(45)科学技術の統治と科学者の責任
国の体制の如何を問わず、科学技術が経済をはじめ国力の源泉であることは間違いない。一方で、覇権主義国家の野心が度重なる戦争を引き起こして社会を疲弊させ、また先進国を中心に個人的欲望の累積が修復不可能かもしれない環境破壊を起こしており、ここにも科学技術が深く関与している。わが国の科学技術・イノベーション基本法(1995年、2020年改正)は、科学技術・イノベーション創出の振興の目的を経済社会の発展、福祉の向上、人類社会の持続的発展のためとする。国連の「持続可能な開発のための2030アジェンダ(SDGs)」(2015年)の目指すところと軌を一にする。しかし、果たして各国の科学技術がこの目標に向かって十分な統治がなされ、また個々の組織、研究者があるべき行動規範を維持しているであろうか。
競争原理が格差を生む
今や「力は正義」とする競争原理が行き過ぎてはいないか。経済覇権主義者たちによる国境を越える先端技術システムや大量の新製品・サービスの創出が、事実上の世界標準を確立して他国の選択肢を徹底的に排除しようとする。さらに巨大な宇宙開発、情報通信革命に乗じた知的資産、基盤の独占は不平等な市場寡占、倫理にもとるプライバシーの侵害と搾取をもたらしている。また国家の国民監視を強めるところとなる。ここに至る研究開発過程は、その根源である科学知識の共有性、公開性の理念とは対極にある。結果として厳しい格差の拡大、極端な非対称性を招き、各国また国際社会を著しく不安定化している。これまで受容してきた政治秩序、経済形態の基盤を揺るがし、格差に起因する怒りが広範なテロ活動という形で表出し、世界を危機にさらしている。人類社会全体にとっての巨大な不利益である。
支配者たちの歪んだ行動規範
科学者の自然にかかわる知見はいまだまことに乏しく、さらなる知識の創出に努める。それに立脚する技術は必然的に発展し続ける。文明を揺るがす惨禍をもたらすものは自らの意思を持たない科学技術そのものではなく、むしろその利用にかかわる統治プロセスの不備である。とりわけ、恣意的な価値観を持ち、科学的検証をかたくなに拒みつつ自らの強力な政治的、経済的圧力を行使する実力組織の行動規範に問題がある。歴史的に、不都合の多くは公共的な規制政策と「自己利益の最大化」を目指す自由市場主義の戦いから生まれてきた。一方で、国家資本主義を貫く中国は「盾と矛」を一体強化して計画的に国益追求に邁進する。果てしなく続く競争的知識資本主義の行方は人類にとって大きな懸念である。
なぜ政治、経済は科学を避けるのか
大量殺戮(さつりく)を目的とする第一次大戦時の化学兵器、第二次大戦中の原子爆弾開発の推進は論外であるが、多くの科学技術産業界の失態は当該技術の欠陥、力量不足によるところが大きい。さらに被害拡大を誘導したのは、科学的精神を欠く産業界の行動規範の不具合であった。今日繁栄を極めるバイオテクノロジー、情報通信業界の運営は健全であろうか。
今や「人新世(じんしんせい)」と言われる時代である。人類の生存圏の劣化が自然環境の量的、質的有限性からの逸脱に基づくことは明白である。もとより人類は自然の摂理に反しては存続し得ない。科学専門家たちは膨大な客観的事実を解析、評価した上で、具体的な負荷軽減策を提案してきた。しかし、諸経済大国の政府方針はいまだに「経済成長・拡張の永続可能性」を教条的に主張し続ける。自然界からの資源の採掘と自然界への生産物の排出には自ずと許容量があることが明白であるにもかかわらず、経済活動はこれらを「内部化」していない。権力による客観事実無視の実力行使は、スウェーデンのグレタ・トゥーンベリ女史の抗議行動を待たずとも、まだ見ぬ未来世代への裏切り行為と言えよう。
科学者は正しく行動してきただろうか
