第321回「AI仮想細胞“増殖”着々」
近年、人工知能(AI)を活用した「仮想細胞(Virtual Cell)」の研究開発が注目されている。生体分子を網羅的に解析するオミクス解析や、細胞内部の構造や分子を可視化するイメージングなど、最先端計測技術で得た大規模データをAIに学習させ、細胞の状態や機能を高精度に予測するモデルを構築する取り組みだ。
米が研究リード
仮想細胞の研究開発をけん引するのは、米国の慈善団体チャン・ザッカーバーグ・イニシアチブだ。2024年に「AI仮想細胞」構想を掲げ、今後10年間で数億ドル規模を投じる。25年2月には10億個の細胞データ収集を目指すプロジェクトを始動し、同年4月には、12種の生物に由来する1億1200万個の細胞データを学習したAI仮想細胞モデル「TranscriptFormer」を公開した。今後もモデル改良や新規開発を進める方針で、米国の半導体メーカーであるエヌビディアとの提携強化も進め、開発の加速が見込まれる。
米国の非営利研究機関アーク研究所も、仮想細胞モデル作成に取り組んでいる。3億個を超える細胞データからなる「アーク仮想細胞アトラス」を構築し、25年6月には、このアトラスのデータも含む1億6700万個のヒト細胞データを学習したモデル「STATE」を発表した。また、同研究所が主催する「仮想細胞チャレンジ」は、参加者が仮想細胞モデルを構築しその予測精度を競う国際公開コンテストで、研究者層の拡大とモデル性能の向上が期待されている。
産業応用に期待
生きた細胞を精緻に模した仮想細胞がコンピューター上で実現すれば、生命現象の理解を加速させる強力な研究ツールとなるであろう。さらに、医薬品開発やバイオ生産といった細胞機能を活用する産業への波及効果も大きい。例えば、新薬候補の効果や副作用を仮想細胞によって高精度に予測できれば、開発コストや期間を大幅に削減できる。
仮想細胞のようにライフサイエンスとAIを融合する取り組みが各国で進められる中、わが国においてもこれらの動向を踏まえた着実な取り組みが求められる。ライフサイエンスとAIの融合には、高品質なデータと高性能な計算資源が不可欠だ。実験自動化によるデータ収集の効率化、データを連携し共有するデータ基盤の整備、計算資源へのアクセス向上、これらを担う人材の育成といった取り組みを進めることは、わが国の研究力強化において重要である。

※本記事は 日刊工業新聞2026年1月16日号に掲載されたものです。
<執筆者>
戸田 智美 CRDSフェロー(ライフサイエンス・臨床医学ユニット)
東京大学大学院農学生命科学研究科修士課程修了。ライフサイエンス関連のテーマを対象に調査・提言を実施。修士(農学)。
<日刊工業新聞 電子版>
科学技術の潮流(321)AI仮想細胞「増殖」着々(外部リンク)