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- 東原化学感覚シグナルプロジェクト
研究総括 東原 和成
(東京大学 大学院農学生命科学研究科 教授)
研究期間:2012年10月~2018年3月
特別重点期間:2018年4月~2019年3月
グラント番号:JPMJER1202
生物は、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚といった感覚によって外部環境を正しく速やかに知り、その環境に適合した行動をとっています。感覚のなかでも、「嗅覚」と「味覚」は、化学物質によって引き起こされることから、化学感覚と呼ばれます。化学感覚は、「匂い」や「味」、「フェロモン」といったシグナルにより、食物を認識して摂食行動につなげる、あるいは仲間や敵、異性を認識して誘引・忌避・生殖行動につなげるなど、個体間のコミュニケーションにも関わる重要な働きを担っています。これまでの研究から、「鼻」や「舌」といった末梢での感覚受容のしくみは明らかになっています。しかし、末梢で受容した刺激がどのように脳に入力され、他のさまざまな情報と統合されて、情動や行動に至るのか、そのメカニズムは明らかになっていません。
本研究領域では、「匂い」「味」「フェロモン」といった化学感覚シグナルが情動や行動を引き起こすまでの生体内のメカニズムを、モデル生物として主にマウスを用いて解明します。具体的には、近年の化学構造分析などの技術革新を土台に、分子生物学、脳神経科学、行動生物学などの分野の研究アプローチを組み合わせ、生命活動に重要な意味を持つシグナル物質を同定し、それらが末梢で受容された後、その刺激が脳中枢神経へ伝達され、情動や行動の表出に至るまでの神経回路の解明に取り組みます。併せて、ヒト、マウス、魚、昆虫、植物など、多様な生物種の比較解析から化学感覚の起源に迫ることで、化学感覚シグナルの受容・応答メカニズムの理解を深めます。さらに、脳で嗅覚と味覚の情報が統合されて食べ物を「美味しい」と感じるしくみや、体内状態の変化が味覚や嗅覚を変化させるしくみ(化学感覚の弾力性)について、分子・神経レベルでの解明を目指します。また、疾患に伴う匂い(代謝産物)や、ストレス・不安を軽減し安心感をもたらす匂いやフェロモンなどを探索し、「医療」や「健康」「食」といった産業への将来展開に向け、基盤となる成果の蓄積に取り組みます。
本研究領域は、化学感覚シグナルの受容と情報伝達、脳における情報処理機構を解明することにより、「医療」や「健康」「食」に関連する産業を創出する基盤の構築に貢献するものであり、戦略目標「多様な疾病の新治療・予防法開発、食品安全性向上、環境改善等の産業利用に資する次世代構造生命科学による生命反応・相互作用分子機構の解明と予測をする技術の創出」に資するものと期待されます。
本プロジェクトでは、様々なモデル生物とヒトを対象として、多角的アプローチにより、生命活動に重要な意味を持つ化学シグナル物質を見出し、それらが受容され、行動・情動に至るまでの神経回路の解明を目指しました。まず、マウス、魚、昆虫などのモデル生物では、忌避・養育・攻撃・誘引・生殖行動といった特定の行動・情動を誘起する新たな化学シグナル分子あるいはその受容体を複数発見しました。脳中枢神経回路を可視化し分子機能を解析する技術開発を行い、性行動については受容体から神経回路レベルでの情報処理メカニズムも明らかにしました。併せて、ゲノム進化の視点から関連遺伝子ファミリーの機能と起源にも迫りました。また、植物における匂い受容体候補を見出し、これまで謎であった植物における匂い情報を受け取る仕組みの一端を明らかにしました。ヒトを対象とした嗅覚機能研究にも挑み、乳児の体臭が親の愛着を誘起すること、内分泌や代謝の変化や疾病で体臭が変化すること、不快感を伴う悪臭が交感神経系のストレス応答を引き起こすこと、などを明らかにしました。また、これまでの官能評価を中心としたヒトの匂い認識評価に脳波計および脳機能計測の導入を図り、得られた基盤的知見を産業界に繋げることが期待されています。
A: 哺乳類においてフェロモンの概念を拡張する作用を発見
