• 筒井 晴香 実践女子大学 人間社会学部社会デザイン学科 准教授

2020年度採択 中野PJ「ELSIを踏まえた自動運転技術の現場に即した社会実装手法の構築」

キーワード(初稿):「人間らしさ」とは

ELSIキーワードマップ(初稿)「『人間らしさ』とは」においては、新興技術が人間の生き方にもたらす影響が論点となっている。とりわけ注目されているのが、AIやロボット、自動運転車といった、自律的なふるまいをするような人工物だ。人間ではないが、人間のように自ら行為する人工物が社会の中に登場した時に、私たち自身や私たちの社会はどのように変化していくのか…といった問いは、多くの人の興味を惹くものだろう。

以下ではこの問いを考えるための手掛かりとして、人間と従来の自動車との関係に注目してみたい。これは的外れなアプローチに見えるかもしれない。というのも、(運転支援機能を備えた車は一般的になっているものの、基本的には)従来の自動車は人間によって運転される存在だからである。AIやロボットが私たちに問いを投げかけてくるのは、それらが自ら判断・行動するという点で人間により近く、それゆえに他の人工物とは一線を画するからではないか――そんなふうに思われるかもしれない。言い換えれば、人間やAI・ロボットは自律的な行為主体だが、自動車のような従来の人工物は客体に過ぎないのではないか、とも考えられる。

だが、自動車に関する哲学や社会学の議論を参照すると、人間と人工物の間の単純でない関係が見えてくる。

哲学者ピーター=ポール・フェルベークは著書『技術の道徳化』(鈴木俊洋訳、法政大学出版局、原著2011年、邦訳2015年)において、「技術的媒介」という観点から人工物の持つ道徳性を捉えた。フェルベークは、人間の行為は道具として用いる人工物に左右されず完全に自由なものだという立場も採らなければ、人工物が人間の行為を決定づけてしまうという考えにも与しない。フェルベークによれば、技術によって作られた人工物は、人間にとって様々な行為を可能にし、方向付ける媒介の役割を果たす。その点において、技術のあり方は道徳性を問われるのだ。より厳密に述べれば、行為を為すのは人間単体でもなければ、人間が使う人工物でもなく、両者が共同で行為を為すのである。

このような見方に照らせば、自動車もまた、人間にとって完全に自由になる道具というわけではなく、人間の行為を方向付けているという面が見えてくる。日常的にマイカーを使っていると、近所のコンビニにもついマイカーで行くようになってしまい、短距離を歩くこともおっくうになるといった事例はその一例と言えるだろう。

実際のところ、私たちの社会の中における自動車という存在を考えてみれば、それが単なる移動の手段というレベルを超えて、私たちの様々なふるまいや考え方に影響していることが見えてくる。趣味や愛着の対象、ステータスシンボル、誰かを乗せて会話するコミュニケーションの場…等々、自動車は多くの顔を持つ。マイク・フェザーストンらの編著による論集『自動車と移動の社会学』(近森高明訳、法政大学出版局、原著2005年、邦訳初版2010年)では、人間が運転者として自動車と組み合わさることで可能になる身体経験のあり方や 、消費文化における消費の対象としての自動車、一人で音楽を聴く場としての自動車など、私たちの生活や社会の構成要素としての自動車という存在が様々な論点から分析されている。

これらの議論から見えてくるのは、自動車という人工物が現代を生きる私たちのふるまいや暮らし、社会のあり方を形作っている――決定づけているわけではないが、広く深い影響を及ぼしている――という点だ。

人工物は、いわゆる自律的な存在ではないものであっても、単純な主体-客体関係には収まらないような相互性を人間との関係において示す。私たちはすでに、そのような人工物とともに、人工物に行為を形作られながら生きているのであり、それもまた「人間らしさ」だといえる。AI・ロボットや自動運転車といった新たな技術について考える際に、既存の人工物と人間の関係がどんなものか、そしてそれが技術の変化によってどのように変容しうるかを考えることから始めてみるのもよいだろう。

エッセイ一覧に戻る 言説化の取り組みへ戻る
トップへ