも能力、業績評価に基づくものであって、この非テニュア職位は、我が国の評判の芳しくない「雇い止め」可能な任期制の助教、准教授とは異なる。だからこそ、自立と自律、そして環境整備、周囲の援助が大事である。

新規採用の若手教員は、まず内部テニュア職への昇任を目指すが、むしろ有力研究者のほとんどは他大学による引き抜きの対象になる。従来、日本の大学では同一大学における昇進を名誉としてきたが、これからの若手研究者はこの国際頭脳循環に加わることになる。だから新たな「国際卓越研究大学」はこの争奪戦に耐えるべく、内外によほどの魅力を発揮しなければならない。他大学に移らない限り昇格のないドイツでは、有力大学からの招聘は実績の一つに数えられ、しばしば教授たちの履歴書にはその旨が記載されている。

大学院生に生活費支援を

諸外国では「教育は社会のためにある」との認識である。しかし、我が国では博士課程大学院学生が著しく減少する中で、その貴重な若者たちの多くが生活に苦しんでいる。理不尽にも、学外の長時間アルバイトなどで、本来なすべき活動に専念できない。これでは海外頭脳流出は必然ではないか。

大学院学生無くして学術研究はあり得ない。欧米やアジア諸国に倣い、大学はこの社会の宝物に奨学金(scholarship)を給付して授業料を減免し、併せて指導教官は自らの研究教育支援に報いる対価(research assistantshipないし teaching fellowship)として、適正な生活費を付与しなければならない。現在の日本の由々しき状況は、外国人には理解できない人権問題であるが、安易に政府に頼るだけでは解決は不可能である。

大学院生は自分で道を拓け

「国際卓越研究大学院」では教員はもちろん、研究力の中核を担う学生も世界水準を満たされなければならない。筆者が感じる日本の学生の最大の問題点は自律性の欠如、特に進学の内在的動機の弱さである。

一度しかない人生である。社会的慣習に教化されて歩むことはまことに愚かである。だが日本の若者たちは、画一的、受動的な入学試験時の偏差値をもとに大学や学部を選択させられ、学部4年の卒業研究などでたまたま出会った教授の勧め、いわば教化を受けて同じ大学の大学院に進む。これでいい訳が無い。なぜなら、いかに有力な大学、高名な先生であろうと、その道が唯一最良である確率はあまりに低いからである。今まで慣れあった研究室仲間と共にいると安心である。しかし、若者のもつ才能は外部刺激を受けてこそ大きく開花する。大学学部卒業、大学院進学を人生の大きな節目と位置付けてほしい。今一度広い世界に目をむけて、自らの価値観を相対化し、改めて確信を持って新たな課題、分野に挑むべきである。これが世界に共通する若きリーダーたちの出発点である

だから必要な人材が払底する

我が国の大学ではこの内向きの慣習により優秀な学生が限られた「伝統分野」の枠に囲い込まれる。この自律性を欠く進路選択の結果として、あらゆる「新興成長分野」において人材が不足していることは、学術に限らず広く国家的に大問題である。今日の人材不足は10−20年前の指導者層の自己本位、保守的な教育方針に起因するが、もはやこれを繰り返すことは許されない。

大学院博士課程への進学者数の減少を憂える声も大きいが、我が国は紛れもなく著しい人口減少に向かっている。ここに無理に数合わせに走れば、質の低下は必定である。自国の学生を徹底して鍛えることは不可欠であるが、人材の供給源を国内に限ることは明白に非合理的、明日の敗北を意味すると断言できる。

国境を越える若者たち

他方、世界においても、各国ともに優秀な学生数は限定的であり、国際的に厳しい人材獲得競争の最中にある。だから具体的には、我が国にとって、国境を超えて移動することをいとわない世界中の450万人の留学生から、いかに優秀な人材を誘致するかが主要国としての存続の鍵となる。このロシアのウクライナ侵攻の最中でも、両国の若年層の外国移住は急速に進んでいる。有事は大きな機会でもある。なぜ、人材不足の日本科学技術界はこの流動的状況に手をこまねいているのだろうか。COVID-19の蔓延は言い逃れに過ぎず、全く理解できない。

かつて1989年にベルリンの壁が落ちた際にも全く消極的で、東欧、ソ連の有能な研究者を獲得できなかったことを猛省すべきでないか。筆者は、1990年代半ばに、東西統一の結果経済停滞に陥ったドイツの大学、研究所から、多くの優秀な若者を博士研究員として受け入れ、さまざまな成果を上げることができたことを思い出す。