フェロモンは同種の他個体に働きかけ、特定の生理状態や行動を引き起こす情報化学分子と定義されており、一般に性フェロモンというと誘因性で性行動や性成熟を促進するものとイメージされている。本プロジェクトでは、マウスの涙液に分泌されるESPファミリーのフェロモンにおいて、①単一のフェロモンが受け取る性によって性行動と攻撃行動という2種類の行動アウトプットを引き起こすこと、②フェロモンが分泌する個体自身にも作用すること、③性フェロモンが性行動の抑制に働くケースがあること、④交尾相手以外の雄マウスとの接触により雌マウスに流産が起きる現象「ブルース効果」の原因物質となること、を証明し、フェロモンの概念を拡張する新しい作用を発見したと言える。
具体的に、雄マウスが分泌するESP1は雌マウスには性受け入れ行動を促進する性フェロモンであるが、今回、雄マウスの攻撃性を高めるフェロモンとして働くことを見出した。さらに、この行動の違いを生み出す神経回路について、神経細胞レベルで調べた結果、扁桃体が性差をもたらすスイッチの役割を果たしていることを明らかにした。また、ESP1シグナルを受け取ることのできない雄マウスを作製して調べたところ、野生型と比較して攻撃性が顕著に低下していることが分かった。すなわち、雄マウスは自身の分泌するESP1を受容し、攻撃性を亢進させていることが明らかとなった。
また、成熟した雄マウスは、性成熟前の幼若個体に交尾を仕掛けることはないが、その際、鋤鼻系の機能を通じて、幼若マウスへの性行動が抑制されていることを明らかした。この効果を担うフェロモン分子として、幼若マウスが涙液に分泌するタンパク質ESP22を見出し、ESP22が鋤鼻ニューロンの活性化を経て、情動の制御に重要な扁桃体を活性化させることも見出した。さらに、ESP22は雌マウスに対しても性行動抑制作用をもつこと、V2Rp4受容体を活性化し、ESP1とは異なる高次神経回路を経てその作用を示すことを明らかにした。
一方、ESP1分泌のない雄との交尾後雌マウスへESP1を暴露すると、通常流産が確認されない同系統雄マウスとの接触においても流産すること、この際、受精卵着床に必要なプロラクチン分泌がみられないことを示した。ESP1は内分泌系への制御を介して「ブルース効果」を引き起こすと考えられる。
B: マウスはラットの性シグナルを天敵情報として「盗み聞き」する
近年、涙液中の化合物が同種の動物に様々な行動を誘発することが明らかになってきたものの、異種の動物に対する作用については不明であった。本プロジェクトでは、マウスの捕食者であるラットの雄における涙液中タンパク質Cystatin-related protein 1(ratCRP1)が、ラットとマウス双方の鋤鼻神経系を活性化することを明らかにした。同時にratCRP1は雌ラットに対して交尾行動に有利とされる一時停止行動を引き起こす一方、マウスに対しては鋤鼻受容体Vmn2r28を介した防御反応に関わる脳領域の活性化と、活動量の減少を引き起こすことを明らかにした。以上の結果より、雄ラット涙液に含まれるタンパク質ratCRP1は、異性の雌ラットに対して性行動を促進するシグナルとして作用するだけではなく、マウスには異種動物の存在を示すシグナルとして感知されることが明らかになった。本結果は哺乳類において、同種の異性間のシグナルが、被食者にとっての天敵の存在を示すシグナルとして認識および利用されることを示した初めて例である。
C: 産業的価値の高いムスクの香りの認識メカニズムの解明
"ムスクの香り"は、その魅惑的な香りから香粧品に広く用いられ産業界においてニーズが高いが、天然ムスク香料は入手困難のためこれに代わる新たな合成ムスク香料の開発が望まれている。しかし、様々な化学構造をもつ天然・合成ムスク香料が、なぜ我々の鼻で同じようなムスク香と感じられるのかは化学界・香料業界において長年の謎であり、嗅覚システムにおけるその認識メカニズムの解明を目指した。
