• 四ノ宮成祥 防衛医科大学校 学校長(免疫・微生物学、分子腫瘍学、高圧・潜水医学、バイオセキュリティ)

2011年の東日本大震災を経験して、科学技術に関わる専門家あるいは科学技術政策に関与する政策立案者の社会に対する役割については、数多くの批判や議論が巻き起こった。特に福島第一原子力発電所の緊急事態に対して、どう対処すべきであったのかということを、当時、国民に対してタイムリーに情報提供できたとはとても言えない状態であった。その反省をもとに、専門家の在り方や存在意義、そして社会への情報発信の在り方が問われていた筈である。翻って、2020年の新型コロナウイルス感染症襲来に対しての対応を考えるに、専門家と称される人たちの応答や行動はどうであったのだろうか。社会が満足できる専門家の応答とは何か、そして、今回果たしてそれが目に見える形で提供されていたのだろうか。社会に対する情報発信不足や社会が持つ専門家に由来する情報に対する不満、そして、その結果としての公衆衛生対策の失敗は、専門家不要論へと世論を差し向ける。

それでは、科学技術に関する専門家が専門家として存在する意義は何であろうか。そして、専門家が専門家としての行動を起こす拠りどころとは何なのか。一言で言い表すとすれば、それは専門家としての矜持である。矜持とは、誇りでありプライドでありそして信念である。その裏には専門家としての確固たる学問的基盤を有する自信とともに、専門的見地からどこまでも社会に尽くすという奉仕の精神、そして、あるべき方向性に向かって何が何でも努力するという姿勢に他ならない。ある意味、背景には切迫した義務感さえ漂う職業人としての存立基盤が存在する。それなしに専門家を名乗ることなど出来ないであろう。

しかし、社会の目には決してそうは映っていない。専門家と称する人がそれぞれ別々のことを推奨し、別々の意見を言っているように見える。これでは我々を良い方向に導いてくれる水先案内人の役割を果たしてもらえるとはとても思えない。事実、ニュースやネット情報では専門家からの情報が乱立し、場合によっては180度異なる結論を主張している。素人側からすればそれはとても受け入れがたいことであり、何を信用して良いのかわからなくなるのである。しかし、これは実は至極当然のことである。専門家とは、その学問領域を拠りどころに研究している人の集まりであり、その中身は多種多様、意見や考え方が大きく異なる人の集団なのだ。「1+1=2」のような誰もが同じ結論に達するようなことを除けば、そもそも考え方、思考過程、結論など専門家でも人によって千差万別である。一致して存在する結論など有りはしないのである。専門家に共通して存在するものがあるとすれば、それは物事を懐疑的・批判的に見る視点、そしてそのようななかから真実を見出そうとする姿勢である。

例えば、治療薬として効果がありそうな候補薬があったとしても、基礎的開発の段階でそれが臨床的に有用であるなどとは結論できないのである。実際に臨床試験を行ってみて、真に有用性が示され、そして治療効果として明確な結果が出ない限り、あくまでも結論は「治療効果は今のところ不明」であり「臨床治療薬として使用できるかどうかは分からない」なのである。ここに、専門家としての意見の分かりにくさがある。専門家が期待を込めた趣旨の発言をすれば、一般の人は「それが効果のある薬になるのだ」と信じるかもしれない。一方、専門家が、あくまでも冷静に事実に基づく発言しかしないならば、聞く人は「ああ、あまり期待は出来ないのだ」思ってしまう。事実は一つであり、それをサポートする明確なエビデンスがない限り、憶測でものを言わないのが専門家だ。裏を返せば、これが専門家から発信される情報の歯切れの悪さ、結論が示されない曖昧さであり、受け取る人によって多様に解釈されてしまう根源なのである。

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