2019年7月26日

(36)平成の時代の科学技術

元号が平成から令和に変わるころ、さまざまなメディアから平成時代の科学についての意見を求められた。「失われた30年」ともいわれる日本の経済状況を捉えて「低迷」「敗北」はては「崩壊の平成」などの文字が躍る中、科学についても同様の自虐的論評を求めたと思われる。もとより科学の流れを元号ごとに区切ることに意味はないが、私はあえて「平成時代に、科学技術はわが国歴史上最高の国際水準に達した」と答えてきた。もちろん、前半と後半では状況は大きく異なり、天候で言えば「晴れのち曇り」で、快晴を望む令和の時代に現状水準の維持でいいというわけでは全くない。

科学と科学技術の水準

明治、大正、そして昭和の半ばまで、わが国の科学(真理の探究)は多くの碩学(せきがく)の導きで国家の知的品格の向上に大きく貢献した。一方で科学技術(科学に基づく技術)が敗戦からの復興、さらなる国力の源泉と位置付けられたのは、昭和31年(1956年)に科学技術庁が設立されてからであろう。その33年後、平成に入り経済はバブル崩壊を機に長期停滞期を迎えるが、科学と科学技術はそれまでの国家政策、企業の経営方針、さらに志ある研究者、技術者たちの努力が整合して発展を続け、さまざまな花を咲かせた。この科学技術の進展は産業競争力につながり、世界有数の経済大国の地位形成に寄与したものと理解する。

科学者天皇の存在

この時代にわが国が他国とは異なり「科学者天皇」を頂いていたことは特筆に値する。筆者も一科学者あるいは組織の責任者として、たびたびお目にかかる機会を得たが、長年にわたる科学界への温かいお励ましに感謝の念を捧げたい。米国の科学誌「サイエンス」は平成4年(1992年)に日本の科学の特集号を組み、当時活躍する科学者を紹介し興隆の状況を報じた。陛下はすでにハゼの研究で専門学界では著名であったが、ここに「日本の科学を育てた人々」と題する論文を寄稿され、その存在感を科学界全体に広められた。日本の科学の黎明(れいめい)期における外国人指導者への感謝とともに「科学は真理を求めるものである以上、その研究は、国境をはじめとするさまざまな境界を越え、お互いが協力しあって進められることが望ましい」とまことに本質的なお考えを披露されている。

科学教科書の画一化と我が国の教育

まさにその通りである。科学の発展のためには、価値観の画一化や人的能力の規格化を避け、それぞれの国が特色ある教育を行い、多様な若者を育て循環、共同を促進することが不可欠である。広範な文化的背景、文明環境を確保することなく、いたずらに「英語モノカルチャー」のまん延、情報技術活用の徹底やデジタル専制化に任せれば知の創造性は衰える。

多様な価値観の担保の観点から、世界の大学教育における深刻な問題の一つは教科書の画一化である。現在、米国でも主要な5出版社が80%の教科書出版シェアを占めるという。この寡占化は学生の経済負担のみならず、教育の普遍的な影響力を考えれば、科学論文誌問題(コラム21)にも増して由々しき事柄である。残念ながら、日本の学術と教育もまた受動的であり続け、あるべき主体性の確保についての危機感があまりに薄い。我々は何を学び、いかなる精神を伝承するのか、知識や思考論理の選択を海外の商業出版社に委ねるのではなく、自ら判断する必要があろう。

有機化学分野では、学部において米英著者による定評ある教科書ないしはその日本語訳本の使用が大半であり、筆者もこの傾向に加担してきた。しかし、まだ批判力の乏しい学生にとって初めて出会う教科書はいわば「聖書」であり、教員は伝道者の役割を果たす。もっと多様な「教典」があっていい。日本の教授たちは学生に対し一様に「教科書に載るような研究をしろ」と指導するが、ではいったい誰が教科書をつくるのか。その物語の題材選択と筋書きは、意識せずとも著者の背景を通した主観に依存せざるを得ない。そこに日本人の貢献は正当に評価されてきただろうか。やや物足りなさを感じている。確かに各大学が採択する訳書はおおむね優れていると判断されるが、この価値基準とて我々が長年受けてきた学術的洗脳の結果であろう。高等教育は初等中等教育と異なる。大学においては学問、教育の自由の観点から教科書検定は無用であり、専門学会とも協力して大学ごとに信条を貫くべきである。

グローバルな頭脳循環、授業の英語化などの流れとは別問題で、その流れに逆行すべきと唱えるつもりはない。むしろ、であればこそである。ちなみにドイツはかつて自国を築いてきた科学の伝統に誇りを持ち、積極的な専門書籍出版を含め化学教育に自信が顕著に表われている。また自主創新を掲げる中国では翻訳本は歓迎されないとも聞いている。

