エッセイ #16「どこまでが生命?」
言説化の取り組み | 2024年12月13日

- 日比野 愛子 弘前大学 人文社会科学部 教授
2021年度採択日比野プロジェクト:持続可能社会に向けた細胞農業技術のELSI/RRIの検討
キーワード Ver.2.0:人間らしい生き方ってなに?動物やAIとはどう違う?
ロボットやAIといった新しい技術は、人と人以外、生命と生命以外の境界を曖昧にしていくものである。動物から取り出した細胞から食品を作り出す細胞農業技術(培養肉)もまた然り。生物の細胞を使って人工的に造られた食品は何ものなのか?そもそも細胞は生命なのか?曖昧な世界の中でどこに境界線が引かれるのかは、個人によって違いがあるとともに文化によっても常識とされる線の位置は異なる。さらに重要なのはそうした線の引き方が、新しい技術の受容に対して複雑な影響を与えることである。このエッセイでは、細胞農業技術や合成生物学をテーマに行った人々の意識調査をもとに、どこまでが生命だと捉えられているか、またその捉え方が技術判断に及ぼす影響を紹介してみたい。
私たちが2019年に日本人2000名を対象に行った調査では、培養肉に対する意識をさまざまな角度からたずねた。その中に、「以下の中からあなたが生命だと思うものをすべて選んでください」という項目が含まれている。回答者に選んでもらった対象は、バクテリア、原子、細胞、動物、植物、人間、DNA、ウィルスの8つであった。これらを生命であると多く選択された順に並べ替えると、人間(93%)、動物(91%)、植物(85%)、細胞(59%)、バクテリア(56%)、ウィルス(35%)、DNA(32%)、原子(12%)であった。細胞やバクテリアは、おおよそ意見が半々に分かれており、人々の認識の中では生命かそうでないモノなのかの中間的な位置づけにあるようだ。どこまでを生命と思うのかにはもちろん個人差があり、8つの対象のうち多くの対象を生命だと捉える人もいれば、比較的少ない対象だけが生命だと考える人もいる。
さて興味深いのは、生命だと思う範囲の広さが、培養肉の受け入れとどのように関係するかである。私たちの調査では培養肉を試しに食べてみたいかをたずねており、これに対して食べてみたいと答えた人と、そうではない人の考え方の特徴を調べてみた。その結果、生命だと思う対象の範囲が広い人ほど、培養肉を食べてみたいと答えることが分かった。項目を絞った場合にも同じ結果が出ており、たとえば細胞を生命だと思う人は培養肉を食べてみたいという。この結果は、一見意外かもしれない。もし細胞が生命なのだとしたら、その細胞からできた培養肉は(同じ仲間の)生命なのだから食べることに躊躇いを感じるのでは、という解釈もありうる。ただし、別の解釈もできて、生命を広く捉える見方とは、白黒はっきりつけるのではなく、世界にあるさまざまな存在を自分のよく知っている対象と何かしら関わりのあるものとして、連続線上にあるとものして捉える見方だと言える。こうした見方では、培養肉をはじめ新しく登場した技術への違和感が弱まるのではないか。
境界線の引き方が、新しい技術への意見に影響するという知見は、私たちが行った別の調査からも得られている。こちらはゲノム編集技術と合成生物学をテーマにしており、人々が両技術について持つ態度と、「私たち」の範囲をどこまで広く考えているかの関係性を探った。すなわち、自分と自分以外の線引きがどこに設定されるかが重要ではないかと考えたのだ。この調査では、「私たち」の範囲を自分の一部だと思うモノの多さから測定したところ、「私たち」の範囲が広いほどゲノム編集技術と合成生物学の両義性(メリットとデメリットの双方)を感じやすく、範囲が狭い場合には技術への意思判断を留保・先送りしやすいという傾向が見出された。
冒頭で述べたように、新しい技術の登場は社会にとっての「異者」の登場のようなものであり、人と人以外、生命と生命以外の境界を曖昧にしていく。このエッセイでは、意識調査の結果より、人々の認識上でのさまざまな線引きが、新技術の評価に影響することを紹介してきた。自分以外の存在が自分にどのように影響を与えるかという本エッセイ企画のテーマに照らすならば、この影響関係が逆向きに働く可能性も述べておきたい。新しい技術は異者としてのモノをどんどん作り出していく。モノが境界を曖昧にする世界では、翻って人間社会でのマイノリティや様々な意見に寛容となっていくといった影響関係もありうる。そうした未来像は楽観的にすぎるだろうか。
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