• 納富信留 東京大学 大学院人文社会系研究科 教授(哲学)

今から2400年ほど前、古代ギリシアでは「技術 (テクネー) 」をめぐる哲学的問題が活発に論じられていた。とりわけ、プラトン (前427〜前347) の対話篇で、ソクラテスが「徳 (アレテー) 」を技術との類比で論じた議論が有名である。彼らの議論は、現代社会で科学技術の問題を考える上で、今でも基本的な視座を与えてくれる。

技術は何かの善を目指しもたらすものである。「羊の飼育」という技術では、羊飼いは羊を預かり一定期間放牧して、羊を肥え豊かにして持ち主に返す。では、その技術が生み出す善、つまり利益とは何か。羊飼いが技術を駆使するのは、それによってお金を稼ぐためだと思われるかもしれない。だが、ソクラテスは、羊飼いの技術がそれ自体で行使し生み出すのは、羊がいかに草を食み、健康でしっかり成長するかを見守り世話すること、つまり、羊の善であると主張する。それによって羊飼いが金銭を得るとしても、それは羊飼育術にとっては付帯的な事態にすぎず、金銭を得ることを目的とする技術はそれとは別にあるはずだ (報酬獲得術?) 。

この議論は、技術知が目指すのは技術対象の善であり、両者の間に内在的で本質的な関係があることを示す。他方でこの場合、技術知はそれを用いる者に善をもたらすものではないことになる。技術者は、あくまで技術が向けられる対象を善くするために技術を用いるのであり、技術者自身が何かの善を得るわけではない。

また、技術はそれ自体中立であり、善いことのためにも悪いことのためにも使えるといった考え方に対して、ソクラテスは医術の例を持ち出す。医術とは健康と病気についての技術であるが、患者に対して病気を治療し健康にするのが医者である。そこで医者はその技術をどうにでも使えるのだから相手を病気にしたり殺したりもする、という見方は受け入れられない。そうだとすると、医術とは健康と病気に関する中立的な技術ではなく、病気を治して患者に健康という善をもたらすものである。逆に言うと、わざと相手を病気にしたり殺したりするのは技術ではない。要するに、医術とは患者に善をなす技術なのである。

この論理は、羊飼いの例と同様、医者自身は医術を行使することによっては何も利益を受けないという帰結を生む。報酬を得るとしたら、それは医術とは切り離された別の原理 (報酬獲得術) による。たとえ無償であっても治療行為を行うのが医術のあり方なのである。

だが、技術知がもたらす「善」とは何か。その技術が用いられる限りで生じる善であり、いわば限定つきの善である。羊は羊飼いによく世話をされて健康に肥えるだろうが、やがて食べられてしまう。健康に成長するという善は、結果としては不幸をもたらすかもしれない。また、医者はどんな患者も差別なく生命を救うだろうが、その中には極悪人もおり、健康になって再び社会で犯罪を犯すかもしれない。羊飼いは羊の生涯の最終善は考慮せず、医者は自分の医療行為の範囲を超えた善悪に関与しない。つまり、技術がもたらす善はあくまでその技術の領域に限定され、領域を超えた善悪に直結しないのである。とすると、それぞれの技術が関わり生み出す善を、さらに統御して社会全体の善を生み出す高次の思考が必要となる。それは果たして技術知だろうか。それを「政治術」と呼ぶとして、その技術はどのように可能であり、一般の技術知と同じ構造を持つものなのか?

アリストテレス (前384〜前322) は倫理学で、「技術知」を人柄の徳と並ぶ「知性の徳」のひとつに位置づけた。徳とは人間が本来持つ優れた在り方であり、技術知はものを制作する人間の技量であり卓越性である。そうだとすると、技術は道具のように取り扱ったり、善くも悪くも使えるものではなく、技術という知性の徳を備える人の善き在り方、つまり幸福の一部をなすものである。技術という知を有し行使する人は、その限りで幸福を享受する。アリストテレスのこの考えは、ソクラテスによる議論への応答となる。技術者は技術対象に善をつくり出すことで、自身の善さを発揮しているのである。ただし、ここでもそれは報酬というかたちでの利益ではない。

こういった古代ギリシアの哲学議論は、現代の私たちにどう響くだろうか。素朴であっても、けっして古びてはいない。そこで提起された疑問は、決定的な回答がないまま、いまだに私たちに突きつけられているのではないか。

[プラトンの議論は『ポリテイア (国家) 』第1巻、『ゴルギアス』などからアレンジした。アリストテレスの議論は『ニコマコス倫理学』第6巻第4章を参照。]

エッセイ一覧に戻る 言説化の取り組みへ戻る
トップへ