2021年9月24日

(47)日本の基礎科学力を直視する

新型コロナウイルスの感染拡大対策の是非が社会を揺るがす中で、去る8月10日の文部科学省科学技術・学術政策研究所(NISTEP)の「科学技術指標2021」の公表もまた衝撃的であった。わが国の科学技術力は過去15年にわたって衰退の一途を辿るが、新聞各紙は象徴的に「インドに抜かれて10位」などと報じた。科学技術立国としての生存に関わる問題であり、もはや政府は覚悟していったん敗北を認めてあらためて再起を宣言すべき事態にある。

振り返れば、20年前のわが国は間違いなく米国、欧州とともに世界の三極を担う水準にあった。今日の指導者たちは、若き日にここにさまざまな恩恵を受けて成長して今日がある。彼らにとって、次世代にそれと同等の条件を継承する気概を持つことこそが、道義的責任であり、屈辱からの脱却の道でもある。自らの社会的役割に鑑み、狭隘(きょうあい)な自世代中心主義、成り行き任せは許されぬと自覚してほしい。

米中2強と日本の差異

世界全体の流れは、米国の凋落(ちょうらく)とそれに代わる中国の大躍進の結果、両国の力量が伯仲した状態にある。両国の存在は他を圧しており、その活動を支える研究費(名目、購買力平価換算)と研究者数は、中国が54.5兆円、211万人、米国は68.0兆円、156万人。もとより科学論文指標(2017-19年平均)は科学技術力の一部を表すにすぎないが、中国の論文総数の世界シェアは21.8%、米国が17.6%、一定の注目度を持つ被引用数上位10%論文数も、それぞれ24.8%、22.9%。ついに中国が首位に立った。日本の研究費は18.0兆円、研究者68万人を擁するが、総論文シェアはドイツに次ぐ4位で4.1%にとどまる。英国、インドが迫る。

研究生産量が投資規模に依存するのは当然である。日本の最も深刻な問題は、この財政的、人的資源投入量に対する生産効率のあまりの低さである。その上、行政や研究現場が「論文の質」の代替指標とする「上位10%論文」シェアが、今回遂に2.3%とインドに次ぐ10位に低落したのである。投資額がはるかに低いイタリア、オーストラリア、カナダの後塵を拝することは何を意味するか。この上位10%論文の総論文数に対する割合は、10%以上であってしかるべきだが、わずか5.8%で標準を大きく下回る。米国の13.0%、中国の11.4%との差は大きく、韓国の6.9%にも劣る。「上位1%論文」を論ずればさらに分が悪い。

つまり、統計値の信奉者たちが、平均的に研究の質が劣悪と評価する状況にある。個別機関についても、理化学研究所などは健闘するが、一流大学といえども、欧米の同列の大学・研究所、中国科学院に比べて、総論文に対する上位10%論文の割合や1報あたりの平均被引用回数が相当に低い。

日本はアジア圏のリーダーか

今世紀初期まで、日本の基礎科学力は間違いなくアジアを先導する地位にあった。しかし、今日の力量は近隣の大国中国、躍進する韓国と比べていかがであろうか。まず、中国は上位10%論文について、全8分野のうち5分野で首位に立った。日本は物理学においてようやく5位にとどまる。

中国の研究投資は日本の「たかが3倍」で、韓国は「わずか6割」である。中韓の両国は、かつての日本と同様、ものづくり産業の根幹をなす物質科学分野に相対的な強みをもつ。残念ながら、わが国が特に強かった化学分野の上位10%論文のシェアが2.8%(8位)にとどまり、規模の小さい韓国の2.9%(6位)より少なく、中国の39.1%に比べて14分の1に減衰してしまった。材料科学はさらに悲惨な状況で、日本1.8%(10位)、韓国4.8%(3位)、一方で、中国は世界の半分近くの48.4%を占めて米国の14.6%を圧倒する。また産業力に強く関わる工学も、日本1.1%(16位)、韓国2.3%(9位)、中国37.3%(1位)の現状にある。一方で、近年、政策的に基礎科学の重点が物質系から生命系に移りつつあると感じる、わが国もここに所期の研究成果が生まれて高水準を確保してほしい。ここでは依然、米国が圧倒的な力を誇るが、中国も基礎生命科学で17.6%、臨床医学で10.7%(ともに2位)と日本の2.2%(10位)、3.3%(9位)を圧倒。韓国は健闘するが、日本がまだ優位を保つ。

