(48)大学の研究評価 -「定量的論文指標」偏重でなく「学術的視点」を尊重したい
科学技術基本法の抜本改正にみられるように、国力の源泉としての科学技術には期待がますます高まる。一方で、昨今の衰退傾向への危機感もこれまでになく大きくなっている。是が非でも「科学研究力」を強化しなければならず、そのためには大学や公的研究機関、研究プロジェクト、さらに個人の研究活動の評価が大切である。ここまでは全く問題ない。しかし、評価の客観指標として発表論文の被引用頻度を用い、これを研究費の効率的配分や個人研究者の勤務評定、処遇に反映させるという。実際に、国立大学法人の活動の基盤を担う運営費交付金の配分にあたり、成果や実績を示す指標の一つとして、「運営費交付金等コスト当たりTOP10%論文数」の考慮が明示されている。果たしてこれが科学研究力の向上にどれだけ意味をもつのか。交付金を受けるのは大学であっても、論文生産に直接的にかかわるのは、教員、大学院生たち個人である。この安易、短絡的な行政権力行使が彼らの行動規範を歪め、結果として学術の府としての大学に大きな負の影響を与えることは間違いない。
1点刻みの「定量的点数主義」入学試験の客観的公平性を信仰する若い研究者たちは、この経済的むち打ちへの対応策をうまく講じるであろう。しかし、それは学術研究の本筋ではない。真に創造性に賭け「ひとり荒野を行く」気概ある研究者たちはおそらく憤慨するはずである。国の宝物である本物の研究者を失ってはならない。大学における評価の視点は見かけの費用対効果の経済効率ではなく、学術研究の質の維持、向上に向けられるべきだからである。
世界の動きは
「学術研究」のあり方は、企業、公的研究機関の目標必達の「プロジェクト研究」とは異なる。今回の評価法の個人への直接的、間接的適用は、学術の深化、進展と教育の振興を旨とする大学に大きな打撃を与える。この手法が科学精神の尊厳を損なわない、倫理の荒廃を招かない保障はあるだろうか。だから、米国の細胞生物学会は、すでに2012年の研究評価に関するサンフランシスコ宣言(DORA)において、数値評価は個人には適用すべきではないとした。2015年の研究計量に関わるライデン声明も、10の原則を打ち出しているが、冒頭に定量的評価は専門家の定性的評定の支援にとどめるべきとしている。同年の英国の「評価指標の潮流報告書」も同様の論調で、「責任ある研究評価・測定」という概念を提示している。内容説明ができない数値への依存は無責任である。その他多くの公的な集会などの提言を受けて、欧州の大学でも個人評価への適応は正式に禁止されつつある。先頃話した米国の著名な大学の友人も、人事考課において論文被引用数や研究費獲得額を口にすることは一切ないとしていた。さらに、近年発展著しい中国においても、2020年、強力な指導力をもつ教育部及び科学技術部が科学的精神を重視すべく、従来の大学における過度の論文指標の使用を規制し始めた。欧米はじめ、多くの主要科学国が、累積する過去の不具合を反省し、数値評価への依存から脱却する方向にある中で、我が国はなぜ周回遅れで拡大の方向に向かうのであろうか。
数値には必ず大小がある。しかし、学術研究においては、成果の優劣を縦に並べて区別するのではなく、横に並べて互いの相違を認めることが大事である。芸術活動におけると同じく、精神的側面も多く含む学術研究の質について「分かりやすい」定量的指標などあるわけがない。分かりたければ、自ら謙虚に勉強し、あるいは見識ある専門家たちの意見に耳を傾けるしか道はないではないか。その上で主体的に判断する。
繰り返すが、大学は「学術の府」である
科学の営みは解放系であり、全ての科学事象は、境界なき3次元空間と過去から未来へと連続的な時間軸を通してつながる。研究の自然界における意味、さらに社会的影響も当然、多岐にわたるため、欧米学術先進国の良識ある大学においては、個人評価はその分野、役割、年齢などによって、多角的な視点でなされている。たとえ研究指向の大学であっても、大学院教育は最重要である。もとより発表論文の質が問われるが、大学はデータ生産、論文製造の工場ではないので、これまた自動的な品質保証は不可能である。
