2021年5月21日

(46)躍動する若手研究者育成への政策意欲に期待する

科学技術力は日本国にとって「生存の条件」である。そして、もしもわが国の科学技術が滅びゆく運命にあるならば、指導者たちにできることは、その過程を観察することだけであろうか、と案じている。国家であれ組織であれ、主権的に生存を維持するためには、その条件を確保すべく、自ら目標を定め、自ら力を培い、自ら不退転の決意を持って行動すべきではなかろうか。

この危機に背水の陣で向き合うべきところ、政府は「科学技術・イノベーション基本計画」において、今後5年間に研究開発のために30兆円を投じることを閣議決定した。民間と合わせて120兆円と過去最大規模を目指すことは大きな朗報である。世界に後れをとる温室効果ガス排出低減のための技術、量子コンピューター、人工知能、また新型コロナウイルス禍を契機とするデジタル化などに関わる研究開発を後押しするという。ぜひ実効性を持って進めていだだきたい。

投資額拡大と制度刷新は一体であるべき

もう15年以上もわが国の基礎科学、技術力が恒常的に衰退傾向にあることは、投資額の不足によるところが大きいが、さらに根深い原因は制度疲労である。世界標準からあまりに逸脱した大学・大学院の制度が、あるべき人材育成・確保を阻んでいる。その結果、基礎科学分野は競争力を失い、トップ10%論文の世界シェアも、ついに9位に低落した。米中2強だけでなく、絶対投資額の小さな欧州諸国やオーストラリア、カナダにも後塵を拝している。隣国韓国が日本の6割程度の研究規模ながら、産業コア技術の基盤となる材料科学や工学分野において2倍以上も良質の論文を出していることを直視すべきである。

今回の国家の意思による投資の拡大は、特に制度刷新とともにあるべきで、決して老朽化した体制の修復維持や、国勢衰退にくみする既得権者の保全であってはならない。一方で大学側には、国際環境の変化に適応すべく意識を改革する決意が求められる。

大学院生の生活支援

研究はまず人である。今回、研究開発を担う若手人材の育成への注力が明確に宣言されていて結構だ。ここに大学院生への経済支援重視の論理を明らかにしておきたい。理工系の大学院生は教育を受けつつも、科学研究のまさに中核的存在である。実験研究においては大学院生なくして論文なし。従って国籍を問わず全ての大学院生が自立して生活できる経済環境を整備すべきである。

まず、給付制の奨学金(scholarship)で授業料を相殺することが望ましい。加えて、憲法26条、27条の精神を遵守して、教員の研究活動支援(research assistant)、教育補助(teaching assistant)に対する対価(fellowship)として生活費相当額(月額20万円以上)を給付する必要がある。世界主要国の標準的措置でもある。この不都合を黙殺し続けてきた結果が、現在の大学院の惨状である。世界が優秀人材の獲得競争にある中、わが国だけが無関心なのはなぜか。修士課程から博士課程の進学者(社会人を除く)が2003年度比で40%減じた。人口100万人あたりわずか119人にすぎず(2017年)、376人の英国、344人のドイツ、284人の韓国、268人の米国など科学国に大きく後れをとる。

過去に世間を騒がせた大学病院の無給医問題と同じ構造であるが、その規模はさらに大きい。なお、この財源を全て国家に依存するには無理があり、人材育成に直接の恩恵を受ける産業経済界をはじめ、社会総がかりで支えるべきである。諸外国もさまざまに工夫する。グローバルな研究教育を掲げる英国では、脱欧州連合で求心力が揺らぐものの、外国資金が大きく人材養成を支えている。

今回の10兆円の政府系資金の運用益を充てるとするが、給付の意図を明確に示してほしい。大学院生の自由意志を奨学的に尊重するのか。あるいは、国の科学技術振興ないしイノベーション創出計画の方向性、また大学における教育研究の将来計画や指導教員の専門分野を考慮するのか。目的により配分の仕組みは自ずと異なるが、さらに受給大学院生の心構え、責任感にも影響するからである。

頭脳循環を促したい

基本的人権の観点から全ての大学院生を支援すべきだが、政府は差し当たり博士課程学生について生活費相当額(180万円以上)の受領者を現在の10.1%から30%に引き上げるとする。「選ばれた学生」を対象とするというが、実際にいかなる学生から給付し始めるのか。