自らの力量不足を反省する

なぜ、日本で科学を教え、学ぶのか。たとえ科学に国境がなく、また「英語の世紀」であっても、日本の大学は後継世代に対し、世界を俯瞰(ふかん)しつつも独自の思想形成に一定の責任を持つはずである。しかしながら、専門家たちの興味は細分化の一途をたどり、それぞれが自ら知識体系を編み出し、伝えることが困難になりつつある。筆者はこの懸念をかねてから持ち続け、平成初頭からは「大学院講義有機化学」(東京化学同人)の編集出版を主導して、平成の終わりにはようやくその改訂版を発刊した。出来栄えは学生諸君の評価に委ねるが、決して満足できるとは言えない。

実は国内にとどまらず、世界に向けた英語版を出版したかった。目標未達は編集長の力量不足が全てであるが、後進にことを託しておきたい。一方で残念ながら、執筆を分担してくれた現役教員の意欲が著しく低迷する。責任を感じつつも時間が決定的に不足する。大学教員の評価があまりに教育軽視、研究論文偏重であることに起因するが、さらに過重な非研究教育業務の負担が日常の読書量と内容を極端に制限している。教育は無用、論文発表を強要する大学制度が破綻の危機にあることは明白である。

日本を大切にした科学者たち

近代科学は西洋のキリスト教精神に由来する。しかし、先達たちはこの思想の模倣にとどまらず、独特の知恵と技量を紡ぎつつ、その発展に少なからず貢献してきた。もとより自国の成果を独善的に誇示すべきではないが、その献身には一定の敬意を払わねばなるまい。

寺田寅彦は、国際的業績を残しながらも「尺八の音響理論」「線香花火の物理学、化学」「ツバキの落下運動」など身辺や日本の風土の科学の大切さを唱えた。筆者たちが学んだ有機化学分野の先駆者は寺田と同年代の真島利行(東北帝国大学名誉教授、大阪帝国大学総長)であるが、欧州に学んだ後、やはり日本人らしい化学をと考え、漆の成分や、紫根、紅花などの研究を通して後進を勇気づけ導いた。さらに有機合成化学分野の産業との関連を重視し、厳しい第二次世界大戦さなかに国力増強に向けて産官学の集約的活動をも先導した情熱に感銘を受ける。

真島利行に続き、東北大学を中心に野副鉄男博士(台湾で七角形のベンゼン様化合物を発見し、文化勲章を受章)を含む10名ぐらいの第二世代の高弟が育つが、この流れを継いだのが向山光昭博士(東京工業大学・東京大学名誉教授、文化勲章受章者)であった。昭和の後半から平成の時代、「三代目」の純日本産科学者としての強い自負を持ち、世界に通用する、しかし日本らしい化学を進め、実践先行主義の若者をつくることに生涯を捧げた。そして54名の教授を輩出。日本化学会のChemistry Letters誌の創刊を推進、その後ほぼ全ての論文をこの英文速報誌に発表し続けた。当時の科学誌知名度や後のインパクトファクター(コラム20)などには関心がなく、日本を起点とするShogun(将軍、1980年代の米国映画の題名)としての独特の振る舞いが印象に残るが、その生きざまを世界の化学界は高く評価した。

対照的なのが同年代の中西香爾博士、まさに「さまよえる化学者」で学術外交家としても格別に華やかな存在であった。香港に生まれ、幼時を外地で過ごして帰国、名古屋大学で天然物有機化合物を学び、東北大学を経て、昭和44年(1969年)から米国コロンビア大学を本拠とした。重要な生物活性物質の構造、機能研究にとどまらず、多彩な分野連携により視覚の化学機構の解明に傾注した。終戦後間もない昭和25年(1950年)、25歳で米国に留学し、改めてわが国の天然物有機化学をけん引することを自らの使命とした。生涯にわたる国際的な奔走が、若者達に自信と自覚を植え付け、また世界の日本化学界への理解を助けた。個性尊重で群れることをひたすら嫌った。日本の伝統を重んじるが、文部省の大学政策は天敵にも等しく、大学生の同一大学院進学、講座制、全教員の終身雇用制などを痛烈に批判し続けた。しかし、政府は文化勲章を授与して生涯の貢献を多とした。

令和の時代に期待したい

わが国化学界は平成が終わる昨年末以来、この傑出した二人のサムライを失った。しかしその遺志を継ぐ若者も多く存在する。科学の発展に時間の切れ目はないが、日本人だけが元号の移行をもって時代の変化を感知し、明日を思う機会を持つ。わが国が令和のグローバル時代に主体的に生きるには、諸外国の価値観の追従だけでは全く不十分である。世界標準化は当然だが、さらに差異化を組み入れた「格段に優れた」教育研究制度が必要となる。若い世代には「令和維新の志」をもってさらなる高みを目指してほしい。