各分野の学科等は自らが定めた特色ある教育研究の実現を目指す。他所から着任し独立したばかりの若手教員たちは、招いた同僚たちに助けられ小グループを運営しながら、前歴を超えて新たな発想による研究に専心する。職位が安定したテニュア教員にはさらに組織運営への貢献も求められる。すべての教員は講義はじめ教育の質を学生たちによって評価されるが、研究については人事案件も含めて、内輪ではなく相当程度、国際的な専門学界に委ねられる。評価軸は専門性や広がり、時間性を勘案してさまざまである。
教員に本来求められるのは、論文業績だけではない。研究には国境を超えた実践、発表の場が必要である。共同体の一員として国内外の研究集会、公開講座の企画、開催に参画し、専門学会や出版社とともに科学誌編集や教科書、解説書(自国語も含め)作成、刊行などへ関与することも大事である。さらに、学術を超えた社会貢献も大切で、行政への提言や産業界との開かれた共同作業は、教育研究の視野を広げ人材育成に資する。卒業生や博士研究員のその後の活躍は逆に大学に大きな恩恵をもたらす。これらの非定型的な外部活動のためには事務体制の機動力の強化などの創意工夫が必要であるが、教員に強制することなく、あくまで彼らの「良質な時間」を十分に確保すべきである。一方で、年齢を問わず教員が論文発表偏重、教育義務軽視で、あまりに自己中心的、内向きに振る舞えば、大学人として明確に不適格であろう。同僚間で互いに特性を尊重し合い、連帯意識をもって円滑な組織運営に関与することが求められるが、「TOP10%論文数」重視の精神的圧力下でまともな環境がつくれるはずがないではないか。
組織の学術力の国際信頼性はいかに培われるか
良い研究大学組織とはいかなるものか。まず、研究面で才能を発揮する教員たちは、それぞれに主要な国際学会へ招待されるであろう。特別に認められた人はその後、学会賞やメダル、財団からの科学賞を受け、著名なレクチャーシップなどで招待され、年を経て他大学から名誉教授(EmeritusではなくHonorary)や名誉博士(Honoris Causa)の称号が授与され、さらには国内外のアカデミー会員に選出されて学界における地位を築いていく。なお、これらはいずれもオリンピック大会などの運動競技とは著しく異なり、同じ条件下に個人が優勝劣敗を競って「獲得」するものではない。顕彰主体者が、定められた規定に基づき内外からの推薦を受けるものの、自らの価値観に基づき審査、選定して「授与」するものである。
研究業績そのものの顕彰は決して数値指標駆動ではなく、あくまで授与機関の主観に基づく。ここで信頼性を維持するためには相当の努力が必要であるが、おおむね説得性は高い。いずれの顕彰制度も研究社会の質を維持し、研究者を励ますためにある。因みに「大きな賞」「小さな賞」という呼び方は極めて不適切である。多様な設立趣旨を確認することが大切で、「大賞」を称えるとも「小さい」として授与側組織や個人の厚意や芳志、また受賞者の名誉を損ねてはならない。年配者であれ若手であれ、受賞者にとっては、趣旨に沿った営々たる努力の結果の認知、これも主観ではあるがありがたい出来事である。
さらに、特定の研究成果というよりも研究者個人の顕彰(対象が課題であるか人であるか、両者は関連するがしばしば異なる)については、人そのものを見る。研究能力、業績に限らず、数値化不能な多様な背景や可能性、独特な人柄さえもが反映されていると感じる。論文数、被引用数などは論外である。世界の学術界からの敬意と感謝の念は、一般に考えられている競争主義からは生まれず、むしろ国内外の協調推進、人の絆により育まれるであろう。
諸外国の著名な大学においては、累積した研究実績の総体とともに、やはり上記の選ばれた人たち(米英では冠教授席を与えられ優遇されることが多く、当人も責任への自覚をもつ)の存在が組織全体の「学術力」の信頼性を保証している。大学にとって発表論文指標などより遥かに大きな財産であるために獲得競争が起こる。そのありようが大学の矜持であり実力ともいえるが、この魅力ある環境が若い人を世界から呼び寄せ、また有為の人材を多方面に輩出していく。ここには個性ある文化(学風)も不可欠である。教員300名程度の小規模なカリフォルニア工科大学があれほど高い評価を得ているのは、“Never take unfair advantage of any other member of the Caltech community” のhonor code(名誉ある行動を定義した倫理的規定)の遵守が徹底されているからではないか。