日本における大学の組織的問題は多様性の欠如であり、個人的には国際的、学際的視野の狭隘(きょうあい)さである。状況は30年にわたり全く改善されていない。従って、まずは閉鎖的な大学の門戸を開くとともに、学生の潜在能力を拡大するため、まず同一大学出身者以外の大学院生への給付を優先することを提案したい。米国における学生の同一大学院への進学は例外的であるが、近年のわが国の有力大学における教授たちの学部生囲い込み、学生たちの引きこもり傾向は目に余る。大学院入学試験において、教員たちが自ら教えた学部学生を自らの方法で審査し、自らの専攻に進学させる。社会が入学試験に極度の公平性を求める中で、この緊張感を欠くもたれ合い慣習は、重大な利益相反を含む。わが国の6-3-3-4教育制度の先にある大学院は学部の延長ではなく、研究実践を含む異なる使命を持つ独立した組織である。その出発の機会は国内外に広く開かれるべきで「先住民」に優先的居住権を認めることは不都合極まりない。この国際的にも異様な制度、慣習の温存のための投資は、行政として問題解決の先延ばしへの加担を意味する。

若者は住み慣れた組織内に安住するのではなく、武者修行し「異に出会う」ことで触発されて大きく成長する。教育制度はガラス鉢の中で観賞用の金魚を育てるためでなく、いけすの中でエサと抗生物質を与えて太ったハマチを養殖するのでもなく、凶暴なサメも泳ぐ大海にあえて身を投じるたくましい「回遊魚」を育成すべきである。

科学に国境はない。国内の他大学大学院への進学にも増して、外国の大学院への留学は有益である。現在の新型コロナ感染症の脅威が学生の往来を妨げることは残念であるが、終息を待って格段に国際流動を促進するべきだ。新たな仕組みを考案して、世界における相対的優位性をぜひ回復してほしい。もとより国費投入は、才能の一方的流出ではなく、国の将来に資する「頭脳循環」に向けてなされるべきであろう。国内大学のみならず、社会の閉鎖的な慣習、価値観が有為の学生の海外経験を阻んでいる。完成した論文内容などインターネットを介して知り得ることには限りがある。若者が世界の有力研究室の動向を実時間で知ることは、個人にとってだけでなく、グローバルな諸々の問題に対処すべき国にとっても極めて大事である。もちろん主要国にあっては、生活保障制度はすでに万全に近いが、さらに志ある学生の留学への準備や帰国後の機会を支援してはどうか。

海外留学が国際協力関係、外交力を育む

米国大学院において、毎年5万5,000名程度が博士号を取得する。うち外国籍者については、躍進著しい中国(2019年、6,305名)、インド(2,050名)、韓国(1,164名)が圧倒的であり、日本人はわずか129名、22位でバングラデシュやネパールの半数以下である。

ここで米国の教育水準を議論しているのではない。学位証書の信頼性や博士論文の質を問題にしているのでもない。おそらく日本の有力大学の学生たちの成果は、欧米一流大学のものに比べて引けを取らないだろう。しかし、彼らがどのような道筋を経て学位を得たのか、感受性豊かな5、6年間に異郷でいかなる経験を積んで生きる力を培っただろうか。この経験と将来の可能性を評価すべきである。大学院生たちは有名教授から専門知識を習得するだけではなく、むしろ世界から集う学生同士で、しばしば研究室以外で多くを学び合う。積極的社交性を持つ学生たちは、いったいどのくらいの人脈をつくるだろうか。

大学院生は学術外交、科学外交の一端を担う。今や国際共同研究とその論文成果の質や影響力との相関関係は明白である。若者たちの友好関係こそが未来の科学領域を拓くのであり、孤立気味の日本は新分野の開拓力に乏しい。他国に比べて伝統領域の継続傾向が強く、900ほどある研究領域のうち30%にしか参加していない。米国の86%、他の主要国の50~60%に大きく劣後し、人工知能などの先端分野の開拓力も中国などに圧倒されている。

