2019年10月25日

(38)化学技術のジレンマ

今年はメンデレーエフが元素周期律を発見して150年目にあたる。「自然も暮らしもすべて元素記号で書かれている」(日本化学会編集「一家に一枚周期表」)とされ、生活圏内のほとんどの営みは、秩序ある元素の組み合わせによる物性、機能発現を可能にする化学技術に依存する。しかしなぜか、社会が化学の貢献に対して意図して名誉を与えることは稀(まれ)であり、むしろ何事か不都合が生じればあえて「化学物質」と分野を名指しして汚名を着せる。この世界的な風潮が、若者の化学離れ、化学関連企業就職の回避、さらに国民の化学嫌いを助長していることは甚だ残念である。

なぜ化学技術か

人間はさまざまな自然の恩恵を受けて生きている。しかし、現実の高度な文明を支えるもろもろの有用物質は、天然にその供給を求めるには限度がある。命を支える安全な水さえ、都市においては化学的浄化とポリ塩化ビニル製配管を通しての供給なくして確保できない。人類の福祉にかかわる多彩な人工物質を創りだし、十分量を供給することは化学変換技術の独壇場である。人びとが求める物質は、化石資源、バイオマス、そしてさまざまな非金属、金属などを原材料として「近代錬金術」(元素組み替えによる未知の特異な物性、高機能創出)を施してつくられるが、特に「触媒」は人工有用物質を経済的に、環境・エネルギーを保全しつつ生産する唯一の合理的かつ一般的手法と言える。

医療を支える

かつて生命を脅かす疫病のまん延に対して施政者はなす術がなく、民衆はただ祈ることしかできなかった。近代医化学、化学技術がさまざまな非感染性の疾病、天然痘や細菌性感染症からどれほどの人命を救ってきたか。20世紀に先進国における平均寿命の40〜50歳から80歳への伸長に大きく貢献している。

百兆円市場といわれる医薬の相当部分は、化学合成された2〜3万個の候補化合物からただ一つ選ばれた人工有機化合物である。中国伝統の漢方薬などを除けば天然由来のものはほとんどなく、必ず化学が関わる。ペニシリン系の抗生物質はその代表例であるが、近年では遠藤章博士の先駆的化学的業績に基づき開発された脂質異常症治療薬スタチン類も、世界の四千万人が服用し、高齢化社会を支えている。近年は細胞や遺伝子による治療も進むが、2018年に米国FDA(食品医薬品局)で承認された59の新規化合物のうち38種(64%)はやはり巧みに設計された低分子量の有機化合物であった。創薬は科学知識を総動員し、上市までに9〜17年の歳月と1,700億円の費用を要するとされるが、この投資額回収に余りある巨大な経済収益だけが称えられ、疾病との戦いの前線に加わる化学技術の貢献への理解はまったく乏しい。なお、わが国の国民医療費41.5兆円(2015年度・概算)、約10兆円とされる医薬品市場規模において近年は2兆円以上の輸入超過である。ここに日本企業の海外生産品の逆輸入も含まれるが、知識集約型の科学技術立国としては新薬開発力の格段の向上が必要である。

人工有機化合物はさらに広く社会構造にまで大きな影響を及ぼす。1960年代に米国化学者カール・ジェラッシが先導的役割を果たしたステロイド系経口緊急避妊薬(いわゆるピル。現在では生理痛軽減にも使われる)の開発には宗教的、社会的倫理も大きく関わり、ジェンダー問題、先進国社会のあり方にさえ大きな影響を与えた。もとより医薬の副作用、オピオイド鎮痛剤の濫用、幻覚作用をもつ合成麻薬のまん延、スポーツにおけるステロイド系筋肉増強剤の不法使用などは社会に甚大な負の効果をもたらすが、客観的な知識体系である化学そのものが非難されるいわれはない。

日本の経済産業を支える

化学産業は経済基盤の要の一つであるが、わが国においても、自動車産業に次ぐ重要な地位を占め、国家の存立に大きく寄与する。出荷額42兆円、海外出荷は28兆円、世界第3位である(いずれも2016年)。ここに日本発の化学技術の貢献は顕著である。広く生命や健康、食料確保に関わる有機合成技術とともに、情報通信技術の鍵を握る吉野彰博士のリチウムイオン電池発明は今年のノーベル化学賞に輝く。さらにカーボンナノチューブ、炭素繊維、磁石、磁気材料、超電導材料、酸化物材料、発光ダイオード、水処理用高分子材料などの分野でも先導的役割を果たしてきた。産業資源は鉱物、化石資源から多様な生物関連資源、そして今や知識やデータへと「軽量化」「無形化」傾向にあるが、やはり物質なくして文明は成立しない。

化学の名を汚す出来事

一方で、20世紀の世界を振り返れば、化学産業が地球規模の災害を起こしたこともまぎれもない事実である。例えば、DDT(ジクロロジフェニルトリクロロエタン)による生態圏のかく乱、酸性雨、フロン使用によるオゾン層破壊、過大な温室ガス排出による地球温暖化などである。国内でも四日市ぜんそく、水俣病など多くの事件があったことは残念である。近年は世界的にプラスチック廃棄物による海洋汚染問題が急浮上している。

