成果概要

脳指標の個人間比較に基づく福祉と主体性の最大化[3] ヒト脳指標による喜びと志の個人間比較技術開発

2023年度までの進捗状況

1. 概要

私たちの住む社会を自由で公正なものにしていくためには、行政がとりうる各政策の集団・社会レベルでの「良さ」を測る必要があります。しかしこのような指標は、異なる人びとの「幸せ」を個人間で比較する方法がないと、うまく作れないことが知られています(アローの不可能性定理; Arrow, 1963)。
豊かな幸せ(「喜び」や「志」)は、自由に移動(=モビリティ)したり、自由に選択したりすることが保障されることで生まれます。そのような空間にヒトは自身の「居場所」を感じ、精神的、社会的に良好な状態(一般にウェルビーイングと表現される)になるため、規範経済学では、「本人が価値をおく理由のある生を生きられること」、すなわち個々人の実質的な自由を保証することを社会の目標に据えています(Sen, 1999)。
本研究開発項目では、「幸せ」の個人レベルでの向上だけでなく、その社会レベルでの集約や平等性の実現を目指し、個人間で比較可能な「幸せ」の指標を脳活動から測定する革新的技術の開発を行なっています。本研究開発項目の達成により、個々人の実感としての「喜び」や「志」の脳指標を解明する詳細な神経科学研究の知見を、スマートシティにおけるモビリティ政策の評価など、実社会の活動へと橋渡し、脳指標により「ウェルビーイング」を高める社会技術の創出に貢献します。

効用の個人間比較
効用の個人間比較
貧乏な人の方が1万円もらった時の喜びは大きいと考えられますが、異なる人びとの喜びを科学的に比較する手法は未だ存在していません。

2. これまでの主な成果

(1)「喜び」の強さの脳指標による定量化
  • 個人間比較に不可欠な頭蓋構造によるfMRIノイズの軽減法の効果を調べる実験をおこない、提案手法であるMulti-band multi-echo プロトコルが既存のものよりもノイズを軽減できることが明らかになりました。
  • 効用の脳内表現の解析を数千人規模のfMRIデータベース(ABCD study)を活用しておこない、個人間で「貨幣の限界効用」が所得水準に応じて逓減していることを定量的に示すデータが得られました。
  • 効用がヒトの脳内で計算される動的プロセスについて、MEG(脳磁図)を用いて高時間分解能で調べました。報酬予測誤差のデコーディングと社会経済的地位(socio-economic status)についての関係性を調べ、MEG信号に基づいて「喜び」の脳指標による個人間比較が可能であるか検討しました。
図
(2)「志」の強さの脳指標による定量化
  • 「喜び」と「志」の基礎と考えられる効用の2概念(経験効用と決定効用)の関係を調べて、報酬のもたらす「喜び」(経験効用)を統合することによって、決定効用が構築されることを示唆する結果が得られました。
  • 「志」の基礎となる、自身の行為およびその結果を自分で制御できている感覚(「自己主体感」)について、その脳内動的プロセスをMEGにより高時間分解能で調べました。強化学習の一種であるQ学習を用いて、行為結果の予測誤差およびその期待の推移を算出し、脳活動データを用いてデコーディングを行いました。
  • 「自己主体感」の神経回路動作を詳細に明らかにするために、マーモセットを用いて、自らが発声する際の皮質脳波(ECoG)を調べました。前頭葉-側頭葉の機能的結合性に着目して解析を行い、発声時に特定の周波数の帯域においてトップダウン方向(前頭葉→側頭葉)の因果性を観察しました。
  • 「志」の原動力となる、「自伝的記憶」について、その脳内動的プロセスをMEGにより調べるため、バーチャルリアリティ (VR) 空間を活用した、モビリティ仮想体験のための実験系を構築しました。
  • 「志」を支える抽象的な文脈を海馬の神経細胞集団が表現していることを、てんかん患者の単一神経細胞活動記録から明らかにしました。

3. 今後の展開

多様な人びとの「喜び」と「志」を定量化、社会的に集約することに成功すれば、OECDや国際連合が目指す「GDPを補完する」(“Beyond GDP”) 有力な幸福度指標になることが期待されます。今後は、現代社会における「幸せ」に重要な「豊かな環境」と「自由な行動」とは何かを科学的に特定し、それらを再現した豊かな実験環境をVR技術などを用いて適切に制御しつつ、脳活動を計測し、さまざまなアプローチで調べることで正当性を担保した開発を進めていきます。
(松森嘉織好: 玉川大学、松元 まどか: 京都大学、Ralph Adolphs: California Institute of Technology)