もちろん日本に優れた研究者は多い。しかし、学ぶべき外国の研究者はさらに多い。筆者は論文引用数の信奉者ではないが、一昨年、米国のクラリベイト・アナリティクス社はこの観点から特に注目する研究者を6249人選んだ。そのうち日本人はわずか100名で、1.6%のシェア(世界11位)にすぎない。米国人が2,757名で44%を占め、次いで、中国(10%)、英国(8.4%)、ドイツ(5.2%)と続く。米国はハーバード大学一大学だけで204名、中国科学院に101名、日本の若者が憧れる東京大学はなぜか13名にとどまる。もっと思い切って世界で活躍する人たちの胸に飛び込んでみれば、予期せぬ幸運が待っているだろう。その門戸は広く開かれている。

海外で活躍する研究者たち

若者世代は日本社会に閉塞感を感じるというが、やはり新天地を求めて自由に移動する研究者たちは成長を遂げ、活躍の機会を得ている。日本学術振興会では、毎年45歳未満の極めて優秀な独立研究者25名程度に賞を授与して表彰してきた。2004年の発足時には、恵まれた研究環境にある旧帝大系大学在職者が主流で、15名を占めていたが、昨年度には10名に減った。受賞者の多くが経歴の節目ごとに組織を移動してきた。出身大学と異なる大学院で博士号を取得したものが半数の12名、うち外国で取得した者が6名もいた。また、現職が学位取得大学院と異なるものが8割となる20名、現在欧米の著名な大学で活躍する研究者が6名を占めるに至っている。

さらにその中から、特に優れた業績者6名に日本学士院学術奨励賞が与えられるが、今回はその半数の3名が外国大学に所属していた。海外で立派に活躍する若者がいて誠に頼もしい。外に飛躍した彼らには、その動機と外国から見た日本の大学に対する印象を語ってもらい、後進を鼓舞してほしいと思う。

隣国韓国でも同様である。サムスングループの創業者イ・ビョンチョル(早稲田大学中退)の筆名を冠した著名な湖巌賞(Ho-Am Prize)は1990年に創設以来、国内外で顕著に活躍する韓民族研究者、芸術家などを表彰してきたが、この10年間の科学、工学、医学分野の30名の受賞者中、13名が米国、1名が英国在住の研究者である。彼らは国際的に中心的役割を果たし、母国にも恩恵をもたらしてきた。

学問の自由は誰のものか

政府は独立した若手研究者も強力に支援するという。実際にわが国大学における39歳以下の教員は23%にすぎず、中国の44%、ドイツの51%に比べ圧倒的に少ない。しかも、独立した教員が少ないので当然の方向である。

多々ある問題の中で、最も深刻なものは綿々と続く徒弟制である。かねてから憲法23条は「学問の自由」をうたい、2007年の改正学校教育法は、教員の職階を教授、助教授、助手から教授、准教授、助教に改めて、これら全ての教員に研究教育の自由を保障した。しかし実態との乖離は甚だしい。外国からは、日本の理系研究室制度は「中世の遺物」、世界最悪と批判され、実際クローン製造傾向、新陳代謝機能の劣化は顕著である。

米国を代表するハーバード大学の化学科(Department of Chemistry and Chemical Biology)の規模は日本の有力大学と比較して小さく、教授から助教授まで27名(うち女性6名)を任用するにすぎない。しかし、その全てが責任研究者(PI, principal investigator)として独立した研究室をもち、国内外に共同研究を繰り広げて多彩な成果を上げている。これに対し、東京大学大学院理学系研究科の化学専攻組織(本体のみ)は総員53名で、2倍の人員規模をもつが、研究室(講座)数は13と半数以下であり、学術活動の範囲は限定的である。ここに、PIは同じく13名で教授に限られ、この特権的な指導者のそれぞれの配下に准教授、助教、そして外部には理解が困難な「特任」を冠した准教授、助教など、平均3名が働いている。彼らの自由度は教授によるが、国際的に独立とは認知され難いため個人的存在感は不十分である。他の有名国立大学も同様の傾向にある。日本全体の大学にテニュア制度を徹底するなど、この恣意的、不透明な印象を明確に払拭しない限り、独立を当然とする有能な国際教員の採用には困難が続くに違いない。

わが国最有力大学の若手教員たちは、もともと高水準の才能、豊かな国際経験の持ち主のはずである。全組織として研究活動成果を最大化するとともに、新たな潮流をいち早く捉えて将来に備えるには、彼らに最大限の自由を与えて、闊達(かったつ)に国内外の他研究室との連携活動を展開してもらう以外にないのではないか。その環境を整備することが不可欠である。

