「精神・神経疾患の分子病態に基づく診断・治療へ向けた新技術の創出」

平成24年度 研究終了にあたって

「精神・神経疾患の分子病態に基づく診断・治療へ向けた新技術の創出」研究総括 樋口 輝彦

 平成19年度に採択した5研究課題「恐怖記憶制御の分子機構の理解に基づいたPTSDの根本的予防法・治療法の創出」(井ノ口 馨)、「アルツハイマー病根本治療薬創出のための統合的研究」(岩坪 威)、「神経発達関連因子を標的とした統合失調症の分子病態解明」(貝淵 弘三)、「パーキンソン病遺伝子ネットワーク解明と新規治療戦略」(高橋 良輔)、「マウスを活用した精神疾患の中間表現型の解明」(宮川 剛)が終了の時を迎えた。
 CRESTにおいて精神・神経疾患の診断・治療法の開発につながることを目的に据えた病態研究がとりあげられたのは初めてのことであり、そのための新技術の創出は、多くの精神・神経疾患がまだ未解明であり、根本治療法が開発されていないだけに、国民から大きな期待を寄せられている研究領域であることを踏まえ、研究チームはそれぞれ最大限の取組を行う意気込みを示してくれた。平成19年度採択の5課題のうち宮川チーム以外の4課題はアルツハイマー型認知症、パーキンソン病、統合失調症、PTSDと、いずれも精神・神経疾患の中では有病率の高い疾患であり、いずれのチームも基礎医学と臨床医学の知を統合して、病態解明とその成果を診断・治療につなげる研究に取り組み、成果をあげた。一方、宮川チームは疾患の側からではなく、網羅的行動テストバッテリーを用いてスクリーニングした精神疾患様行動異常を示す遺伝子改変マウスを共通プラットフォームとし、精神疾患の中間表現型を解明することを目的にしたユニークなアプローチを行った。

 以下、各チームの特筆すべき成果をごく簡単に紹介する。
 岩坪 威 チームはアルツハイマー病の分子病態の理解に基づく根本的治療法、予防法を研究することを目的に研究を進めた。研究の中心を病因タンパク質であるβアミロイド(Aβ)に置き、その産生、凝集、クリアランスのメカニズムを解明することにより新たな治療法の開発につなげること目指し精力的に研究を進展させた。研究成果としては、AD 治療におけるγセクレターゼ活性制御において、Notchシグナルの抑制を回避する低分子化合物を用いる方策に道を開いたこと、BACE1が触媒部位以外に膜貫通部位を介した制御を受けることが実証されたことで、Aβ降下療法に新しい道を開いたこと、Aβのモノクロナール抗体の末梢投与により脳内のAβ・抗体複合体が増加することから抗体が脳内に進入しAβに結合、これをオリゴマーやアミロイド等の多量体の形成過程から阻害するという新たなメカニズムを示唆するなど、科学的、技術的インパクトは極めて高い。特に、γ-セクレターゼを中心とする研究によりAβ産生メカニズムの理解が深まったことは、今後、治療法の開発につながるものとして高く評価された。

 井ノ口 馨 チームはPTSDの根本的治療法・予防法につながる研究を行った。PTSDの動物モデルを用いて恐怖記憶想起後の記憶の不安定化や消去のメカニズムを明らかにし、これにかかわる分子としてアクチビン、Vesl-1Sなどを同定した。さらに、想起しただけで恐怖記憶が増強されるマウスのPTSDモデルを開発し、恐怖記憶不安定化と消去には共通の分子群が機能することを見出した。また、Vesl-1Sを用いて記憶が正確に保存される神経細胞の仕組みに関するシナプスタグ仮説を実証し、シナプスタグ機構を制御することによりトラウマ記憶
とニュートラルな記憶を分離することによる新しいPTSD治療法開発の可能性を示した。

