• 奈須野 文槻 東京大学 大学院総合文化研究科 博士課程

2020年度採択 田中PJ「現代メディア空間におけるELSI構築と専門値の介入」

キーワード(初稿):「専門家」とはなにか

海からは怪獣が、空からはUFOが、そして時には新型コロナウイルス感染症のような病気が社会と人々の生活を危機に陥らせる。マンガやアニメ等のフィクションでも現実でもこのようなリスクに際して頼られるのは「◯◯博士」と呼ばれる白衣を着たキャラクターのような、医師や学者といった専門家だ。

フィクションではしばしばそんな「◯◯博士」の新発明が問題を鮮やかに解決する。しかし、世界を危機に陥れようとするマッドサイエンティストに立ち向かうフィクションもある。では現実の専門家はどうだろうか?

新型コロナウイルス感染症の事例で考えてみよう。2人の「博士」がノーベル賞を受賞したmRNAワクチンこそまさにそんな新発明!と単純に考えることができるだろうか。2020年3月に始まったパンデミックに対して、mRNAワクチンが実用化されたのは同年12月半ば。科学技術のもたらす効果的な手段のないそれまでの間、新型コロナウイルス感染症のリスクが手放しであったわけではない。この感染症に対処するため、各国において専門家と政府が対策のルールを作った。例えば日本では「三密回避」の呼びかけや、商店等の営業時間の短縮、自粛などの「ルール」作りが行われた。本論で言う「ルール」とは、社会における人の行動を決める法律から規範、そして人々間の空気感まで含む構造全般のことを広く指し示したい。話を新型コロナウイルス感染症に戻すと、ワクチンのような最先端科学技術の専門知による研究開発がなされたとしても、即座に問題が解決するわけではない。mRNAワクチンの場合も、安全性の確認、人々の間での安心感の醸成、国内での供給方法等のルールを作って初めて問題が解決した。

専門家は、最先端の科学技術や医療の知識を通じて、社会がリスクに対処するため極めて重要な役割を果たす。しかしそれだけが重要なわけではない。専門知だけでは社会や人々の生活をリスクから守ることができない。法規制や行政の仕組み、企業の取り決めなど我々の社会を形作るルールの形になることで初めて、専門知によってリスクへ対応することができるのだ。つまり、ルールもまた重要なのだ。

さてここで問題がある。専門家とルールの両方が重要であるとき、我々はどうその両方と同時に向き合うことができるのだろうか。どちらを優先し、どう調整すればよいのだろうか。

まず、専門家による、学術的な議論を通じて形成された意見等を重視するべき だという立場がありえる。一方で、民主主義社会としての価値観や制度を重視し、専門家の知見はあくまで助言や提言に留めるべきという立場もある。

この両方の立場には、それぞれの言い分がある。そのために時には両者の対立は激化する。対立やそれに起因する混乱を未然に防ぐためには、社会全体の取り決めではないものの「専門家に関するルール」が必要である。専門家の立場を守り、専門知に基づいた意見を社会的に実装可能にする根拠を与えるような「専門家のためのルール」、あるいは専門家の暴走を諌め、人々の価値観を優先するような「専門家に対するルール」。この両方が社会や危機に応じて適切なバランスで必要なのである。

これはまさに国家権力と市民の関係と似ている。国家権力は市民を支えることも、害を加えることもある。だからこそ、健全な国家権力と市民の相互の関係を模索した結果として憲法のような社会契約の形で現代社会は成り立っている。しかし、何世紀もの歴史を持つ近代国家の成立と比べると、20世紀後半以降に社会課題として勃興した日本社会と科学技術をめぐる専門家/専門知と市民の関係は、科学技術の発展には不釣り合いなほど未成熟である。

しかし全くの無法というわけではない。日本社会においても、専門家の意見をメディアで聞かない日はなく、新型コロナウイルス感染症対策も含めて政府によるルール作りの様々な場面に専門家は関わった。市民社会が専門家に役割を期待し、そして専門家もそれに答えてきたと言えよう。一方で、専門家に対するSNS等での誹謗中傷も無視できない。時には専門家不信や専門家の意見の無視にまで至る。このように専門家の役割に関する見解は、期待から批判まで社会の中で一致していない。新型コロナウイルス感染症をきっかけにこの課題が顕在した。そして今後の専門家助言組織のあり方や政府と専門家の関係性について議論がなされ、いくつかは現在も具体的なルールの策定に向けて政府や専門家を中心に議論が進んでいる。

ただ先に述べたように市民と専門知の関係は未成熟である。例えば先のルール作りの問題について、メディアや政治・行政の場等で幅広い多様な市民が参加できる形で十分な議論が喚起されているとは言い難い。専門家をめぐるルールの動向の今後に注目していくと同時に、健全な関係性の構築のために今後も多くの多様な立場の方々と協力できるような社会を目指していかなければならない。

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