2019年2月13日

(33)日本人らしい科学はあるか

バチカンには400年の歴史を誇るローマ法王庁科学アカデミーがあり、今では世界各国から選出された会員が科学と人類社会にかかわる諸問題を議論している。もはやキリスト教精神だけが近代科学の進歩を担うというわけではない。

グローバル化とデジタル情報化が急速に進む時代であるが、英語と情報技術を駆使して世界全ての画一化、同化を図り、ひたすら経済成長、市場拡大競争に明け暮れることは人類として賢明でない。多様な非英語圏諸国も自らの足元を確認しつつ、それぞれに豊かな社会の構築に貢献しなければならない。

「科学に国境はない。しかし科学者には祖国がある」はパスツールの名言である。彼は19世紀のナポレオン三世時代、プロシアとの戦争にも敗れる困難な時代を生きたが、折しも、芸術文化ではロマン主義から印象派が花ひらく時代でもあった。あるいは自らの大きな科学的功績よりも、フランス国民であることを誇りとしていたのかもしれない。

日本が世界に伍していくために

日本人は飛鳥、平安時代から、極東に位置する島国の中で変化に富む四季に恵まれた美しい自然の中で生きてきた。長く海に囲まれ孤立した状態にあり、民族的均一性が高く、いささか特別な日本語を駆使してきた。心地よい環境にある一方で、多様性に欠けることには留意が必要である。

明治以来、先達たちは自らの感性を生かして、独特の科学の花を咲かせてきた。第二次世界大戦後は、国を挙げての「貧困からの脱却」の意思と勤勉な国民性が、目を見張る科学技術の進展をもたらした。時代は移り、この熾烈な競争社会に日本が十分な存在感を維持する道は、やはり自らの特質を認識し最大限生かすことである。それが競争力の根源であり、また国際協調における役割でもある。

もとより、このグローバルな知識資本化、情報化時代に、まず国全体が世界標準制度に基づき一定水準の質と量を維持した活動を行うことは不可欠である(コラム32)。しかし、欧米が先導するこの枠組みを唯々諾々受け入れて盲目的に追従することがあってはならない。常に批判精神を保ちつつ、特別な付加価値をつける工夫なくして、科学的発見、革新的技術開発で他を凌駕することはできない。尊厳維持の鍵は若い世代の情熱と可能性にあるが、彼らが欧米諸国に真似できない特有の日本文化に根付く「伝家の宝刀」を磨き続けることである。これではじめて世界に輝く存在となる。ただし、特徴は利点でもあり欠点でもあることに留意すべきである。国家としていかに生きるか、個人としていかに生きるか、自主的かつ真剣に考えてみてほしい。

日本人の創造性の特質

科学技術は人の営みであり、知性と感性が必要である。科学は合理的で客観であるが、日本人の創造には、稀なる勤勉さと特筆すべき文化背景がある。私たちは独特の思考過程と美意識を受け継いできた。抽象よりは具体的な技能思考の傾向がある。革新挑戦的というよりは、分をわきまえて保守、抑制的ではあるが、継続工程に様々に工夫を凝らし、真心を込めて本物をつくる。匠の技には職人技術の巧拙だけでなく、柔らかく暖かく優しい思い入れがこもる。大学制度も実学的色彩に富み、殖産興業にも関心を示す。この背景が、特徴ある科学や技術を生んできたのではないか。

自らの作品の品質にはあくまでこだわる。昨今多発する工業製品の品質管理にかかわる不正は、誇り高き匠たちの思いにもとる出来事で、産業界の精神の劣化、矜持の失墜によるものである。社会全体の短期的成果主義の蔓延の結果でもあろうが、個々の企業組織のみならず、国の信用を著しくおとしめる事態である。

科学技術の進展の軌跡は多様である。その時代の主流の課題には世界から多くの人、組織が参入し先端性を競う。日進月歩、漸進的(incremental)な進歩をもたらすが、ナンバーワンの地位獲得の競争は厳しく、財力も含め総合的な力勝負でもある。戦略性に富み、成果効率主義、優勝劣敗、支配欲、自己顕示を是とする欧米人が得意とするところであろう。近年の中国の研究社会にも同様の傾向がみられ、わが国にもこの熾烈な環境を生き抜くたくましい若者の育成が不可欠である。

もう一つは、0から1、つまり全く新しい価値を生む独自の、ときに孤独な営みである。組織力や投資額の多寡ではなく個人的な着眼点、自ら本質的な問題を見つける才能が物を言うが、このオンリーワンの萌芽がときに大きな流れをつくり、破壊的(disruptive)な効果を生むことがある。激烈な対決や競争を好まず、謙譲、自己犠牲、相互扶助などを尊重する優しく控えめな日本人には適した生き方ではなかろうか。戦後の復興期の欧米先進国と距離感があった時代に、華々しい課題とは一線を画してひたすら自問自答、忍耐強くわが道を歩み「日本らしい科学」を創り、世界的評価を得た研究者も少なくない。この生き方もまた温存したいものである。

徒弟制度の功罪

日本式教育研究制度には科学振興の観点から大きな問題がある。他の社会セクターとも共通する日本独特の流儀、あるいは異形の職業ギルド、徒弟制度によって後継者が育成されてきた。伝統を重んじる芸術、工芸は一子相伝で、特に選ばれた「一子」だけが正統な門外不出の技を継承することになる。かつて科学技術社会においても、長期継続性の確保がときに顕著な成功例を生んできたことは間違いない。しかし、今後とも家元、徒弟制度を拡大適用して多数の弟子を囲い込み続ければ、国として迅速な分野の進歩、拡大、変容に対応できなくなる。

すでに多くの細分化された分野において、均質な人材の大量育成による堅固な縦型の村社会が形成されている。横型連携が不調で、なされるべき分野革新、新陳代謝が著しく妨げられる状況にある。負の効果は多岐にわたり、文化や社会制度を異にする外国籍の人達の排除原因でもある。先進の欧州諸国の科学も徒弟制度を捨てて大きく進展した。科学の飛躍は、しばしば権威に逆らう若き異端、前衛の徒によってもたらされるのである。

科学を創る虫の眼、鳥の眼、魚の眼

日本人は総じて優れた「虫の眼」を持つ。物の観察、認識が緻密で、きめ細かく細部の違いにまで敏感でこだわりをもつ。他から影響を受けない静謐な「ガラパコス的な空間」の中で、決まりごとと様式を守り、忍耐強く継続して働き、完全を求める。「お家芸」の素晴らしい芸術、工芸の創造者たちには、巨大な大陸、また交通の激しく忙しく情報に曝された地域に住む人とは明らかに違う佇まいを感じる。

一方、英国は同じく島国であるが、海洋国家である。人びとは「鳥の眼」をもつ。近隣国との交流も盛んであるが、鳥は空を高く飛びながら、世界を俯瞰しながら、大局観を養う。現在でも138の英国大学が多様な文化を理解する能力を養うために、アジアを中心に高等教育を展開している。

これからの時代の指導者たちは日常的に複数の言葉を駆使しながら、国境を物ともせずにグローバルに生きなければ通用しないであろう。「虫の眼」と「鳥の眼」を併せ持つことが必要である。さらに付け加えれば「魚の眼」も求められる。現在目で直接捉えられるものが全てではなく、陸地や空からは観察できない海の中にある大きな可能性を探る能力である。