我が国はどうすべきか。企業や公的機関にたくさんの最優秀な研究者がいるが、大学教授は違う。リーダーを目指す若い教授たちは、単なる研究者、教育者にとどまらず、新たな時代にふさわしい見識をもつ「学者」であってほしい。個々の大学は、行政的に一律的に課せられた短期的なKPIの達成を理由に若い人材の競争心をあおり、消耗させることがあってはならない。寛容と忍耐をもって育むべきである。大学は受け身ではなく、自らの考えで未来社会を見据えた姿を実現する。そのために多様なリーダーを輩出し続ける循環システムの形成を目指すべきであろう。ここに学術外交力の強化は不可欠である。
専門家集団の判断か、客観的数値による分析か
主体的、主観的判断が大事であるとした。しかし、もとより現行の評価制度も万全ではない。近年、研究分野の細分化、さらに我が国においては国際化の不調や学術外交力の劣化に伴い、専門家による業績審査、論文審査(peer review)への信頼が大きく揺らいでいる。視野が狭隘な審査員の主観は受け入れ難い偏見につながるため、多数の目による客観的解析、評価が必要であるという。よく理解できる。
しかし、自動的に得られる論文被引用数だけをもって「価値の代理指標」とすることは不適切極まりない。これは専門家集団迎合的な数値であって、他人の論文を引用する多くの著者たちの見識が、特に選ばれた専門審査員たちの判断を上回るという保証はどこにもないからである。実際に、審査会の主観性の強いしかし信頼度の高いノーベル賞、チューリング賞や、米国科学アカデミー会員選出などの著名な顕彰が、客観的なh-indexなどの論文被引用指数とほとんど関係しないことが明らかになっている(PLOS One、June 28, 2021)。この主観と客観、両者が相関する場合もあるが、それは優れた研究であるから引用頻度が高いのであって、多数引用されたから良い研究であると判断されたのではない。
研究者社会が自ら信頼できる評価制度をつくる
科学者たち自身が、この状況にもっと自律的かつ真剣に向き合わねばなるまい。審査員たちはもっと、自らの価値観に自信をもとう。現実的に目指すべきは“informed peer review”であろう。つまり、入手しうる客観的情報を十分に提供された審査会が高度に専門的な評価を行い、最後に決定権を持つ機関が責任をとることである。現在の不具合は、行政だけの問題ではなく、むしろ学術の本質を深く理解するはずの学術界自身の怠慢、説得力の欠如による。科学の進歩を担う若い人の真摯な視点はぜひ必要である。自立性と自律性の堅持に向けてあるべき評価制度を設計し、後継世代のために覚悟して実践すべきである。とりわけ日本学術会議の広い見識に期待したい。
論文総数や論文被引用数は、研究活動の一面の表現であり、突出した数値は一定の意味をもつ。また、統計的に大学や基礎研究機関の研究生産性や水準と一定の相関関係をもつことも間違いないことが判明した。長年にわたる文部科学省NISTEPの調査研究を多としたい。しかし、両者の因果関係は複雑である。政策過程における評価の論文指標への過剰な依存が、好ましくない組織の画一化、そして学術の多様性、新陳代謝の阻害を招くことは必定である。ましてや、定量的論文指標と学術を超えて社会に変革をもたらすイノベーション、国家経済安全保障、気候変動、環境・エネルギー問題、健康寿命などに関わる科学研究力との相関・因果関係は非常に薄いのではないか。しかし、いかに評価すべきであろうか。考え続ける必要がある。
人的資産の蓄積を目指したい
「科学研究力」とは一体何か。極めて多面的であろう。もしも賢明な政府が、さらに有意かつ測り得る指標を持ち合わせたとしても、その向上を求めて大学の研究者個人に不用意に圧力をかけて、本来の好奇心を疲弊させることがあってはならない。むしろ、創造に人生をかける志ある多様な、とくに若い研究者を登用し、自由闊達に研究に邁進できる場を提供することである。学術の重要性は明白である。評価の視点は論文生産の経済効率(フロー)ではなく、人的資産の蓄積(ストック)であるべきで、短期的な時流に追従することなく長期的展望を持ち人材を成育することこそが、持続的に広義の科学研究力を涵養する要であると考えている。