本プロジェクトでは、マウスとヒトにおいてムスコンを受容する嗅覚受容体の同定に成功し、マウスでは嗅覚の一次中枢である嗅球の限局された特定の領域に入力され高次脳へと伝わること、を明らかにした。その後、嗅覚受容体遺伝子系統解析を行い、新たに4種の霊長類のムスコン受容体の同定に成功し、さらに、様々なムスク香料に対する受容体の応答特異性解析を行ったところ、異なる化学構造をもつムスク香料が同じ受容体で認識されることが示され、今回特定した嗅覚受容体の働きの重要性を明らかにした。これらの成果をもとに、産業的に有用なムスク香料が開発されることが期待される。
D: 嗅覚受容体遺伝子の分子進化解析で明らかなった、哺乳類の嗅覚世界の多様性
本プロジェクトでは、環境に応じて嗅覚受容体(OR)遺伝子がどのように変化していくかを明らかにするため、遺伝子バイオインフォマティクス解析を用いて、さまざまな哺乳類のもつOR遺伝子の分子進化解析を行った。
(1)ゾウはイヌの2倍もの嗅覚受容体遺伝子をもつ ─受容体遺伝子の進化的個性─
13種の哺乳類の全ゲノム配列を解析し、アフリカゾウのゲノム中には約2千個ものOR機能遺伝子が存在することを見出した。この数は、ヒトの5倍、イヌの2倍以上に相当する。種間でOR遺伝子の比較を行ったところ、遺伝子ごとに進化のパターンは極めて多様であり、特定の種で爆発的に数を増加させた遺伝子の系統がある反面、ほとんど子孫を残さなかった遺伝子の系統も数多く存在することが明らかになった。また、約1億年もの間、遺伝子の重複や欠失がなく、配列もほとんど変化していないような、進化的に安定して維持されてきた特殊なOR遺伝子を3種類見出した。それらのORは、匂い分子の受容という機能だけでなく、あらゆる哺乳類に共通した重要な生理機能を担っていることが示唆される。
(2)霊長類の嗅覚系退化の要因 ─形態・食性との関連性─
一般に霊長類は視覚に依存した動物だと考えられているが、霊長類の進化過程で嗅覚系の退化がいつどのようにして起きたかはよく分かっていない。霊長類は、目や鼻の形態、活動パターン(夜行性・昼行性)、色覚系、食性などが非常に多様である。統計的な解析の結果、種によるOR機能遺伝子数の違いは、鼻の形態と食性の違いによって有意に説明されるのに対し、活動パターンや色覚系の違いにはほとんど影響を受けないことがわかった。また、霊長類の進化過程において、目と鼻の解剖学的な構造が大きく変化した直鼻猿類の共通祖先と、果実食から葉食へと食性が変化したコロブス類の共通祖先において、OR遺伝子の大規模な消失が起きたことが示された。それに加えて、私たちヒトや類人猿では、他の霊長類に比べてOR遺伝子が失われていく速度が速まっていることも明らかになった。
各生物種のOR遺伝子レパートリーを比較することによって、ヒトを含む様々な種の嗅覚の違いを分子的な視点から理解できるようになることが期待される。
E: 育児における子の体臭の役割の探索
動物の仔やヒトの乳幼児などの幼体は、成体から愛おしむ気持ちや養育行動を引き出す特性を備えていると考えられている。本プロジェクトでは、これまでにほとんど調べられていなかった、ヒトの乳幼児の体から発せられる匂いが日々の育児に影響を与えているのかどうかを心理統計学的な技術を用いて調査した。
本研究では、乳幼児の父母に、育児の際、我が子の匂いに気付いたり自発的に嗅いだりすることがあるかを、質問紙を用いて尋ねた。その結果、乳幼児の父母は、衛生と愛着の双方の理由で、我が子を嗅いでいることが明らかになった。なかでも0歳児のお母さんは「好きな匂いがする」などの理由で、頻繁に赤ちゃんの頭を嗅いでいた。今回の調査結果より、乳幼児の匂いという嗅覚による化学的なシグナルも、愛おしいという気持ちの誘起や、衛生状態を知る手がかりとして、親の養育行動につながっている可能性が示唆された。また、頭やお尻など、匂いの源として特に重要な体の部位が特定された。今後これらの部位を中心に、子の匂いを詳しく調べていくことにより、親の養育行動における子の体臭の役割の詳細を明らかにできる可能性がある。
F: 魚類の嗅覚行動を司る分子・受容体・神経回路機構の解明
嗅覚系は物体から発せられる匂い分子を受容し、その情報を鼻から脳へ伝えて、個体の生存・生体の恒常性維持・種の保存のために必要な行動や内分泌変化をもたらす神経システムである。とりわけ、好きな匂いへの誘引行動、嫌いな匂いからの逃避行動、フェロモンを介した性行動は、多くの生物に共通する3つの根源的な嗅覚行動である。
