第7回 見上 公一(慶應義塾大学 理工学部 准教授)

「市民とは誰か?市民の意識を反映させるという挑戦」

2023年8月29日


写真 見上 公一

見上 公一

慶應義塾大学 理工学部 准教授

ゲノム関連技術のELSI(倫理的、法的、社会的課題)を扱う「ゲノム倫理」研究会の活動の一環として、2023年8月29日(火)、第7回オンラインセミナーが開催された。
「~市民とは誰か?市民の意識を反映させるという挑戦~」をテーマに、科学技術社会論の専門家である慶應義塾大学 理工学部 見上公一准教授が登壇。科学・技術のELSIの討議に市民の参加が欠かせないと考えられるようになった背景、“市民”の捉え方、自然科学者や人文・社会科学者の役割について講演した。

科学・技術を考える上で、なぜ「市民」が重要か?

背景:
科学・技術の急速な発展と、科学・技術の環境や人体への影響、倫理的問題が議論されるようになり、科学・技術を考える上で「市民」が重要という主張が強まってきた。

講演は、まず科学・技術と市民の関わりが議論されるようになった背景の解説から始まった。

歴史的には、レイチェル・カーソンの著書『沈黙の春』(1964年)により科学・技術の社会への影響が注目され、1970年代後半から80年代に、世界初の試験管ベビーの誕生(1978年)、アメリカ・スリーマイル島の原子力発電所事故(1979年)、チョルノービリの原子力発電所事故(1986年)といった出来事が重なったこと、また、ヒトゲノム解読、哺乳類クローン作製、ヒト胚性幹細胞の確立、遺伝子組換え作物の登場など20世紀終盤の生命科学分野の発展が、科学・技術と市民の関わりを重要視する背景となった、と見上准教授。

もう一つ、見上准教授が注目していたのが、1991年の冷戦の終結である。政治の緊張が解かれ、それが政策的な科学・技術の進歩の重要性の再考をもたらしたという。また、日本においては1995年に科学技術基本法が施行され、科学・技術の進め方について政治や法律、社会といった視点から議論されるようになったことが、科学・技術と市民の関係を近づけた面があると指摘した。

「市民」が重要視される理由:
科学・技術の研究開発が公的資源でまかなわれ、
科学・技術が社会のあり方を決める重要な要素となって、
適切な管理には専門家の見解だけでは不十分な場合があると考えられるようになってきた

その根底には、民主主義の理念と、科学技術ガバナンスの手法としての“市民参加”

科学・技術を考える上で「市民」が重要とされる理由として、見上准教授は、
①研究開発が公的事業として行われていること、
②身の回りにある科学・技術が社会や生活のあり方を決める重要な要素となっていること、
③科学・技術が社会に対して与える影響は幅広く、適切な管理には、専門家の見解だけでは不十分であり、多くの知見の集約が重要だと考えられるようになってきたこと、
の3点を挙げた。

見上准教授はさらに、民主主義の理念として、社会のありようを決める際には、「市民」の存在が重要であるという主張、また、科学技術ガバナンスにおいて、専門家に加え、「市民」の参加がその質を上げるという主張の2つがあることを紹介し、この講演では後者に注目するとした。

専門家としての市民

「市民」は、科学・技術が導入され、影響を与える「現場」「場面」=コンテクスト(文脈)において、生活者として(経験的な)理解を有する専門家

“市民”を、「科学・技術を議論する場において、“あるコンテクスト”の専門家として、自然科学者、人文・社会科学者と同等に位置づける」ことの必要性も解説。コンテクストとは、ここでは科学の知識あるいは技術、それらを基盤とする様々な機器やシステムが社会の中で実際に導入されて影響を与えることになる現場や場面を指す。そして、市民は、生活者として、今の状況や以前の状況を知り、経験的な理解を蓄積している各現場の専門家と捉えられるということだ。「市民は非専門家、専門的な知識を持っていない存在として話を聞くべきという考え方からは変わりつつある」と見上准教授。

