110. ユビキタス社会への備え

 ユビキタス社会は、コンピュータ技術、通信技術、半導体素子微細化技術などの進歩によって、インターネット上を大量の情報が高速で走れるようになり、実現の姿が見えてきている。2,3年前までは耳慣れない言葉であった「ユビキタス」はラテン語で「遍在(いつでも、どこでもあるといった意味)」を表す「ユビク」を英語化して使っている言葉で最近はかなり浸透してきている。このコンセプトはやはりというか、1989年アメリカ、シリコンバレーのゼロックス社のパロアルト研究所の提案だとのことであるが、今は東京大学坂村教授をリーダとした日本のアクテイビテイが高いレベルにある。数年からから10年先には、インターネットがこれまで、予想を超えてグローバル社会に与えた大きなインパクトの上に、さらに新たなかつ、異質のインパクトを与え始めるに違いない。日本も当然、好むと好まざるとにかかわらずこの渦の中に取り込まれていくであろう。その受け止め方としては、より充実した社会生活の選択肢が増えるのであるという方向性でありたいものだと思う。この話のように未来に視線をむければ期待に胸躍る面もあるのであるが、足元に目をやるといたるところで危うさが目に付く。

 現場感覚の欠如?

 21世紀にはいって、高校生までの自殺者が毎年100人台いるというのに、その原因がいじめであると判断された例はゼロだという。10月に九州の中学で起こった自殺事件に教師が関与していたとして、文部科学省などはあわてて再調査をしている。そうかと思えば、高校の必修科目の履修漏れがマスコミで取り上げられると数日を経ずいたるところでその事実があることが明らかになる。テレビを見ていてうそのような本当の話に言葉を失う。学校長や教育長の責任感の薄さには驚くばかりである。報告を求めるだけの管理の底の浅さが露呈された。このようなことはこれらに限らないと思い自己点検できる組織でないと、過ちは繰り返される。このような状況を見ていると、人間はいかにも環境の影響を受けやすいことがよく示されている気が強くする。報告を見てぴんと来ない、おかしいと思わない現場感覚の欠如が管理層にはびこっているとすると大変なことになっていく。少子化の課題についての議論以前に正すべきことがある。

 議論が足りない

 電子メールは情報伝達において時間を短縮する効果はきわめて大きい。科学技術によって世の中の進歩がある一方、負の側面もあるのは常態である。電子メールの便利さにあまりに傾斜しすぎていくと、顔が見えない(ネットが高速化し、カメラをPCの前につけてのやり取りも可能になりつつはあるが、それでも限界はある)ことで、いわゆる生身の人間の議論から生まれるものとの乖離が大きくなっていくことが懸念される。Face to Faceのコミュニケーションは単に発せられた言葉以外の多くの情報が重なって脳で処理されるという電子メールではいかに工夫してもカバーしきれない世界があるようにかんじる。人間同士の議論は、意識してやっていかないと、どんどん不足していく方向に動いていく。

カップルが一緒に歩きながら、携帯メールでやり取りをしている(絵文字だらけの?)姿。なぜそんなことになるのかまったく理解できないことが起きている。大人も子供ももっと考え、もっと議論する時間を取り戻す方向に転換しないと大変なことがおきてしまいそうである。

 安倍政権が発足し、教育再生会議(座長は理研の理事長の野依氏)に続いて、新たな成長社会を目指して、2025年の社会像を描いてその実現に向けてどう進めていくかの議論をする場が設定された。イノベーション25は、座長が前学術会議会長の黒川氏に決まり、そのリーダシップに期待がかかっている。イノベーションの基本は変えることである。変えることは決して快適でないと感じる人たちが力を持っている側にいる場合は容易ではない。しかし、グローバルにイノベーションが競われている時代に入った今、遅れをとったら日本の将来はないのである。

 2025年の日本社会はユビキタス社会がどこまで進化していると描くかによっても違った見え方になる。日本をよりクリエイテイブな社会に変えていく道具として活かしていくための、制度改革や、教育改革などについての備えも着実に進めていきたいものである。

 


                              篠原 紘一(2006.11.2)

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