科学は自然現象を対象にする限り、矛盾を内包しない整合的かつ普遍的な営みである。従って科学界は特定の国家、産業組織、その他の支配者たちに隷属することがあってはならない。
過去半世紀以上にわたり最も遺憾であったことは、あまりに多くの「有力な科学組織」や「御用科学者」が産業界の主要企業体の明白に非倫理的社会行為に加担してきたことである(「世界を騙しつづける科学者たち(上・下)」N. オレスケス、E. M. コンウェイ著、福岡洋一訳、楽工社、2011年)。
社会は正義を担う科学者の育成を求めている。残念なことに、深刻な不都合の生起、拡大に際して、本質を最も理解する立場にある科学界の大勢が傍観者として態度を留保してきた。日本においても同様であり、近年の例が2011年の東日本大震災の際の原子力発電所事故に際して見られるが、科学の名誉を大きく損なう結果となった。今回のCOVID-19の蔓延(まんえん)には、各国の科学界が政治的思惑を超えて連携し適正に対処してほしい。
一方で、一部の良識と勇気ある科学者たちが、使命感を持って問題の根源の検証に努め、人類を破滅から守ったことに感銘を受ける。例えば、カール・セーガンらの「核の冬」現象の予言は、米国、ソ連政府の軍備拡張競争に対する大きな抑止圧力となった。また1995年ノーベル化学賞受賞者たちの継続的努力はモントリオール議定書発効、フロン生産全廃をもたらし、オゾン層の破壊拡大を食い止めた。わが国においても、かつて体制保守に与する産業行政に対する形で、敢然と「公害」「薬害」に挑んだ研究者たちがいたことを忘れてはならない。
尊重すべきは「科学精神」であって「神話」ではない
「湖水のスゲは枯れ果て、鳥は歌わぬ」のキーツの詩の引用で始まるレイチェル・カーソンの「沈黙の春」は自然破壊に対する警告書として衝撃的な影響を与えた。1962年、この絶対的女神のご託宣は、時のケネディー大統領、有名歌手、環境活動家を動かし、さらに有力メディアの支援も受けて、ついに1972年には、新設の米国環境保護庁による殺虫剤DDT全廃の政治的判断をもたらした。「世論に配慮した政策」と言われる。ここに、広範な科学専門家による9000ページに及ぶ報告書や、この人工物質が5億人の人命を救ったとする米国科学アカデミーの報告は、流麗な筆致の思想書に対抗するには無力であった(「禍(わざわ)いの科学―正義が愚行に変わるとき」ポール・A. オフィット著、関谷冬華訳、日経ナショナルジオグラフィック社、2020年)。結局、この世紀の殺虫剤は葬り去られ、1948年のノーベル賞授賞は歴史上最大の汚点とまで指弾された。そして後進国におけるDDT禁止はハマダラカが媒介するマラリア患者の激増をもたらした。もとより無分別な過剰使用は避けるべきだが、WHO(世界保健機関)がマラリア対策としてDDT室内残留性噴霧の奨励へ方針転換したのはようやく2006年のことである。
この間の状況変化は複雑を極める。過大な人為的介入からの自然保護を唱える「沈黙の春」の思想は正しい。不確実性に対する予防原則も正しい。しかしゼロリスク信仰への執着による科学技術の全否定は文明社会を損なう。光と影を適切に伝えるジャーナリズムの役割は大きい。さまざまな知見が蓄積する中で、いかなる政策も合理的であり続けるとは限らない。無謬(むびゅう)原則は断固として避けるべきであり、科学の作法と同様に「反証可能性」の担保が求められる。
データ駆動型の活動が広がる中で、客観性の高い「データがすべて」とする考えが広がる。しかし、過去から現在に至るすべての必要データを把握できるわけはなく、未来から実証的根拠を得ることも困難である。人工知能により予測が可能であっても決定論的に断定はできない。現実への臨機応変の理性的対応が必要である。
科学界による政策への助言とその限界