自然科学者、人文・社会科学者も「市⺠」ではあるが、議論の場で「市⺠」として振る舞うには限界があると考えられる

一方で、自然科学者や人文・社会科学者も様々なコンテクストにおいて生活者であり、市民と位置づけられ、自然科学者や人文・社会科学者だけでも十分に市民の役割を果たせるのではないかという疑問も出てくる。これについて、見上准教授は、「自分の専門分野に関わる議論では、他のコンテクストよりも専門分野の理解が優先される可能性が高い」と話す。そのため、やはりあるコンテクストの専門家として、議論の場に加わる方がよいだろうという見解だ。

ベターな議論のために

科学・技術に関する議論に、全ての市⺠の意識を完全に反映させることは不可能。コンテクストも市⺠の意識も変化する。 しかし、むしろだからこそ、市⺠の意識を反映させるという挑戦は継続すべき

市民の意識を議論に反映する既存の方法として、見上准教授は、①市民運動、②当事者の選出、③ミニ・パブリックスの形成の3つを紹介。それぞれの課題として、例えば、市民運動はテーマ以外の他のコンテクストをカバーできない、当事者の選出は誰が当事者かを決めた時点でコンテクストが限定される、ミニ・パブリックスは自分の専門性以外に一般的にみんなが思いそうなことを議論に上げようとする、といった点を挙げ、「全ての市民の意識を完全な形で科学や技術の議論に反映させることは不可能。その前提を受け入れた上で、市民の意識を議論に反映させるにはどうしたらいいのかを考え、試行し続けることが重要」とした。

さらに、時間の経過によるコンテクストの変化やそれに伴う市民の意識の変化が起こるため、「多くの市民に意見を聞いたとしても、それが5年後も10年後も妥当な意見であるかについても考えなくてはならない」と話した。

そして、市民を巻き込んだ議論は、各自が違ったコンテクストから同じ科学・技術を見る経験となり、「その議論だけでは完璧でなく、まだ議論できてないコンテクストが存在をすることを意識するきっかけになる」と議論がもたらす気づきを説明。ただ、議論で出て来た内容や意見はそのまま反映するのではなく、精査することが必要であり、対話の機会を持つには、人や労力、時間、お金など多くの資源が要ることも指摘した。

最後に、「市民の存在は、科学・技術だけではなく、政治や社会のあり方の変化とともに重要性が認識されてきた。科学・技術を議論する場への市民の巻き込みは、今できることから始めて、高度化していく流れを作るべき。それには、皆さんのご協力をいただきたい」と締めくくった。

質疑応答

講演の後、参加者からは多くの質問が寄せられた。時間内に取り上げることができなかった質問も含め、見上准教授の回答を紹介する。

Q.1 科学・技術の議論に市民の意識を反映させるにあたり、それが有効な分野と有効でない分野があるように思いますが、いかがでしょうか。

A.1 一般的に、基礎(科学・技術)の分野は市民との関わりが非常に薄く、応用(科学・技術)はそのコンテクストがより見やすくなって議論がやりやすいと言われがちなのは確かです。ただ問題は、市民の意識の反映が有効か、そうでないかを事前に決めることができるのかということ。誰がどういった条件に基づいて、有効な分野とそうではない分野を判断できるか、明確な指標を我々は持っていません。どの分野においても市民の意識を反映させる努力をしながら、今どの段階にあるのかを確認していく、そういった手探りの作業が必要だと思います。

Q.2 専門家が持つ権威性は、市民との対話を妨げ得る要因であると同時に、専門家を専門家たらしめている要因でもあると考えます。市民の意識を反映させる場面における、専門家がとるべき立ち振る舞いについてお伺いしたいです。

A.2 専門家と市民の対話にコミュニケーションの流れができないのは、片方が専門家で、片方が非専門家であるという前提があるからではないかと思います。そのために専門家がより非専門家に近づいて対話をしようと試みることもありますが、本来なすべきは、専門家と専門家との対話という形に持っていくことです。違う専門分野の研究者たちと対話をする機会と同じように、市民を専門家として位置付けることが状況を変えるのではないかと思います。相手を専門家として扱うことでコミュニケーションが取れるようになってくると状況が変わるでしょう。

