目標9 記事広告(2025年1月30日 Nature.com)
このページの内容は、2025年1月30日付けでNature.com※に掲載された記事広告「Activity trackers: can they assess mental health?」の日本語翻訳版記事本文を、科学技術振興機構(JST)にてレイアウトし、転載したものです。当ページの内容は科学技術振興機構(JST)の責任のもとで掲載をしております。
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記事広告原文URL:https://www.nature.com/articles/d42473-024-00462-z
活動量計:こころの状態を評価できるのか
日本では、国策プロジェクトとして、音声データを使って感情の変化を特定したり、光感受性タンパク質を利用して感情を調節したりするなど、さまざまなものを活用する技術を開発することで、こころの問題に対する取り組みが行われている。
【本文】
京都大学 人と社会の未来研究院 教授である熊谷誠慈は、日本ではこころに不調を来す人の割合が増加しており、特に若年層のウェルビーイングの水準が憂慮すべきほど低いと話す。彼は、厚生労働省の最近の報告書のデータを引用し、「日本の若年世代の自尊心は、先進国の中で最も低いのです」と指摘する。
熊谷は、人々のこころのウェルビーイングを全体的に改善できる革新的な戦略がいくつか存在すると考えている。1つは、個人のこころの状態の微妙な変化をより正確に理解するための技術を開発すること、もう1つは、その状態をよりポジティブな方向へと導く方法を見つけ出すことである。
熊谷は、ムーンショット目標9「2050年までに、こころの安らぎや活力を増大することで、精神的に豊かで躍動的な社会を実現」のプログラムディレクター(PD)を務めている。このプログラムは、内閣府と科学技術振興機構(JST)が支援する10のムーンショット目標のうちの1つである。
熊谷らの取り組みは、気候変動、高齢化、こころの問題など、日本が直面する喫緊の課題に取り組むために、2019年に日本政府によって立ち上げられた「ムーンショット型研究開発制度」という幅広いプログラムの一環である。
こころの状態の数値化
熊谷は、こころの状態を数値化するに当たっての問題点は、人々がこころの状態を自分自身で数値化するよう求められることだと説明する。例えば、自分がどの程度幸せか、あるいはどの程度イライラしているかを10段階でランク付けするよう求めるアンケートに答えるように求められる。「しかし、自分がどのように考え、どのように感じているかを正確に把握することが難しいと感じる場合もあります」と熊谷は言う。
熊谷をはじめとするムーンショット目標9の研究者らは、個人のこころの状態をより客観的に測定する方法を研究している。例えば、顔の表情を分析するソフトウエア、脳の血流を追跡する機能的磁気共鳴画像法(fMRI)、脳内の電気信号を測定する脳波(EEG)などだ。
ムーンショット目標9のプロジェクトマネージャーの1人で、大阪大学の工学者である中村亨らのチームは、スマートウォッチやスマートリングなどのウエアラブルヘルスモニタリング技術を用いて感情の状態を数値化する、機械学習モデルの開発に取り組んでいる。これらの機器により、人間の音声、身体活動、睡眠などの情報を含む連続的なデータをリアルタイムで収集することができる。
中村は、不安やポジティブな気分といったこころの状態と、その人の身体活動量との間に相関関係があることを明らかにした。
中村によれば、この方法により、日常生活下におけるこころの状態を非常に正確に推定できることが示され、その精度は、実験室環境下で身体活動データから得られた結果と同等あるいはそれ以上だという。中村はまた、音声のトーンと身体活動データの組み合わせに基づいて、「はつらつとした」「沈んだ」「心配な」といったより微妙な状態を識別する研究にも取り組んでいる1。
このようなデータを追跡することは、人々が適切な診断を受ける手助けとなるだけでなく、こころの専門家が早期に介入する上でも役立つ可能性がある。「体とこころの不調を長期間にわたって正確に把握することで、より深刻なこころの疾患が発症する前に介入できるようになると考えています」と熊谷は説明する。
