• 児玉 聡 京都大学 大学院文学研究科 教授

2021年度採択児玉プロジェクト:パンデミックのELSIアーカイブ化による感染症にレジリエントな社会構築(COVID-19関連課題)

キーワード Ver.2.0:状況・時代・人によって変わる言葉の意味や価値ってなに?
キーワード Ver.2.0:ものごとを決めるにはどんな要因や問題点があるの?

「有事」とは何だろうか。「平時」の対概念であるため、平時ではない状態が有事だという理解もあるだろう。しかし、平時についても、それは有事ではない状態だと説明されるなら、循環してあまり役に立たない。「有事法制」という表現を用いる防衛省は、「日本が外国から武力攻撃されたり、武力攻撃をされそうな時に首相が自衛隊に防衛のための出動を命令する状況のこと」を有事としているが、有事は法律で定められた言葉ではない。有事は戦争に結び付けられることが多いとはいえ、現在は戦争に限らず、大規模なテロ、大規模な災害なども有事と呼ばれる傾向にある。また、有事は、緊急事態、非常事態などと言い換えられることもある。

有事とされるこのような状況において、何が倫理的に適切かについて意見の対立が生じるのは、有事という非日常的な状況がどのぐらい平時とは異なるのかについて、想定が異なることに一因があるのかもしれない。これは、「最悪の事態」をどのぐらい最悪のものと想定するかという問題である。

この点について具体的に考えるために、主に米国で議論されている「危機的状況における医療水準(CSC: Crisis Standards of Care)」について取り上げよう。CSCは、大規模災害や公衆衛生上の危機発生時における医療水準のあり方を論じるものであり、2009年の新型インフルエンザのパンデミックの前後から米国科学アカデミーや関連学会で議論されているものである[1]

CSCの議論では、医療機関が提供できる医療水準について、患者数の急増(surge)に応じて、三つのレベルが区別されている。一つは災害などが起きていない通常の状況において提供できる医療水準である「通常の医療(conventional care)」である。これに対して、災害発生時などに患者数が急増するが、医療スタッフや医療機器をやりくりすることで通常の医療と「機能的に同等な医療(functionally equivalent care)」を提供できる段階が「有事の医療(contingency care)」である。この段階ではICUトリアージなどは実施してはならない。最後に、患者数があまりに増え、医療スタッフや医療機器が圧倒的に不足している場合が、「危機的状況の医療(crisis care)」と呼ばれる。この状況においては、患者中心(patient-centered)の医療から集団中心(population-centered)の医療に切り替えざるを得ず、ICUでのトリアージなどの「命の選別」も考慮されることになる。

CSCの議論は医療に限定したものであるが、「有事」について考えるうえで重要な示唆が二つある。第一に、有事と平時を二値的には捉えず連続体としている点である。先般のCovid-19パンデミックにおいても、いつ緊急事態宣言を出すかが大きな問題になったが、平時と有事の区別は必ずしも白か黒かというものではなく、どこで線引きをするか決めなければならない場合がある。

第二に、「有事」と「危機(的状況)」を区別している点である。例えば「有事であってもICUトリアージを行ってはいけない」と主張する者は、CSCにおける「有事」の定義、つまり「平時と機能的に同等の医療を提供できる段階」としての有事を想定している可能性がある。それに対して、「有事ではICUトリアージを行わざるをえない」と主張する者は、その一段上の段階である「危機的状況」、すなわち定義上、通常の医療水準とは同等の医療を提供できない状況として、有事を想定している可能性があるだろう。

そもそも日本の緊急事態宣言は、危機が来たことを宣言するものか、あるいは危機の到来を防止する措置を取るための宣言なのかが不明確なところがあったように思われる。有事の倫理について議論する場合には、こうした有事に関する想定にずれがないかを確認する必要がある[2]

[1] National Academies of Sciences Engineering and Medicine, Crisis Standards of Care: Ten Years of Successes and Challenges: Proceedings of a Workshop (Washington, DC: The National Academies Press, 2021)。なお、CSCについては、下記サイトでも紹介しているので、参照されたい。「パンデミックELSIのアーカイブ化」 https://www.pandemic-philosophy.com/ 2024年3月31日最終アクセス。

[2] 以上の内容は、信山社から近刊予定の若松良樹編『マスクとっていいですか(仮題)』所収の拙論「有事の倫理をめぐるいくつかの問い」の一部を修正したものである。

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