エッセイ #24「専門家と市民の相互啓蒙:科学コミュニケーターとしてのヒューム」
言説化の取り組み | 2025年9月12日

- 高萩 智也 創価大学 学士課程教育機構 助教
2022年採択出口プロジェクト:コミュニティのスマート化がもたらすELSIと四次元共創モデルの実践的検討
キーワード Ver.2.0:「専門家」や「市民」とは誰のこと?それぞれの役割はなに?
科学研究や技術開発が急速にかつ複雑に進んでいく現代において、一般市民である私たちがその成果やリスクを直接的に知ることはほとんど不可能である。そこで、科学技術について、専門家にかわって市民にわかりやすく説明する仕事が必要になる。現代では、そのような仕事のことを「科学コミュニケーション」と呼び、それに従事する人々のことを「科学コミュニケーター」と呼ぶ。
科学コミュニケーターの必要性が盛んに叫ばれるようになったのは、かなり最近のことである。しかし実は、今から300年近くも前にこのことに気がつき、自らその使命を担うと宣言した人物がいた。それが、デイヴィッド・ヒューム(1711–1776)だ。
ヒュームは今でこそ西洋を代表する哲学者とされているが、生前はむしろエッセイストとして人気を博していた。『道徳政治論集』というエッセイ集は、イギリスを超えて、ヨーロッパの各国で盛んに読まれていたのである。
このエッセイ集には「エッセイを書くことについて」というエッセイが掲載されていた。ほんの数頁の小品だが、まさにそこにおいてヒュームは、自分が科学コミュニケーターとなり、市民と専門家の相互啓蒙を図ることを—もちろん、その言葉自体は使っていないが—宣言している。
以下で、その内容を簡単に紹介してみよう。
ヒュームは、まず、知的活動に関心のある人々を「学者」と「会話好き」という二つのタイプに分ける。前者は抽象的な物事を思索する人々であり、ある程度の孤独を必要とする。後者は日常の諸事を考察する人々であり、社交を必要とする。それぞれ、ほとんど専門家と市民に合致するとみなしてよい。ヒュームによれば、本来、両者は活発に相互交流すべきなのだが、そうなってはこなかった。学者は象牙の塔に閉じこもってしまい、文体は酷く難解になり、浮世離れした学説を出して憚らなくなった。また、会話好きな人々も日々の省察を怠って、内容の無いおしゃべりや噂話をすることに甘んじるようになった。これは学術活動と日常的社交の退廃を意味している。
では、学者と会話好きとの相互交流を再び活発化させ、両者を復興するためにはどうすればいいのか。「エッセイを書くこと」がヒュームの答えだ。彼の考えるエッセイとは、学者の好きな道徳や政治経済、文芸など、難解かもしれないが知性を刺激する主題をめぐる議論を、会話好きな人々の好む平易な文体で展開するものだった。エッセイは、学者と会話好きの両者の要素を兼ね備えるメディアとみなされたのである。
18世紀商業社会を生き、それを徹底的に考察したヒュームは、ここでも商業社会論的な比喩を用いる。エッセイとは、会話好きな人々の住む「社交の国」で広まっているレトリックや文体を学者の住む「学問の国」へと“輸入”するものであると同時に、「学問の国」で学者が発見した真理を「社交の国」へと“輸出”する手段なのだ。ヒュームは、こうした特長を持つメディアとしてのエッセイが、両者を再び繋ぐことになると信じてやまなかった。
ヒュームは、まさにそのようなエッセイの執筆を自分自身の使命と位置付ける。彼は、次のように述べている。
私は、自分自身を、学問の国から社交の国へと遣わされた一種の駐在員、あるいは大使であると考えずにはいられない。相互にこれほど依存し合う二つの国家間の親密な連携を促進することが、私自身の不断の義務だと考えている。(ヒューム, 1742)
ここには明らかに、科学コミュニケーターとしてのヒュームの自負と使命感が現れている。つまり、学者という専門家でありながら、知識を市民へと伝達するためにエッセイを書くことに身を捧げよう、というのだ。
以下は「エッセイを書くことについて」の内容から外れるが、ヒュームは、そもそも学問とは社会を改善し人々の幸福を増進するための活動だと考えていた。よって、学術的成果の正しさや有用性に関して、市民の常識に一定の判断基準が置かれるべきだということを彼は強調する。専門家は、常識をなおざりにした荒唐無稽な学説を吹聴してはならない。他方で市民も、迷信や熱狂に駆られ、誤った常識によって学説の真偽を判断してはならない。それは正しい学術的成果を否定し、社会や自分達の幸福を損ねることに繋がるからだ。市民もまた、適宜、常識をアップデートしなければならないのである。こうして、エッセイを書くという科学コミュニケーションは、専門家と市民が相互に高め合うための手段となる。18世紀にありながら、ヒュームは確実に、専門家と市民の相互交流、ひいては相互啓蒙の重要性を認識し、自らの使命をそこに見出していたのである。
ヒュームの知的遺産の紹介を通してではあるが、まさにこのエッセイが、エッセイというメディアの重要さを伝えるものとなっていることを、願ってやまない。
参考文献:ヒューム(1742)「エッセイを書くことについて」、『道徳・政治・文学論集』(田中敏弘 訳)名古屋大学出版会、2011年、430-433頁。
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