研究現場の反論を期待する

日本の研究社会は危機感を共有しても自虐的であってならない。研究現場には、むしろ上記の指標は果たして基礎科学の実態を表しているか、自らの力量はいかほどのものか、を真剣に問うてほしい。今後の発展に向けて、是非とも説得力ある反論を願いたい。

併せて一点確認しておきたい。論文被引用回数は機械的に測定しうる数値の一つにすぎず、その意味するところは何か。包括的な力量評価とは異なるはずである。コラム17に述べたように、この測定値は多くの問題を含み、行政などが拙速に唯一の評価指標とすることには、極めて慎重であるべきである(「測りすぎ」、ジェリー・Z・ミュラー著、松本裕訳、みすず書房、2019年)。特に、個人の能力、業績評価に用いることの不都合は、2012年、米国細胞生物学会のDORA(Declaration on Research Assessment)において強調され、最近欧州のある大学も正式にこの分析値の人事評価不適用を宣言している。

わが国の産業界の研究力

科学技術イノベーションの担い手は、大学、研究機関、企業の広きにわたり、上記の各国の研究投資額と成果は民間活動を含む。巨額を投資する産業界は、自ら強力に基礎研究を推進すべきであり、近年の外部依存傾向が日本全体のものづくり関連の基礎科学力の低落を招いている。産官学がそれぞれに本来の役割を果たすとともに、持てる力量を柔軟かつ迅速、機動的に統合することが成果の最大化をもたらす。

わが国の近年の産業力低下には、経営者たちの技術洞察力の欠如が大きく影響しているのではないか。実際、パテントファミリーは1位を保つものの、国際共同出願は主要国中最低の6位で、また科学論文との関連性も低い。産業貿易収支比(2019)は、メディアムハイテクノロジーでは2.5と首位を保つが、ハイテクノロジーでは0.7と赤字国の仲間入り。1.5と黒字で首位の韓国の動きをどう見るべきか。なぜ、半導体シェアがかつての50%から10%に低落し、自国でワクチンも開発できないのか。若者たちが憧れてきた有力大企業への信頼は薄れ、技術・品質管理に関わる不祥事も後を絶たない。かつて1位を続けてきたIMD(国際経営開発研究所)世界競争ランキングも、2021年には31位に転落、16位の中国、23位の韓国にも及ばない。GDPも世界3位というが、2位中国のシェア17%に比べてわずか6%、一人当たりの生産性はOECD加盟37カ国中26位とのことである。賃金が30年間ほとんど上がらず、韓国にも追い抜かれた。あまりに情けない。これで国を担う若者たちにどう誇りを持たせるのか。

国家の意思の欠如

日本人が劣っているわけがない。しかし基礎科学の根幹、大学や研究機関が本来の使命を果たせず、また能力ある研究者、教育者たちが士気を喪失するのは何故か。端的には、社会全体における科学軽視の傾向と、それに伴う「国家の意思の弱さ」に帰さざるを得ない。世界に伍(ご)する研究開発力無くして、国家は成り立たないはずである。研究生産性の向上には(1)研究人材の質と量、(2)研究開発投資の量と配分、(3)基盤整備、(4)情報の量(データ)と質(インテリジェンス)、(5)イノベーション効果を生む機能的体制、などに関わる包括的整備が不可欠である。もはや現状維持を目指す部分的なてこ入れは無意味である。1995年に成立した科学技術基本法の精神はまことに真っ当であり、人文学、社会科学を含むとする今回の改正も適切である。しかし、社会環境は時代とともに変わる。意義ある研究成果は個々の人々、組織の力量とともに、しばしば外部との機能的な連携によってもたらされるので、そのためのエコシステムを用意しなければならない。