ここに大学にあるべきprofessorshipと公的研究機関や企業研究所におけるdirectorshipを混同する不都合に気がついていない。大学教授の本来の役割は何か。悪名高い「講座制」は個人あたりの生産性が低いだけでなく、学問的に柔軟性、開放性を欠く。そのため分野の新陳代謝の機会が極めて乏しい。これは行政的問題以上に、時代にそぐわない守旧的教授たちの既得権益堅持と、「大学の自治」に責任をもつ学長の指揮権の放棄による結果である。

企業の研究開発力の低迷

創造的人材の枯渇は大学に限らない。欧米はもとより、躍進する中国、韓国で企業の研究開発の中核を担うのは、国際経験を経て広い視野、多彩な友人を持つ博士たちである。わが国産業界においても、もはや従来型の自前の現任訓練(OJT)では国際水準の人材の養成は難しいのではないか。

確かに、技術競争力の指標としてのパテントファミリー(同一の特許出願に由来して各国で権利化された一群の発明)数は世界第1位を保つ。しかし、パテントファミリーにおける国際共同出願は主要国中最低で、また科学論文との関係性も低い。結果として、産業貿易収支比(2019)は化学製品や電気機器、機械器具などのミディアムハイテクノロジーにおいては2.59とまだ主要国中1位を保つが、医薬品、電子機器などの研究開発集約性の高いハイテクノロジーは0.76と大幅に輸入超(赤字)に転じ、7位に低落した。自らなすべき基礎研究を怠ってきたためで、往時の輝ける技術立国の面影はない。一方、韓国は電子材料技術などを中核とし1.88と世界を先導する勢いにある。科学研究力を軽視する産業界指導層の意識の問題であることは明らかである。

人材の国内供給は不可能である

「人材育成」だけでは不十分、「人材確保」が喫緊の課題である。政府の投資目的も大学院学生の「生活保護」にとどまらず、国益がかかる科学技術力の本格的向上に資することにある。

もやは、いかなる国においても、基本となる理工系研究者の内製化は困難であり、米中の先端技術安全保障問題もここに大きく関わる。この多様性重視の時代にあって「日本における、日本人だけによる、日本人(国)のためだけの大学」はもちろん通用しないが、教育界だけに責任を押し付けても意味はない。日本社会はあまりに特異性、相違性を軽視し、画一性、類似性を偏重する。科学においても新分野よりも既成分野を、また素朴な創造品よりも手堅い規格品を、異端、前衛よりは定説的権威を尊ぶ。

社会課題解決の重要性が叫ばれる今日である。しかし、科学や技術に限っては「問題に答える」ことよりも「問題を見つける、つくる」ことの方がはるかに難しい。新興分野は偶然、突如として開けるものでなない。個性ある知性の持ち主によって秘かに培われ、周辺との関わりなど時宜を得て発見、発明として現れることが多い。大学は短期的な流行分野に集中するだけでなく、信念ある自学自習の異才を育てる寛容な風土を醸成すべきである。時間が必要である。科学の本質を理解しない評価制度をはじめこの明白な視点の欠落が、さまざまな分野、課題における「周回遅れ」をもたらしてきたのは間違いない。

科学技術、産業技術分野にとどまらず日本社会全体を維持するためには、世界で学ぶ420万人の留学生にいかに魅力ある仕事場を提供できるかが鍵になる。果たして日本は本当に国際人材に選ばれる国だろうか。なお、この潮流の中の日本人はわずか3万人、世代として孤立、存在感を欠くことは大問題である。

もとよりあるべき姿の実現のための環境整備は容易でない。近年、わが国は行政的には高等教育と科学技術政策の錯綜(さくそう)、大学の財政難があり、教育研究現場においては実績低迷のみならず当事者意識に大きな問題を抱える。加えて産業競争力強化政策が大学運営に介入して学術活動の混乱に拍車をかけている。今回の政府の閣議決定が、わが国の科学技術人材の確保にとどまらず、科学技術・イノベーション振興のための環境整備、抜本的な制度刷新の起爆剤になることを期待している。