Q.3 専門家も市民も、コミュニケーションの専門家ではないと考えています。その場へ誘う存在や、その場をコミュニケートする存在の重要性を感じているところですが、我が国において不足しているプレイヤーがいるとすれば、どのような存在でしょうか、あるいは、いるにはいるが機能していないとした場合、機能させるにはどのような仕掛けが必要でしょうか。

A.3 我々は日々コミュニケーションを行っていて、相手に合わせて活用することができれば、専門性は必ずしも必要ではないのではないでしょうか。ファシリテーターがいれば、より柔軟になるかもしれませんが、その人がいないからコミュニケーションができないということではないはずです。コミュニケーションの促進に不足しているのは多くの場合には時間や、金銭的、あるいはエフォートなどの「余裕」です。1回ずつの対話に労力がかかり、必ずしも効率的ではない場合があります。しかし、それでもそれをやっていかなければいけないとすれば、余裕が必要なはずです。多くの場合、科学・技術の現場にはそういった余裕がないというのが実情です。

Q.4 市民の意見の反映の実践として参考にできる事例や成功例がありますか。

A.4 何をもって成功とするかが言えないから、難しいですね。議論によって良い結果が出たとしても、それが長期的に見て良いかどうかはわかりません。場合によっては悪い結果が出なかったというだけでも、その議論の意義があったと言えるかもしれません。その議論を行ったこと自体がプラスに働いている可能性もあります。直接的な意義だけではなく、他の議論で参考にされる状況があれば、議論の成功例ともいえるのかもしれません。

Q.5 対話と、意識や意見を汲み上げることの違いについてはいかがでしょう。

A.5 市民の意見を議論の中に組み込んでいくのは我々が取り組まなくてはいけない挑戦です。ただ、こちらが何の情報も提供しない、あるいは、こちらから社会的な関係性を持とうとしないままに意見だけくださいという形では、そのコンテクストの専門性を踏まえた話をしてもらえるとは思えません。お互いに知っている情報を提示し合うことによって、その内容がようやく見えてくるのです。そのコンテクストについて把握できる部分も把握できない部分も共感できる部分も共感できない部分もあると思いますが、情報の提示と対話を繰り返していくことによってより良い議論が成り立っていくはずです。

Q.6 情報の流通によって、意見を持つ背景となっている情報が様々な情報ソースに影響を受けていて、科学的に既に間違っていると考えられるようなものであったり、あるいは信憑性を持たないような内容に影響を受けていたりする可能性があるのではないでしょうか。

A.6 だからといって、市民の意見を聞かないというわけにはいかないですね。なぜその人たちはそういった意見を形成しているのかが重要だと思います。意見がない、関心が持てないというときも同様です。そういった状況が生まれている理由や背景にまで思考を巡らして、それを科学・技術の議論にも、あるいは政治・経済にも反映させていくという流れを作っていくしかありません。もう一つは、個人的な議論への参加の成功体験を増やしていくことも重要で、学びがあった、自分の意見がある程度きちんと聞いてもらえたという体験が次の議論への参加や科学・技術の知識への関心を促すかもしれません。

当日回答できなかった質問への回答

Q.7 新しい技術を社会に普及させようと思っている側(企業、行政など)が市民との対話の場を作って対話を重ねるには、かなりの時間と労力が必要だと思います。それだけの時間と労力に見合った具体的なメリットがないと進まないと思うのですが、どのようなメリットがあるのでしょうか? 

A.7 対話の機会を持つためには時間や労力、資金が必要という話をしましたが、それを負担した側に十分な、そして具体的なメリットが生じるかという考え方でアプローチをすると、対話の流れは進まないと思います。より良い社会を築くための公的な活動という位置づけで、行政や大学、企業などができる範囲でその負担を分担し合うことで実現していくのが望ましいと考えます。

Q.8 市民としての産業界に関する先生のお考えをお聞きできますでしょうか。行政の検討会等でも科学技術や先生のご専門の希少疾患やELSIの問題が取り上げられることが増えましたが、専門家としての市民・市民としての科学技術者・人文学者が招致されている一方で、市民としての産業界の声が欠如しがちと感じています。利益相反等の極めて繊細な事情があり、市民というよりは利益団体として捉えられてしまうのかもしれませんが、市民の声に基づいた科学技術を社会に実装していくため産業界の役割は見過ごせないと思います。この点はどのように考えると良いでしょうか。