本研究ではモデル生物としてゼブラフィッシュを用い、機能リガンド分子群の構造決定、それらを認識する嗅覚受容体の同定、活性化する神経回路の解明を目指し、以下の新知見を得た。
(1)排卵期のメスの魚が分泌してオスの魚の求愛行動を引き起こす性フェロモンであるプロスタグランジンF2αの嗅覚受容体を同定し、その神経回路機序を明らかにした。
(2)食物から水中に溶け出すATPが魚を強く誘引することを見出した。鼻腔内に入ったATPは速やかにアデノシンへと分解され、魚類と両生類だけに存在する新規アデノシン受容体「A2c」を介して策餌行動を誘起する特定の嗅覚神経回路を活性化することを発見した。
(3)水中の二酸化炭素濃度の上昇が、ゼブラフィッシュ稚魚の終神経(第0脳神経)を活性化し、三叉神経・毛様体脊髄路ニューロンを介して忌避行動を惹起することを見出した。
以上の成果は、化学感覚シグナルを介した性行動・誘引行動・危険回避行動を司る分子・神経回路メカニズムの普遍的共通原理の解明へと繋がるであろう。
G: 匂いの価値や質が決まるしくみを受容体レベルで解明
生物は生存上、様々な外界のシグナルを感知するために、多数の嗅覚受容体を持つが、一般的に1種類の匂い物質は複数の嗅覚受容体を活性化するため、匂いが持つ行動や情動といった価値情報が、受容体レベルでどのように規定されているのか不明であった。本プロジェクトでは、少数の受容体活性化によりマウスに行動出力を示す2種類の匂い、ムスコンとZ5-14:OH(テトラデセノール)に着目して、この問題に取り組んだ。
ムスコンは2種類、テトラデセノールは3種類の嗅覚受容体を活性化する。それぞれの受容体ノックアウトマウス解析の結果、ムスコンでは、2つの受容体それぞれがオスマウスにとって「好き」という価値情報を持つこと、テトラデセノールでは最も感度の高い受容体は「好き」、最も感度の低い受容体は「嫌い」の価値を持っており、双方の受容体が活性化されると「嫌い」の忌避行動が表出することが示された。つまり、単一の嗅覚受容体が行動を引き起こす価値を規定していること、また、最終行動は、活性化された複数の嗅覚受容体の持つ価値情報の足し算とバランスにより規定されていることが明らかになった。この成果の応用面としては、例えば、ある匂いの「価値(意味)」、すなわちヒトの嗅覚では匂いの「質」、を規定する嗅覚受容体を見つけることができれば、その受容体をターゲットにその匂いを呈するフレーバーやフレグランスをスクリーニングあるいはデザインすることが可能となる。この概念は、より美味しい食品やより芳しい香粧品を創成するためのツールのひとつになることが期待される。
H: 植物における「匂い受容体候補」の発見
自然環境下において、昆虫の食害を受けた植物の周辺に生育している植物は、将来的に昆虫に食害されにくくなることが知られている。さらに近年、この作用は食害を受けた植物から放出される「匂い物質」によるものであることが明らかになってきた。しかし、鼻や神経系のある動物とは異なり、植物がどのようにして匂い物質の情報を受け取っているのかは長らく未解明のままであった。
本研究では、植物から放散される匂い物質、(E)-ß-caryophyllene(ß-カリオフィレン)、および類似構造の匂い物質が、タバコ由来培養細胞、タバコ植物体いずれにおいても、特異的に、NtOsmotinという抵抗性遺伝子の発現を誘導することを明らかにした。次に、ß-カリオフィレンの分子構造を認識する「匂い受容体」を探索したところ、転写制御因子の一つであるTOPLESSが、ß-カリオフィレンを「鍵と鍵穴」のように認識するタンパク質であることを明らかにし、TOPLESSタンパク質を多く持つ組み換えタバコ培養細胞と組み換えタバコ植物体を作出して、ß-カリオフィレンに対する応答を解析すると、TOPLESSが抵抗性遺伝子の発現制御に関わっていることが示唆された。本研究の成果は、植物においては、動物がもつ嗅覚受容体とは異なり、転写制御因子が匂い物質を感知する「匂い受容体」として機能している例を初めて示唆するものである。本成果を応用することで、香りを利用して食害や病害に強い植物の作製が可能になることが期待される。