プロジェクト概要

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研究総括 香取 秀俊

人類の歴史は、飽くなき「時間の探究」の歴史です。天体の運行から作った暦によるナイル河の氾濫の予測は、その肥沃な土地での農耕を可能にし、古代エジプト繁栄の源となりました。16世紀、ガリレイが振り子の等時性を見出すと、ホイヘンスは精巧な振り子時計を作り、これは大航海時代を支える重要な技術基盤になりました。半世紀前にエッセンが発明したセシウム原子時計は、1967年から「1秒」の定義となり、現在では数千万年に1秒の不確かさを実現します。この日常生活と無縁と思えるほどに進化を遂げた時計は、今や地球規模での高速・大容量通信技術や、GPSによる全地球の正確な測位技術に応用され(カーナビはこの一例です)、グローバル化した現代社会を支える基幹技術です。このように時間計測の技術革新は、文明社会の進展の大きな牽引役になってきました。
一方で、時間の概念は、古来より哲学者、科学者を魅了してきました。17世紀、ニュートンは私たちが日常経験する物体の運動を記述する古典力学を創始しました。20世紀にアインシュタインが相対性理論を発表すると、ニュートンの「絶対時間」や「絶対空間」の概念は崩壊し、相対論的な「時空間」が誕生します。時間の概念の変革は、人類の自然認識にも大きな影響を与えます。
天体の運行や、振り子時計のように、私たちは周期的な現象の、繰り返しの回数を数えることで時間を認識します。時間の研究とは、より正確で安定な周期現象の探索です。20世紀の量子力学建設の立役者は原子分光学でした。原子分光学は原子から放射される光(や電波)の振動数を精密に計測し、そこから原子の内部構造を探ることで、量子の規則性を見出し、量子力学の実験的基礎を与えました。これは現代版の時間研究―原子時計の研究―に繋がっていきます。

この半世紀にわたって、物理学者たちは電磁場のない自由空間に静止した単一の原子に理想の「時計の振り子」を見出す努力をしてきました。1980年代に、(1989年のノーベルを受ける)デーメルトが「単一イオン光時計」を提案すると、これこそが究極の原子時計と目され、世界中で研究開発が始まりました。ところが、今世紀に入る頃から、単一原子の量子揺らぎに起因する時間計測の限界が現実的な困難となってきました。たとえば、1個の「原子の振り子」の振動数を18桁の精度で読み取るには(これは300億年で1秒の狂いを生じる時計を実現します)、量子揺らぎの効果を平均化するためにざっと10日間(100万秒)にわたって計測を続ける必要があります。たとえこの間にわずかな時間の変動があっても平均化されてその事象を観測できません。私たちには、まだ立ち入ることのできない時間領域があるのです。もし、空間に静止して互いに相互作用をしない100万個の原子を用意することができればどうでしょう?100万秒の時間平均をする代わりに、わずか1秒間の測定で18桁の精度に到達可能です。
私たちは従来の原子時計研究の常識に反するアプローチで新たな原子時計の開発に挑みました。いままで排除する対象だった電磁場を利用して原子の位置を制御し、その運動を凍結することで、理想の「原子の振り子」用意しました。これを実現するが、レーザー光の干渉縞で作った原子を詰め込む卵パック―光格子―です。ここで重要なことは、この卵パックの存在を「原子の振り子」に見えないようにすることです。「魔法波長」と名付けた特別なレーザー波長で光格子を構成すると、「原子の振り子」は、卵パックの存在に気付くことなく、原子固有の振動数で時を刻みます。私たちがこの「光格子時計」のアイディアを発表したのは2001年のことです。

光格子のイメージ1 卵パック

(a)3次元的な光の干渉縞を作り、それぞれの電場の腹に原子を1個ずつ捕獲する。(b)魔法波長のレーザー光で光格子を構成するとき、光電場の摂動は遷移周波数を変化させない。

光格子のイメージ2

この「光格子時計」を駆使して「時空の物理学」を探求します。極低温原子操作、量子制御技術、最先端のレーザー制御技術を結集し、セシウム原子時計を遙かに陵駕する精度をもつ「光格子時計」を実現します。「魔法波長」光格子に束縛された100万個の「原子の振り子」を観測することで、理論上1秒の観測時間で18桁の時間を読むことが可能になります。この精度は、ビックバンに始まる宇宙の年齢(137億年)経っても誤差が1秒以下の、まさに人類が手にする究極の時計です。
このような「光格子時計」は、今まで我々が日常的には意識することのなかった相対論的な「時空」の歪みをリアルタイムで読み出します。「光格子時計」の精度では、地上でわずか1cm時計を置く高さを変えるだけで、重力によって時計の進み方が変わることが観測できます。相対論的効果が日常の運動スケールに介入し、これらが数秒という実時間で見えてくると、私たちは他者と同じ時を共有することの難しさを認識せざるを得なくなるでしょう。アインシュタインの相対性理論に啓発されてダリが描いた「時間の固執」に登場する「やわらかい時計」を彷彿とさせる世界観が現実となり、私たちの古典的な「時空」認識は変革を迫られます。このとき原子時計はもはや時間合わせの道具ではなく、曲がった時空を照らし出すプローブとしての役割を担い、新たな計測技術を創出するでしょう。たとえば、重力シフトを高精度に検出することは、地底に眠る資源の探索や地殻変動を観測する、いわば相対論的測地学ともいうべき新たな分野を切り拓くツールとなります。
物理学や原子時計の基礎は、「物理定数は一定不変な量である」という仮定のもとに成り立ってきました。微細構造定数と呼ばれる無次元量は、「原子の振り子」の振動数をスケールする基本的な定数です。これが一定だからこそ、どの原子種で時計を作っても同じ時を刻み続けることが保障されます。異種の高精度原子時計の精密比較は、物理定数の恒常性に関する実験的知見を与える可能性を秘めています。一方、楕円の公転軌道により太陽からの重力ポテンシャルが1年を通して変化する地球上で、異種の原子時計の進み方が異なれば、微細構造定数と重力と結合を示唆するでしょう。このような実験的挑戦は、統一理論構築の実験的基礎を与え、さらにはビッグバンによる宇宙誕生の謎を紐解く鍵となるかもしれません。
このような圧倒的な時計精度を手中に収めつつある私たちは、この新しい時計の有効な利用法を考えるべき時に来ています。エッセンが原子時計を発明した半世紀前に、GPSに搭載された原子時計のカーナビ利用を予期していたでしょうか?実時間で18桁の時間分解能をもつ時計を前に、私たちはダリ以上の想像力を試されています。本プロジェクトでは、相対論的な「時空間」の物理と工学が孕む根源的な問題を探求し、量子計測技術の新たな潮流の創出を目指します。

「ERATO香取創造時空間プロジェクト」は、(独)科学技術振興機構が実施しているERATO事業(戦略的創造研究推進事業(総括実施型研究))として2010年に発足しました。本プロジェクトは、東京大学、理化学研究所、そして(独)科学技術振興機構との協働実施プロジェクトとして、運営されています。

本プロジェクトは以下の機関と協働で実施しています。