A.8 「市民として」というと適切かわかりませんが、特定のコンテクストについての理解を有する専門組織としての企業・産業界の見解は重要なものだと思います。また、日本では企業が公的な取り組みに馴染まない存在として捉えられる傾向があることも事実だと思いますが、実際には企業の活動は科学・技術の成果を社会へと還元する道筋の一つとして重要な位置づけにあるはずです。一つのコンテクストに限定しない、つまり特定の企業や産業分野の見解だけにならないように注意をしながら、その意見をうまく汲み上げていくことが必要ではないでしょうか。

Q.9 科学者の議論への参加というのは、昨今の科学者に期待されていた役割を超えた新しい役割を提示するものだと感じ、拝聴していました。そのため、この役割を果たすためには、今後、科学者や大学の役割も変わっていく必要があるかと思いますが、この潮流を深化させるために、大学や行政や科学者が果たすべきことはどのようなことでしょうか?

Q.10 専門家は自分達に不利な情報は出さない印象がありますが、その問題はどう解決されるべきだと考えますか。

Q.11 一般に科学者は研究推進を第一に置いて、倫理上の問題や被験者への配慮は軽視されがちになるのでしょうか? 日本では、そうした問題に十分に配慮する科学者も多いような印象を受けるのですが、日本において、人文社会学など他分野の専門家が関与しなかった場合にはどのようなリスクが生じるのでしょうか?

A.9−11 科学者・研究者は多くの場合には自分の研究を通じて社会に貢献することを望んでいます。基礎研究であれば新しい知識を、応用研究であれば新しい技術を生み出すことによって、それが実現できると信じているからこそ、高いモチベーションをもって研究を行っているはずです。ただし、それは一つの想定であり、多くの場合には科学者本人は最後までそれを見届けることなく、次の研究へと進んでいくことになります。そして、その想定は一つの社会の見方を反映したものでしかないということは理解しなくてはいけません。科学者・研究者の関わり方に一つの正解はないと思いますが、他者との連携のもとで研究の成果が社会貢献につながるようにするためにも、異なる意見の存在に意識的になる機会を増やしていくことが重要だと思います。

Q.12 COVID-19の事例のように専門家同士でも見解が異なる場合、市民が振り回されることもあると思いますが、有効な対応策はあるのでしょうか

A.12 専門家という場合にそれは何らかの専門的な知識を持つことを意味しています。COVID-19でも、関わる専門性はウイルス学から免疫学、公衆衛生学などだけではなく、経済学や国際政治学、家族や社会などに関する社会学など、多岐にわたります。そして同じ分野であってもアプローチが違えば理解が異なることも十分に考えられます。市民がそのコンテクストや立場が違えば異なる意見を持つことが当然であるのと同じように、専門家同士でも見解が異なることが十分にあり得るのだということを理解することが第一歩となるのではないでしょうか。

参加者の声

  • 貴重なセミナーを開催していただき、どうもありがとうございました。
  • 市民が経験的な理解を有する専門家であることについて学んだ一方で、このような考え方が少しでも早く、サイエンティスト一般に伝播されることが、ELSI分野の研究の深化にも繋がってゆくと考えた。
  • ミニ・パブリックスの形成や科学技術コミュニケーションの場で、専門家が非専門家に近づくという点は別の意味で重要と思います(非専門家の理解や拡大的・発展的な議論のため)。「専門家」に関しては、コリンズの専門知論で重視しているスペシャリスト専門知(貢献的、対話的)やメタ専門知でのローカルな差別化が重要と思います。テーマや議論の目的に応じて、科学技術コミュニケータの要否はあってしかるべき。
  • コミュニケーションのために不足しているのが「余裕(時間的、金銭的、気持ち的な)」というコメントはとても納得感がありました。また、レクチャー後の事前質問を寄せられていた質問者の視点にも、学ばせていただきました。

参加者の所属(179名)
グラフ

TOPへ