 貝淵 弘三 チームは神経発達に関連する統合失調症脆弱性因子(DISC1など)に焦点を当て、それらの分子・生理機能を解明することにより統合失調症の分子病態をあきらかにすることを目指すとともに、発症脆弱性因子の結合分子を対象とした関連解析を推進し、新たな発症脆弱性因子の同定を進めた。さらに、発症脆弱性遺伝子の変異マウスを作成し、病理学的、生理学的、行動学的解析を行うことで、統合的な分子病態の解明を目指した。
DISC1結合蛋白とその機能解析に関する研究成果は世界的に高く評価されている。DISC1が神経発生過程におけるカーゴアダプターとして働き、細胞移動や軸索の伸長を制御していることなどを明らかにし、また成熟神経においてはNeuregulin-1の細胞内輸送やmRNAの樹状突起輸送と局所翻訳を制御していることを明らかにした。さらにDISC1 KOマウスの作製に成功し、これが統合失調症モデルとなることを示した。
さらにDISC1結合分子をプロテオミクス解析により100種類以上同定し、その中からいくつかの候補分子を選び、日本人統合失調症患者ゲノムを用いた関連解析を行い14-3-3ε、Kalirin、NDE1など統合失調症で認められる稀な変異を同定するなど、有用な知見の数々を得た。

 高橋 良輔 チームはパーキンソン病遺伝子ネットワークの解明を通して、新規治療法開発につなげることを目的に研究を遂行した。
パーキンソン病(PD)の成因には、遺伝要因と環境要因を介して、小胞体ストレス、酸化的ストレス、ミトコンドリア障害、タンパク質分解異常、細胞骨格の障害等が、複雑に絡み合っていると考えられる。このようなPDの複合病態を解明するため、本研究では、ニワトリBリンパ球細胞株DT40、メダカ、マウス、において、PDの病因関連遺伝子、およびパーキンソン病発症への関与が示唆される小胞体ストレス関連遺伝子に変異を加えた多重遺伝子変異および毒物誘発性モデルによってパーキンソン病を引き起こす様々な遺伝子間のネットワークおよび遺伝要因と環境要因との相関を明らかにすることを目的とした。さらに得られたモデルを治療法開発に役立てることをめざして研究が推進された。中でも、メダカを疾患モデルとする研究はユニークであり、メダカの利点を生かした新しいPDモデルは大きなインパクトを持つと考えられる。また、MPTP誘発性のドーパミン神経細胞死への小胞体ストレス応答遺伝子の関与を解明し、PERK-eIF2/-AFT4を活性化するタンゲレチン、サルブリナールのドーパミン細胞死防御効果の発見は科学的に重要である。
メダカの有用性を示し、これを用いたPDのモデルを確立した点は戦略目標の達成に貢献したと評価できる。今後はこれらのモデルを駆使して、ヒトの病態治療に向けた取り組みが期待される。

 宮川 剛 チームの研究の目的は網羅的行動テストバッテリーを用いてスクリーニングした精神疾患様行動異常を示す遺伝子改変マウスを共通のプラットフォームとし、精神疾患の中間表現型を解明することであった。精神疾患様行動異常を起こす遺伝子改変マウスを網羅的行動テストバッテリーによってスクリーニングし、αCaMKⅡHKOマウスあるいはShn2 KOマウスの脳の歯状回において「非成熟歯状回」という現象を見出し、これが統合失調症の中間表現型である可能性を追求した。この「非成熟歯状回」はまったく新しい発見であり、概念であることから科学的インパクトは高いものである。今後、疾患特異的なマーカーであることが証明され、これを抗炎症薬等により正常化されることが検証されれば、統合失調症の治療に画期的な新規治療薬が導入されることにつながるため、社会への還元が大いに期待される。

 平成19年度採択課題の終了にあたり、適切な助言をいただいた領域アドバイザーの 有波 忠雄 、市川 宏伸 、糸山 泰人 、岡崎 祐士 、梶井 靖 、吉川 潮 、桐野 高明 、服巻 保幸 、御子柴 克彦 、米倉 義晴 の諸先生、またJST関係者の皆様に厚く御礼を申し上げる。

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