2017年12月26日

(22)わが国の科学出版界の惨状

 残念ながら、わが国で発行される科学論文誌の国際的な存在感はあまりに乏しい。欧米の特定出版社による寡占化は、主権国家としての学問の自由、科学技術インテリジェンス(知的安全保障)、また世界の出版市場における輸出入バランスの観点から、見過ごせない状況にある。

 筆者は、十数年にわたり二つの国際化学誌の編集長を務め、その創刊と再生に関わり、また名誉的な役割も含め約50誌の編集顧問も務めてきた。国内では日本化学会の欧文誌の編集長の経験もある。財政収支に不案内ながら、わが国の状況は、誠に厳しいと感じており、折りにふれて、この深刻な問題を取り上げてきた。しかし、いずれの学術、科学技術関係セクターからも反応がなく、甚だ残念である。

専門学会誌の果たしてきた役割

 決して著名誌が全てではない。ノーベル化学賞をもたらす本当の端緒となった発見の多くは、地味な専門誌に、特に飾ることなく誠実かつ謙虚な形で、時には英語でない母国語でさえ発表されてきた。真の科学的価値は論文誌名や、前述の被引用数とは無関係である。

 おそらく誠実ではあろうが尊大に見えるブランド誌の編集者の指図や、時間のかかる煩雑な交渉を避けて、あくまで自らの主張を貫くべく地道な専門誌に発表したい研究者は少なくない。これこそがごく自然かつ健全な傾向でないか。より緩やかな時代に研究生活を過ごした私の友人科学者たちにとっても現在の有名誌は決して第一選択肢ではなかった。ちなみに、私自身も化学専門誌への投稿を習慣とした。Science誌には僅か3編、Nature誌には1編しか発表していないので、昨今の生命科学分野なら国立大学教授職に不適格であったかもしれない。

 昨年、わが国が初めて元素名命名権を得た113番元素ニホニウムの合成の成果は、森田浩介博士はじめ理化学研究所の研究者たちの思い入れもあり、当初から日本物理学会の英文誌(Journal of the Physical Society of Japan)に発表された。

科学論文誌は学術書とどこが違うか

 今でも専門学協会の論文誌の定期的刊行は、当該分野の発展のために会員たちが主体的に運営している。論文寄稿者と購読者の大多数は会員であり、基本的に非営利である。一方、不思議なことに商業科学誌は市場にありながら、やはり寄稿者が原稿料支払いなどの経済的利益を受けることはない。にもかかわらず、ブランド誌は絶大な影響力をもつため、自らが属する専門学協会の論文誌を差し置いても、進んで投稿することになる。そして彼らの所属機関が主たる購入顧客として、この知の支配者の高利益を約束する。昔のように研究者が直接的に身銭を切ることもない。

 これに対し、専門学術書や教科書の発行のあり方は、世の中によほど分かりやすい。通常の書籍の場合と同じく執筆者は出版社と契約を結び、原稿料や発行部数に応じて印税を受け取る。なお、書籍は一般の書店で販売され、直接に恩恵を受ける研究者、大学、研究機関、学生たちが購入している。

学問の自由を堅持したい

 政治、経済にとどまらず、情報発信は国際社会に大きな影響力を及ぼす。国立国会図書館には「真理がわれらを自由にする」の銘文が刻まれているが、また「歴史は勝者によって記述される」とも言われる。「真理」がいかなる手続きを経て、どこに記述され、世界にいかに伝えられるかは、国家としても看過できない問題である。もとより科学は国家を超越し、アカデミアの科学情報は客観的かつ公正に、世界で共有されるべきである。また、独創はしばしば母国語による思考から生まれる。しかし同時に、各国の研究者たちの背景、価値観は多様であるために、意図せずとも主観的に説を唱えがちであるのが現実である。

 このままではわが国の学問の自由は制約され続ける。研究者は、自己決定権を堅持すべきである。それぞれに出版編集者や論文審査員と対峙すべきであり、決して自らの思考や主張が、理不尽に偏見、不公正に屈することがあってはならない。従って、この「英語の世紀」に、わが国が科学立国としての主権を担保しつつ、世界に伍して生きるためには、存在感のある英文の科学論文誌の発行が不可欠の条件であるといえる。

 しかし現実には、わが国出版界が、グローバル化、高度IT情報化、知識資本化の観点で決定的に劣後している。わが国の科学技術を司る行政、研究費配分機関、学術会議、そして選ばれし研究者たちは、実際の科学技術力にそぐわない主体性喪失の事態をいかに認識しているのだろうか。他人事ではない。停滞の最大の原因は、長年にわたるアカデミアにおける指導者層の自己中心的な狭い了見、無責任、怠慢である。また、自然科学にも増してより主観的で、大きな社会的影響力をもつ人文学、社会科学の海外発信力は如何なるものであろうか。戦後の「進歩的言論界」に与して若者たちの思想を指導したわが国の有名出版社も、内向きでビジネスモデルさえつくれず、また科学と社会をつなぐべき言論人、有力サイエンスライターも育成していない。凋落を導いた無気力、責任放棄をどう考えているか。

まず日本発の教科書を

 まず、わが国の出版界は学界と協力して、高等教育にもっと責任を果たすべきである。海外に通じる英語版教科書の出版が望ましいが、まずは日本語版であろう。学生は大学に入ると授業で「将来、教科書に一行でも載るような研究をしろ」と喝を入れられる。ところが、わが国の大学や大学院教科書の製作能力が極めて弱く、少なくとも化学分野では海外依存が甚だしく、一般評価の高い外国製教科書ないしその訳書を使用する傾向にある。記述内容は当然、欧米の歴史観や言い伝えに従い、著者の意図の有無に関わらず、わが国先達の独自性ある科学的貢献の記述を避けがちとなる。もとより高等教育は初等、中等教育とは異なり、また科学に国境はないが、学生が最初に接する知識体系であるがゆえに、訳書依存の授業が引き起こす教育的不都合は明白である。

 優れた教科書は大半の論文誌よりは、より広く次世代育成に益するところが多いはずである。かつては先輩諸氏による名著もいくつかあり、私自身も大学院生のための有機化学の教科書づくりに深くかかわった。しかし残念ながら、後継の教員たちの教科書執筆意欲は低い。分野細分化傾向と共に、評価制度が「研究成果」を偏重し、「教育奉仕」を軽んずる結果、彼らの行動規範が変わったのではないかと憂慮している。

 さらに、専門書(モノグラフ・シリーズなど)、一般向け科学書など社会教育への関心も格段に高めてほしい。そのためには外来術語のカタカナ表記を最小限にとどめ、言語学者の助力を得て適切な翻訳に努めなければならない。かつて専門分野ごとに30編近くあった文部省お墨付きの「学術用語集」や、信頼すべき辞典類の増補改訂の行方が気にかかる。国の学術が無責任なウェブ検索に任されていいわけがない。中国の様子は全く異なる。北京の書店へ行き、科学、理科の書物棚が長く、また立派な漢英、英漢科学辞書があることに感心した。青少年や一般人の科学理解力向上は、必ず将来社会を照らすはずである。