• 瀬戸山 晃一 京都府立医科大学 大学院医学研究科 教授

2022年採択瀬戸山プロジェクト:公正なゲノム情報利活用のELSIラグを解消する法整備モデルの構築

キーワード Ver.2.0:ものごとを決めるにはどんな要因や問題点があるの? 法規制などへの対処 市民関与と社会的合意形成

2023年6月に制定されたゲノム医療推進法では、ゲノム情報に基づく「不当な差別」への対策を国に求めている。それを受けて厚労省に基本計画の策定ワーキンググループ(WG)が設置され1年半以上にわたり十数回開催されている。しかし、そこではゲノム情報のどのような利活用が「不当な差別」にあたるのかの明確な基準は示されていない。そもそも「不当な差別」という表現自体が語義矛盾と思われるかもしれない。なぜなら「不当な差別」は「不当でない差別」を想定した言い回しと捉えられるからである。

不当な差別を同定するためには、何が「不当でない差別」かを示すことで、不当な差別を映し出すことができるかもしれない。では、「不当でない差別」とは一体何であるのか?

我々は通常、遺伝的に能力にめぐまれた者が、親の経済力や教育投資などの恵まれた環境にも影響され大学入試で高得点を取り合格することを差別とは呼ばない。また既に癌等の病気が発症している者が生命保険に加入できないことを差別だとは非難しない。生命保険は、若い時に加入すれば保険料は安く設定され、高齢だと加入できなかったり、加入できても保険料が高く設定されていたりすることを年齢差別で無効だとは見做されない。また俳優やアナウンサーが、遺伝的に恵まれた外見が採用選考で考慮されても差別だという人はほとんどいないであろう。

保険では、リスクに応じて保険料を支払うという公平性の原則で運用されている。統計的に事故の多い若年層や事故発生率の高いスポーツカーの車両保険料は高く設定されている。人事選考では、視聴率や売上等の組織への貢献の期待値が高い者を採用する。このように採用する側や保険会社等にとっては、外見や年齢に基づき差別的に扱うもっともな理由や根拠がある。企業や保険会社側からすれば、それは「合理的な区別」をしているに過ぎない。では次にある者を差別的に排除するもっともな合理的な理由が存在すれば差別は正当化でき「不当な差別」ではなくなるかという問いを考える必要がある。

企業は育てるために採用した者に研修等の投資をする。しかし、能力に大差がなければ結婚や出産によって早期退職が過去の統計的に高い女性より、長く勤める期待値の高い男性の方をキャリアトラックとして採用される傾向にあることが指摘されている。女性医師は、子育てなどのワークライフバランスの関係から、眼科や皮膚科などの一定の診療科に進む傾向があるといわれており、外科等の医師が不足し医師が偏在する懸念から男性を入試で優遇する根拠があっても、女性差別だとして世間の非難を大学は浴びるであろう。他方、近年みられる女性教員限定の公募は、それが男性差別だとして無効になることはないが、もし男性教員限定公募で女性が応募できないとなると世間は黙っていないだろう。どうやら「不当な差別」か否かを決めている基準は、必ずしも選考する側にとってもっともな理由があるかどうかではなさそうである。その時代社会での支配的な感覚に左右されるものと言えよう。性別や人種等の属性に基づく差別は歴史的に顕著にみられてきたゆえに禁止すべきカテゴリーとして確立している。それにゲノム情報を加えるべきか否かが今社会に問われていると言える。

ゲノム情報が、その者の将来の健康状態や労働生産性の一定の予測値(指標)として用いられても不思議ではない。勿論、生活習慣などの環境因子の影響を一定程度受けるのでゲノム情報のみでは決められないが、年齢や事故率などのように一定のリスクという統計的な数値によって個別性を排除して保険料額に差異を設けられているのと同じ構造がある。環境要因が比較的少なく、遺伝率が高く、一定の癌等の重篤な遺伝性疾患を発症する可能性が高い者を発症していないにも関わらず、一定の職業に就けなくすることは「不当な差別」とみなせるであろうか? 例えば、高層ビルの高い工事現場で危険な作業をしている労働者が突然意識を失うことや、長距離バスの運転手が、突然発作に襲われて意識を失うことなど発症した際に人命に係わる職種において、意識喪失を引き起こす遺伝子変異を有することを考慮することは不当な差別に当たるであろうか? 

本人自身の命や安全を確保する目的で遺伝情報を利用することと第3者の命や安全を確保するために遺伝情報を用いることは異なる。前者は、本人自身を守るパターナリズム(自己危害防止原理)の問題になり、後者は「他者危害防止原理」の適用の問題となる。今後ゲノム情報は、労働者の健康管理や保健指導に使われてくる可能性が高い。また顧客等の安全配慮義務の観点から一定のゲノム情報を利活用することが考えられる。

たとえ情報を利用する側にとっての合理的な理由があってもゲノム情報の利活用をNOとすべき基準は何であるのか。これは企業と労働者、遺伝性疾患患者団体、その他の様々なステークホルダーによって、その線引基準は異なることが推察される。対話により合意できる基準構築が、ゲノムELSIにおいて対応が迫られている喫緊の根源的な問いであると言える。

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