こころの状態の遷移の実現
ムーンショット目標9の次のステップは、ネガティブなこころの状態をよりポジティブな状態へと遷移させる方法を見つけることだと熊谷は述べる。しかし彼は、これは言うほど簡単なことではないことは認めている。「怒ったりイライラしたりしたときに、その感情を鎮めることができればいいのですが、それは非常に難しいことです」。
ムーンショット目標9の研究者の多くは、感情や欲求を制御する経路に関わる神経回路、さらにはそうした回路の調節方法を理解するために、マウスモデルを使った研究を行っている。
例えば、沖縄科学技術大学院大学(OIST)の神経科学者である宮崎勝彦は光技術を用いて、セロトニン神経ネットワーク(気分、衝動の制御、社会行動の調節に重要な役割を果たしている)を調節して、実験中にマウスが食餌の報酬を受け取るまでにどのくらい待てるかを制御する方法について研究を進めている2。
「セロトニンは忍耐力を調整する働きをしている、つまり、将来の報酬を得るために待つ意欲を増減させているのではないかという仮説を立てています」と熊谷は説明する。
宮崎は動物実験で、オプトジェネティクス(光遺伝学)と呼ばれる画期的な生物学的手法を用いている。オプトジェネティクスとは、光、遺伝子操作、光感受性タンパク質を利用して、神経細胞の活動を正確に制御する方法だ。しかし、光遺伝学はヒトに用いるには侵襲性が高過ぎると考えられており、研究者は、ヒトの脳のセロトニン神経ネットワークの活動を微調整する侵襲性のより低い方法を見つけなければならない。
強固な社会基盤
ムーンショット目標9の別のプロジェクトでは、社会的なつながりを改善する方法に焦点を合わせている。これは、強固な社会的な結び付きも、こころのウェルビーイングに不可欠であるという認識に基づいている。
東北大学の神経科学者である筒井健一郎らのチームは、感情の「ホンヤク機」の開発に取り組んでいる。この技術は、感情を識別したり表現したりすることに困難を抱えている自閉症スペクトラムの人々を対象としており、2つの部分から構成されている。すなわち、脳波データ、音声のトーン、その他の手掛かりから他者のこころの状態を推測する「解釈機」と、その状態を仮想現実/拡張現実やロボットシステムを通じてユーザーに伝える「表現機」だ。
仏教やチベットの土着宗教であるボン教について数多くの著作がある熊谷は、このプロジェクトで神経科学を伝統的知識、社会科学、芸術と融合させることに意欲を燃やしている。
ムーンショット目標9のチームは、自分たちの研究を「こころテック」と呼んでいる。こころテックとは、感情、知恵、志など、こころにまつわる様々な概念を取り入れた技術を意味しており、彼らは最近、こころテックの使用に関する一連のガイドラインを策定した。
熊谷らはまた、ムーンショット目標9の各技術が長期的なこころの安らぎをサポートする上でどの程度効果的であるかを測定するための指標の開発にも取り組んでいる。こうした指標は、各技術が、こころのウェルビーイングを支援する上で再現性のある信頼性の高い結果を生み出しているかどうかを検証するための科学的尺度となる。
ムーンショット目標9のチームは現在、「互恵的利他主義」「レジリエンス」といった概念に関する指標のうち、自分たちのプロジェクトに最も関連性の高いものを特定し、その測定の実現可能性について実証試験を行っている。2027年までには、一連の指標が開発される予定だ。
2025年初頭にこのプログラムは3年目が終了し、理論から現実の世界へと踏み出すことになるだろう。「ウエアラブルセンサーを使って、小さな都市でパイロット研究を実施したいと考えています」と熊谷は言う。
「私たちは2050年までに、個人がこころの安らぎ、明晰なこころ、そして深い目的意識を実感できる活力のあるコミュニティーを育むことを目指しています」と彼は付け加える。研究者らはまた、この技術が世界の他の多くの地域でも応用されることを期待している。
参考文献
- M. Song et al. ICASSP 2023 1-5 (2023).
- Taira M. et al. Front. Neurosci. 18 (2024).