• 山口富子 国際基督教大学 教養学部 教授(社会学、科学技術社会論)

社会受容という概念は、社会科学研究においてこれまでさまざまな目的を持つ研究で用いられてきた。新技術が社会に受け入れられるかを明らかにするという問題意識を踏まえ、新技術に関わる社会的諸要因を検討する研究から、新技術によってもたらされるリスクを主題として科学技術と社会の関係を検討するという研究に至るまで、多様な目的を持つ研究で社会受容という概念が用いられてきた。後者の文脈で社会受容という概念が用いられたのは1980年代後半であることを踏まえれば、社会受容という概念は決して新しいものではない。

今の社会に目を転ずれば、新技術の社会実装がテーマとして取り上げられるセミナーなどで、必ずと言ってよいほど「社会受容」という言葉が登場する。そのようなセミナーの多くは、社会受容がなければ新技術は実装できないという問題意識を持つものであり、社会に多大な恩恵をもたらすもののその影響に対する懸念が生じ得る、エマージングテクノロジーに関するものである。一例として、2000年代初頭に日米欧が競うようにして立ち上げたナノテクノロジーの社会的影響を検討するプログラムが挙げられるが、そこでも社会受容が主要な論点として取り上げられている。このようにさまざまな文脈で多用されてきた概念であるが、実はその定義がはっきりしない。新技術の社会実装は、住民や消費者が受け入れてくれなければ叶わないという意味合いで用いられる時もあれば、国民の正しい理解がなければ、新技術の誤った使用が起こることが想定され、それを未然に防ぐためにという意味で社会受容という言葉が用いられる時もある。あるいは、技術の意思決定において倫理的配慮などを欠いていたことにより、新技術の社会が受容しなかったという意味で用いられるときもある (Wynne, 1992) 。このような多様な解釈を踏まえ、社会受容という言葉は、新技術そのものの受容と、その技術を使った価値や利便性を消費者に伝えるためのマーケティング活動や、人びとの正しい理解を促進するためのリスクコミュニケーション活動となる。あるいはELSI (Ethical, Legal and Social Implications/Issues; 倫理的・法制度的・社会的課題) への対応のための技術評価や行動指針、あるいはレギュラトリーサイエンスの必要性と捉えられることもある。

ここでの議論は、日常において社会受容という言葉が多用されること、それ自体を否定するものではない。逆にこのような状況は、科学技術と社会の良好な関係づくりが大切であるという考え方を社会全体が支持しているということについて、立場や利害に関わらず多くの人が理解しているということの表れであり、むしろ好ましいと考える。しかしここで問題なのは、この言葉が何を指し示しているのかが未だあいまいなままで、そのあいまいさ故に社会受容という言葉を象徴的に使うさまざまな言説がつくられ、それらが誤解を生み、問題の本質を見えにくくしているという点である。

では、ELSIあるいはRRI (Responsible Research and Innovation; 責任ある研究・イノベーション) に関連する課題に取り組む者は、この古くて新しい問題にどう向き合っていけばよいのだろうか。そこには、新技術の社会実装のプロセスにどう関わっていくのかという難しい問題が横たわる。簡単に答えが見いだせるような問題ではないが、ひとつのヒントとして、自然科学研究に携わる研究者と人文・社会科学の研究者の協働の必要性が、国内外のSTS (Science and Technology Studies; 科学技術社会論) 領域で議論されているということに触れておきたい。人文・社会科学の研究者も傍観者ではなく、懐に入り共に知を積み上げるという研究の進め方である。その議論を踏まえれば、ELSI/RRI研究は、社会受容という共通の言語を用いつつもその多義性を意識し、新技術の社会実装の現場に深く関わっていく必要性があるということが示唆される。

[Wynne B. Risk and social learning: Reification to engagement. pp. 275–297 in Krimsky S, Golding D (eds). Social Theories of Risk. Westport: Praeger, 1992.]

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