共通するところは特定物質の人為的大量拡散、つまり「エントロピー(乱雑さ、無秩序の度合い)の増大」(熱力学第二法則)による生存圏の質の劣化である。拡散物質には人体に有毒なものもあるが、二酸化炭素やフロンのように無毒なものも多い。目に見える直接的な毒性がないからこそ困った事態となる。産業界の対応に問題があったことは間違いないが、排出者は企業体に限らず、公共機関や多くの一般生活者を含み、現代人のほぼすべてがこれらの不都合に加担してきたと言える。

化学産業の生存条件

化学技術は単なる経済効果の追求にとどまらず、健全な社会基盤形成のための鍵である。しかし20世紀文明を牽引(けんいん)した欧米の多くの巨大化学企業が退場、あるいは姿を変えており、明らかに明日の事業はこれまでの延長線上にはない。世界が既に76億人の人口を抱える中で、化学産業成立のための環境は明白に有限であり、土地、非再生資源、エネルギー、水の限界条件下でのみ生存可能である。この点において、わが国に「日窒コンツェルン」を創始した野口遵(のぐち・したがう)の志に今一度思いを致すべきであるが、今後の活動もこの枠組みの中で行われてはじめて報われる。化学工業界は科学的根拠に基づいて、複雑に絡み合う国内外の問題の政治的対処、ESG(環境、社会、企業統治)投資推進にむけた正しい判断のあり方を臆することなく唱えるべきではないか。現在は一方的な社会批判をおそれ、あまりに寡黙に過ぎると感じている。

学術界はどうか。20年前の1999年世界科学会議、いわゆるブダペスト会議において「社会の中の科学、社会のための科学」として科学者の社会的責任がうたわれたが、化学関連の学協会は、学術の振興のみならず、健全な化学産業のあり方についてもより積極的に政策に向けた科学的助言をなすべきである。

化学産業は文明社会との関係において、自らの持続的発展に向けて努力を惜しむべきではない。現世代は文明を直視した上で、倫理観、行動規範を正し、知を統合して後継世代に責任を果たさねばならない。世界のミレニアル世代は既に正しく認識するとされるが、日本も含めてすべての世代がリスクと利便のバランスを客観的に評価する批判的思考力を育んでほしい。その上で産業界に対して合理的な要請をなすべきで、生活の利便性や経済的恩恵を最大化するならば、一定のリスクもまた受容しなければならない。低炭素社会のための二酸化炭素排出削減にむけて1トンあたり四千円必要とされる「炭素税」についても、大規模排出者とエネルギー消費者だけに課して済むわけではない。

求められる人材

化学産業には、時代の変化への対応能力と自己変革能力が求められる。技術の日常生活への浸透ゆえに継続的責務をもつものの、今後とも下請け事業ではなく、主体性を持って発展するためには、単なる技術水準(ハードパワー)の維持のための専門人材のみならず、新鮮な社会感覚(ソフトパワー)を持つ若者の確保が不可欠である。

大学工学部改革、異業種連携だけでは間に合わない。国民の産業技術への理解と共感を育むためにも、若い世代、幼い子供たちには真っ当な科学観、技術観、産業観を醸成してほしい。

若い世代の理解を得るために

スポーツや芸術と同様に、学校教育だけでは全く不十分である。技術普及のための叢書(そうしょ)の発行、魅力ある映像制作、ワークショップ開催、さらに学産官が協力し、科学から産業技術まで幅広く体験できる科学館などの場を充実させることを通して、「生きた科学」の面白さと化学産業の「実感できる社会的インパクト」を示すことが大切だと思っている。東京の日本科学未来館や科学技術館のイベントは水準が非常に高く、中国や韓国の学生、生徒たちが遠路大挙して見学に訪れる。わが国の忙しすぎる学校の無関心ぶりに寂しい気がしている。

化学産業界、特にB-to-Bものづくり企業の活動の意義は、一般国民には見え難い。究極の顧客にまで気を配ることで自らのB-to-C感覚を磨き、工夫を凝らして多くの人に教育機会を提供すべきであろう。筆者は学生時代に、たびたび産業見本市の企業展示場を訪ね、また大学の専攻学科や卒業研究配属講座が催す有名企業工場の見学会を通じて、化学技術の力強さに確信を得た。今春、国立科学博物館の「日本を変えた千の技術博」を訪れて、明治維新から150年にわたる先人たちの情熱に新たな感銘を受けた。青少年を含む来館者たちが一様に自らの可能性に自信を得たであろう。一方、最先端の科学技術も展示される「国際ナノテクノロジー総合展・技術会議」などの民間行事にも圧倒的水準のものがあり、大学構内に引きこもる学生たちを感激させるに十分な機会を提供するが、なぜか参加者の多くは職業技術者に限られる。一般見学者も多くはないと見受けた。教育機会の喪失はもったいないことである。