世界の起業大国に学ぶ

国家、組織、個人の決意が未来を拓く。日本の生存の条件は何か。本気で科学技術イノベーション立国を目指すなら、その代表であるイスラエルに学んでみてはどうか。同国は政治的、軍事的には問題の多い国であるが、その自ら生きる気概に習うところは多い。貧しい時代に育った私は、この国を率いたシモン・ペレス元大統領(ノーベル平和賞受賞者)の言葉に心を打たれる。「新生イスラエルをつくる種は、2千年の流浪を強いられた人びとの想像の中から生まれた。荒涼たる砂漠から、我々は欠乏というものの豊かさに気づいた。我々の自由になる財産は、人的資本、開拓者だけである。必死に働き、自分自身を厳しく律し、しかし、夢を見て生まれ変わっている」とする。一見豊かに見える、そして平和な日本に育った若者にはどう聞こえるのだろうか。

イスラエルはフランスやインドに似て、数学を特に重視する教育国でもある。厳しく勤勉に育てられた男子には18歳から3か年、女子には2年足らずの兵役が課せられる。我が国には全く馴染まない制度ではあるが、私の友人である大科学者はこの「通過儀式」に強く肯定的で、この機会に若者たちは最先端の科学技術に触れ、さらに社会における連帯、共同作業の大事さを実感するという。多くの若者がこの社会経験を通してそれぞれに生きる道を考え、動機を得た上で、大学に学ぶことになる。世界のユダヤ系人口は0.1%に過ぎないが、ノーベル科学3賞における割合は実に20%に上る。たくましいイノベーターが多数輩出するのは必然かもしれない。

悪名高いinbreeding、家元制度を避けるために

今後の科学技術の発展には、多様な優秀人材の集積と「価値の共創」が鍵となる。もはや異分野連携、国際協調は不可欠である。その実現のために、我が国は、覚悟して「世界と伍する大学院」をつくる。現在予科としての位置付けである学部からきっぱりと分離、独立し、積極果敢に多様かつ最も志ある学生をたくましく育成し、併せて国内外から獲得しなければなるまい。自国の存続のためであり、もはや言い訳は無用である。

この分離過程によって、現在の国内学生は18歳時の入学試験で得た大学居住権は4年後には失効するが、それがなぜ問題なのか。むしろ同じ大学への滞留は、しばしば期待される成長を阻害する。欧米先進国、躍進するアジア、世の中には、広く有能な若者を受け入れる特徴ある大学院はいくらでもあり、心配は無用である。彼らの飛躍と成功に必要なものは自身が抱く理想であり、新天地はその実現の機会を与える。若ければやり直しも効く。彼らが多方面で活躍すれば、外国における日本国への信頼感も必ず高まるであろう。

退路を断って改革を実現するために

「国際卓越研究大学」の発足は大学改革の切り札である。我が国は不退転の気概を持ち、この機会を最も有効な形で使わねばならない。私は悪しきinbreedingの慣習を避けるため、これを引き金として、日本国内学生の卓越大学院入学時を早くても「学士の学位取得の翌年の9月」に設定することを提案したい。そして、この間の16ヶ月の意義ある活用が鍵となる。例えば、一定の生活支援を受けつつ、特別な技能の習得、海外留学、国内研修、産業界や行政、NPO、NGOでのインターン、諸々のボランティア活動などで社会経験を積むことを勧める。若者はそこで志を育み、自ら進むべき道を決める。個々の「国際卓越研究大学」は当然、入学資格検定にこの経験を十分に加味することとしたい。学部時代に異なる分野を修めた学生も大歓迎ではないか。この選考過程には責任ある推薦状が求められるが、その信頼性は時を経て定着するはずである。

我が国の若者たちは、実社会において異質の人と交わりつつ、改めて自らの将来的役割を自覚する機会になるはずである。また、9月入学は海外大学からの多くの学生の応募を促すことになるので、人材の多様性拡大に大きく貢献する。この観点から、大学側としては現在の書面やWebを通じての画一的募集では全く不十分である。オープンキャンパスや事前招聘などの手法を駆使するとともに、戦略的に外国諸機関と連携して日本社会の寛容性や大学の際立つ魅力を説得し続ける必要がある。

リーダーの養成には、相当の投資を必要とする。しかし国家の存続の根幹であることをご理解いただき「社会総掛かり」の支援をお願いしたい。奨学金の免除と生活支援のための十分な給付金の賦与は不可欠条件であるが、「国際卓越研究大学」では全く問題はなかろう。「大学ファンド」もここに積極的に活用してほしい。

まさにこれは国力回復の絶好の機会を提供する。大学には「稼ぐ力」などを競うのではなく、是非とも世界から尊敬される研究教育組織の実現に邁進してほしい。結果として、全てのことが好循環に転じることは間違いないからである。