今後とも科学技術は国家の発展、文明社会の存続の基軸であり続ける。従って、政策決定者は信頼できる科学界の助言に真摯(しんし)に耳を傾けるべきで、そのための最も合理的なプロセスが求められる。日本の政策は行政の内部規範に基づいて策定されがちであるが、より客観的証拠に依拠すべきで、また不確実なリスクの影響に対しても一定の責任を負わねばならない。
科学界は政府から独立性を保ちつつ、可能な限り多義的、多面的な検討を行った上で、科学振興政策(Policy for Science)のみならず、広く国の政策全般に中立的、建設的な提言をする義務を持つ(Science for Policy)。科学界は科学の内容を熟知し研究開発を担う立場にあり、科学を応用する現実の社会活動に詳しくなくとも、社会的倫理にもとるさまざまな不都合な事実、不可逆的な副作用についての無関心は許されない。科学技術は時に想定外のリスクをはらむが、自らが生み出す知見の実践の行方についての懸念を躊躇(ちゅうちょ)なく開示すべきである。
1999年、ブダペストにおける科学者会議は自らの「科学と科学知識の利用」に関する責任を宣言した。東日本大震災の2年後、日本学術会議による「科学者の行動規範改訂版」声明も多としたい。科学技術の経済、軍事優先の統治は回避すべきであり、そのためには研究者個人であれ組織であれ、知識や技術の利用法、範囲、規模についてELSI(Ethical, Legal and Social Issues)の観点に基づく正当な価値観を是非とも醸成すべきである。現在、急速に研究が進展するゲノム編集技術や情報通信技術も、適切な評価を通し受容されてこそ、未来技術として社会実装されるはずである。
他方で一般社会が科学を忌避することがあってはならない。また、責任ある有識者も科学を理解せずして、もはや世論、政策を動かす倫理的評論を先導できるはずがない。もとより万能の超人は稀有(けう)であり、多様な学界の責任ある、また高品質の集合知こそが頼みであろう。
最も大切なことは、科学者の提言はたとえ客観性高い審判機能を有しても、国家の意志決定において考慮される一部にとどまることである。予測には不確実性は避けられず、実証可能性の限界、さらにトランスサイエンスの問題(科学に問うことはできるが、明確に答えることはできない)が立ちふさがるため、最終的な政策決定はあくまで総合的政治判断に委ねられる。しかし、経常的な率直かつ分別ある対話が国家の政治の質と信頼を高めることは間違いない。
科学者と国民の対話が不十分である
科学界は特権的存在ではない。矜持(きょうじ)を持ちつつも謙虚でなければならない。その明確な信頼の根源は、その発展が特定の組織や人の便益に資するものではなく、中立、公正にすべての人びとに奉仕する姿勢にある。国民の求めなくして政策はあり得ないことを銘記すべきである。
科学技術を振興するには政治、産業経済界のみならず、非専門家が大多数を占める一般国民の十分な共感を得ること不可欠である。時に社会から受ける(いわれなき)科学技術への批判は、主にこの率直な対話の欠如に基づく。
ことの深刻さを認識する国際純正応用化学連合(IUPAC)は、2019年7月パリの総会で「化学と社会」のシンポジウムを開いた。参加者の3分の1が主に産業人を含む化学者、3分の2が非専門家であった(筆者はビデオメッセージにて参加)。ここで(1)化学専門家は一般人が無教養、非合理的であると思うことをやめる、(2)高質な情報を提供しあう、(3)透明性、批判能力を持って真剣に対話し、互いに信頼しつつ意見を聞く、などが指摘されたと聞くが、最も厳しい意見は「このような議論は所詮(しょせん)、先進国の参加者間どうしのものにすぎないだろう」とのこと。自省の念を持ちつつ、科学技術の広がりを発展途上国の立場からもう少し考えてみたいと思う。