あまりに異形の大学院制度の抜本的改革を

NISTEPの20年にわたる追跡調査結果が全く生かされていない。日本が科学技術先進国の一角を占め続けるか否かの分水嶺は15年前にあった。基礎科学力再生に向けては大学の役割は決定的に大きく、研究投資の格段の拡大は当然ながら、教育研究制度の再建(補修ではない)とともに、学生たちの保守的な意識の転換が不可避である。国際的に科学技術力を論じるとき、「大学」とは大学院を指す。大学院は国際的に開かれ、産業経済界ともつながる独立組織であり、断じて大学学部の延長物、付け足しではない。だが本質を理解しない高等教育行政の甚だしい怠慢、また科学技術政策との錯綜により、大学院制度の設計が真剣に論じられたことがない。しかし、この存亡の危機に遭遇した今日、もはや政治行政と教育研究現場の不作為が許されるはずがない。

わが国の教育制度については、互いに連携しつつも、明確に節目のある6-(3-3)-4-Xと定める。その上で独立、個性あるX年の大学院組織で本格的に人材の育成と確保に努めなければ、国家生存はおぼつかない。諸外国ではここで各界のリーダーが育てられる。X(年限)と内容は目的に応じて柔軟に定めるべきで、理工系、人文・社会科学系、医療系などで当然異なるはずである。ロースクールやビジネススクールは2年でいいのかもしれない。その上で、有為かつ多様な若者を広く国内外からいかに集めるか、他大学学部生を広く受け入れる大学院入学試験など、学生の選抜、確保の方法も特色があっていい。

研究開発のリーダーとは、大学、企業を問わず大学院で鍛えられた博士を指す。日本のような経験不足の修士では、たとえ優秀、勤勉であっても先端研究の組織を指揮することは難しい。入学試験偏重、多様性を排除する教育がこれを阻む。諸外国の学生たちは学部教育を終えるにあたり、人生設計を新たにする。自ら進むべき道を定め、国内外の最も適切な大学院、指導教授を選ぶ。入学を許されれば、多くの場合、国籍を問わず授業料は減免され、かつ生活費相当の給付金が付与される。大学院生は研究の中核としての役割を果たすため、世界の優れた学生にとって魅力のない大学は淘汰される。志ある彼らは5、6年の修業(英国は3年)を経て、高度の専門知識を得て博士号を取得、加えて異文化の経験、多様な人脈をつくって世界に羽ばたく。教育は社会のためにあり、政府のみならず社会総がかりでその活動を支えている。当然のことではないか。

大学は「未来に資する存在」であり、最優先すべきは有為の人材の育成と確保、そして彼らに自由闊達(かったつ)な活躍の場を提供することである。ここに最大限の努力を注入する。平時であれ有事であれ、外的内的な圧力が教育研究の自律性を損なってはならない。ましてや、短期的な政治目的達成のための「研究者総動員」は許されない。歴史が教えるところである。

科学技術立国再生に向けた指導者の覚悟

新型コロナウイルス感染症の脅威との遭遇が、科学技術のみならず、日本社会の再生の機会であってほしい。私は、歴史上最大の国難、第二次世界大戦敗戦時に小学校に上がり、貧困からの再生の中を生きてきた。当時の大人たちの気持ちを思いつつ、数年前、終戦の8カ月後に設立された経済同友会の設立趣意書を見つけた。「日本は今焦土にひとしい荒廃の中から立ち上ろうとしている。…日本国民は旧(ふる)き衣を脱ぎ捨て、現在の経済的、道徳的、思想的退廃、混乱の暴風を乗り切って全く新たなる天地を開拓しなければならないのである。これは並々ならぬ独創と理性と意思力と愛国の熱情を要する大事業である。…今こそ同士相引いて互いに鞭(むちう)ち脳漿(のうしょう)をしぼってわが国経済の再建に総力を傾注すべき秋(とき)ではあるまいか」(抜粋)。爾来(じらい)、わが国経済界の先達たちはこの精神にのっとり献身し、見事に復興を果たした。現代の各界の指導者たちには、後継世代のためにこの覚悟が求められているはずである。