• 唐沢かおり 東京大学 大学院人文社会系研究科 教授(社会心理学)

現代社会における科学技術は、さまざまな社会課題を解決する役割を背負っている。エネルギー枯渇・地球環境の悪化・自然災害への対応、社会的格差の解消、また近年ではコロナ禍の影響で、感染症の抑止なども身近な例として頭に浮かんでくることだろう。ただ、これらの課題への対応は、科学技術それ自体のみで解決できるものではない。人々の行動が自分勝手な欲求に基づくなら、優れた技術を実装したとしても社会は破綻する。例えば、エネルギー消費が少ない家電や住居の温度管理システムを開発したとしても、その利用者が「じゃ、節電なんて面倒なことしなくていい」と考え、快適さの追求に走ってしまうのであれば、環境の悪化は止まらない。科学技術の成果実装が、課題解決、ひいてはよりよい社会へとつながるためには、私たちの行動を変容させるための介入を組み込むことも必要になる。

介入はさまざまな手法でなされうるが、典型的に用いられるのが、「報酬と罰」の導入だろう。望ましい行動にポイントや割引、また「信用度の付与」などの報酬が、また望ましくない行動に対して、課金や評判の低下などの「罰」が与えられるような仕組みである。その在り方がELSI研究のテーマとなることは言うまでもなく、多様な分野の知見を踏まえた議論の深化が必要になる。そのひとつとして、ここでは、報酬と罰という「行動を統制する」有効なツールが持つ罠という問題を提起したい。これは、行動の背後にある心の仕組みに関わることである。例えば、科学技術を用いて、人間が行うよりもずっと正確に、かつ低コストで人々の行動をモニタリングし、それに基づき的確に報酬や罰を与えることで、望ましいとされる行動を促すシステムが構築されたとする。このようなシステムは、望ましい行動を引き出す効果を持つだろう。しかし、一方で、楽しさとか倫理的価値など、その行動自体の持つ意義そのものを損なってしまい、自律的な行動の遂行を妨げる可能性があるのだ。

わたしたちの行動をつかさどる動機は、大きく内発的動機と外発的動機に分かれる。内発的動機の代表は、楽しさ、好意、重要だという考え、倫理観として内化している価値観などの「心の中にある」行動理由であり、自律的なものである。一方、報酬や罰は、外発的動機の代表であり、外から与えられえる金銭やポイント、罰金、他者からの圧力など他律的なものが該当する。

さて、ポイントとか罰則を導入したシステムにより、外発的動機で人々の行動を統制すると、いったいどうなるのだろうか…ここで着目したいのは、シンプルでわかりやすい説明に与してしまう人間の性質であり、自分の行動であっても、なにかもっともな理由を見つけてしまうと、それ以外の理由には目を向けないという特徴だ。報酬や罰は行動の手がかりとして目立つので (だからこそ、効果を持つのだが) 、自分の行動の理由がそこにあると考えてしまいやすい。その行動が本来は楽しいものであったり、自分の倫理観と合致することであっても、報酬や罰があれば、「自分は報酬 (または罰) があるからそうしている」と考えてしまう。「報酬や罰のために行動しているわたし」という自己認知は、「楽しさや自らの倫理観ゆえに行動しているわたし」という自己認知をどこかに追いやり、さらには、その行動自体が楽しいもの、倫理的に価値があるものという考えも弱めてしまう。お金のために働いていると思ったとたんに、つまらなくなる経験を持つ人も多いと思うが、それも同じようなことである。

報酬と罰が行動を制御する強い力を持つことは否めず、それらにより人々の行動が「まともなもの」になることで、社会の秩序は維持されている。人々が内的に保持する倫理観や崇高な理念も、行動を律する力を持つけれども、それだけに頼ることは、利己的な (少数の) 個人にリソースを食いつぶされ、公正さが保てない社会へと堕ちることにもなりかねない。行動統制を狙った科学技術の実装が、報酬、または罰の提供という仕組みから逃れることは難しい。だからこそ、それが内発的な動機、楽しさなど行動の持つ価値、行動制御の内的な力となる個々人の倫理観や理念にどう影響するかを、丁寧に検証していきながら、自律性と他律性のバランスに配慮することが、報酬や罰を「うまく用いた」制度設計には不可欠なことだと思う。

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